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犠牲〜残す者、残される者


注)FF10に関してネタバレがあります。
  まだクリアしてない方は、ご注意願います。

今年は、小泉首相の靖国神社参拝問題で、
例年以上に戦争の話題が、マスメディア等で語られました。
有識者と呼ばれる人たちが、テレビで意見を述べたり、
街頭では、デモ行進や演説していたりと、
15日前後の東京は、一種異様な雰囲気さえありました。

こういう戦争の話題が語られるとき、
あなたは国のために死ねるかとか、
不本意にも犠牲になった方々の犠牲の上に、
今の平和が成り立っている、というようなことがよく言われます。

21世紀を迎えた今、正直な話、
こういう命を賭した「犠牲」というものは、
想像することすら、困難であるように思えます。
少なくとも、わたしはそうなんで。

しかし、あることをしているときに、
ふと「犠牲」ということにまつわる気持ちって、
こういう感じかと、以前よりは想像可能な範囲に
近づけたような気がしたんです。

それは、ファイナルファンタジーの最新作、
ファイナルファンタジー10を
プレイしていたときのことです。

ファミ通の浜村編集長が言っていたように、
いわゆる勧善懲悪モノから抜け出して、
ある種のメッセージを背負って進んできたのが、
ファイナルファンタジーであったように思います。

個人的には、FF6は「愛情」、
FF7は「環境と生物」、FF9「自律」というように、
これがテーマかな、というものを感じます。
# FF8はあまりやりこんでいないので、
# よく分からないんですけどね。

そこで、FF10はというと。
おそらく「犠牲」なのではないか、と思うのです。

召喚士ユウナの父ブラスカは、
ガードであるティーダの父、ジェクトを究極召喚獣として
復活しないことを祈りつつシンを倒し、命を落とす。
しかし、やはり究極召喚獣となったジェクトが新たなシンとなり、
復活してしまう。

そしてまた、娘のユウナも自らの命を賭けて、
シンを倒すことを決心する。
一方、そのような犠牲っておかしいじゃないかと
必死で犠牲のない打開策を見つけようとする
アルベド族のリュック。

おそらく、今の時代の感覚は、
アルベド族や都市文明の発達していた1000年前の
住人である主人公ティーダに
近いんでしょうけど、
平和の為なら、固く決心するユウナの、
怖いくらいのひたむきさを、
単純に否定し尽くせるかと言うと、
必ずしもそうできないのは、不思議なものです。

ザナルカンドまで到達してしまうと
ユウナが究極召喚を手に入れてしまう、
そしてこのままじゃユウナが命を落としてしまう、
というティーダとリュックの焦り。
この世の風景を心に焼き付け、
また、行く先々でメッセージを残そうとするユウナ。

単に映像を見せているのではなく、
自分で操作するRPGであるからこそ、
その感覚は主体的なものとなって、感じられてきます。
平和の為という大義名分のためなら、
どんなに犠牲を払ってもいいのか?
自分の存在価値がそういうものでもいいのか?

そして、クライマックス。
1000年前の住人が、今いるのは、
1000年前にザナルカンドの住人が
見た夢によって創られた幻の世界。
主人公ティーダもまた、夢が実体化したにすぎなかった。

そしてまた召喚獣も、実体のない祈り子が
具現化した姿。
夢を具現化する元をつぶさねば、シンは永久に復活する。
しかし、1000年前の夢もまた潰える。
ティーダは、自らの手でシンとなった父、ジェクトを葬り、
シンを作り出す元、死人の夢を具現化させる元を
叩き潰し、そして消えてしまった。そのことを知りながら。

彼は、ユウナを抱きしめ、
笑って、消えていった。
リュックの「また、会えるんだよね?」
という呼びかけが、空しく響いた。

エンディングで、残されたユウナは、
大勢の人の前で、シンを永久に消滅させた
偉大なる召喚士として、真の平和の到来を宣言する。
しかし、自らが犠牲となりこの世から消えるはずであったのに、
自分の大切な人が、この世界の摂理とはいえ、
代わりに消えてしまったという事態。

そしてこのとき、平和になったはずなのに、
どこか釈然としない気持ちこそが、
戦友が特攻隊で亡くなったのに、
自分は、特攻隊員として出撃する前に、
終戦を迎えた人々の気持ちに近いような気がしました。

ユウナは言います。
もうシンは復活しないけれど、
消えていった人たちのことを、
たまには思い出してみてください、と。
彼らの脳裏から、ティーダやアーロンのことが、
消えることはないでしょう。
第二次大戦で戦友を失った特攻隊の人のように。

この作品では、どこかとどこかが
戦争したというわけではありません。
しかし、平和の為に命を賭ける覚悟をした人、
そしてその為に自分が犠牲となって、大切な人をこの世に残した人、
そして、残された人がどういうことを経験するのか、
そんな、平和という「常態」しか知らない人間にとって、
戦争をテーマにしたドキュメントと同じくらいの
メッセージ性を持って、心に迫ってきた思いがします。

戦争の問題、歴史の問題は難しいものです。
しかし、賛成か反対かという二元論に
凝り固まってしまっては、
一番大切な「伝えるべきこと」を
見失うような気がしてなりません。

ファイナルファンタジーのメッセージ性と、
犠牲・戦争の問題の難しさに、
しばし考えいる2001年の夏でした。

2001-8-28 
大阪・梅田のインターネットカフェより


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