自宅で住んでいるか、一人暮らしをしているか
に関係なく、よく寂しいという
言葉を聞くような気がします。今、寮で一人暮らしをしているから、
というわけでもなさそうで、
大阪の自宅にいたころから
そういう声があることを知っていました。
最近、特によく聞くようになった気がするのは、
気のせいでしょうかね。みんなと遊んでいると、楽しくて、
すぐに時間が過ぎて。
でも、独りになると、寂しくて、
時間がなかなか過ぎなくて。
だから、バカ話をやっている時間がもっとほしい…と。わたしは、孤独と人付き合いの話になるとき、
算数をたとえにして考えることが、多くなりました。
どういうのかと言えば、
孤独を楽しむのは、足し算、
人付き合いを楽しむのは、かけ算、
というものです。わたしにとって、孤独とは、
それはそれで、味のあるものだし、
また必要なことだと、自然に思えてきます。
独りで楽しむすべは、いっぱいあるでしょ。例えば、いろいろなことに考えを巡らすことは、
出費のいらない手軽な愉しみ、です。ネタは、何でもいい。これからのこと、
政治経済や歴史のこと、音楽のこと、今やりたいこと、
女の子のこと、パソコンのこと、
わたしだけかもしれませんが、
ネタに困るなんていうことは、まずないんですね。ほかにも、読書なんていうのも、そうかもしれません。
自分で考える以上に、知識を得たり、
共感したり、感動したり、
あるいは、眉をひそめて、
これはおかしいぞ、鼻息も荒く文句を
言いたい気分になることもあるかもしれませんねぇ。しかし、それは足し算でしかない、
ということも、また事実。
所詮は、自分という人間一人でできることなど、
たかがしれているわけで。
積み重ねていく人生の充実度という
足し算の先にある数字は、
ささやかなものでしかないでしょうね。それに引き替え、人付き合いは、
いろいろなことを共に経験できる。
自分ができなかったことを、聞くことができる。
自分にないものを、得ることができるかもしれないし、
自分について、再発見できることもあるかもしれない。もちろん、自分にとって厳しい状況が
できてしまうことも多々ありますが、
後には、必ず何らかの「おいしいおみやげ」を
残していってくれます。その意味では、かけ算のイコールの先は、
どんどん増えていく、はずです。
だから、人付き合いを避けるということは、
よくないことだ、とすぐ考えるのかもしれません。これは、間違ってはいないと思います。
でも、よくよく考えると、
足し算は、ゼロからでも増やすことができますけど、
かけ算では、元がゼロなら、
どんな大きな数字をかけても、ゼロのままですよね。加えて、今はかけ算をしやすくなるように、
時代が動いているように思えます。
昔では、ポケットベルなどがそうでしたが、
いまでは、インターネットや携帯電話、
といったところでしょう。
とにかく、人とつながりをもつきっかけをつくることは、
やりやすい時代であるように思います。だからこそ、少しきつい言い方になってしまいますが、
口を開けば、寂しいと言っている人たちは、
ゼロにやたらとどんどん数字をかけて、
でも、ちっとも満たされなくて、
イライラしているような気がするんですね。
そういう感覚を、あたかも傷をなめあうように共有し、
ヒトの存在を求めている…人は、誰でも、他人なしには生きてはいけない。
これは、すぐに分かることです。
でも、知っている人がこんなにいっぱいいるのに、
どうしてそんなに寂しがるのだろう、
そんなことをそれが、すごくわたしには疑問でした。かけ算の回数を多くすることが、
そんなことが、大切なことだろうか?
大切なのは、イコールの先ではないのか?
努力するところが間違っていないか?友人って、自分にとって何だろうか?
俺は今、何をしているのだろうか?
俺は、何なんだ?そんな答えのでるはずもない問いかけの、
最後の最後で、自分が人と人との
関係の中で生きていること、
そんなことを実感できませんか?訳もなく寂しい時、というのは、
人間そのものに対する漠然とした信頼感が、
ちょっと薄くなりかけている時、ような気がします。そんなときに、自分と独りで向き合うことは、
厳しいことかもしれません。
それだったら、手軽に誰かとつながって、
一時でも多く、忘我の境地にいたい、
と思うかもしれません。しかし、生産的でない寂しさを浄化するには、
人間一般への信頼感が大切だと、心底思います。
自分が誰かとつながっていて、
誰かの助けがなくては生きてはいけないことは、
どう考えても事実ですから、
後はその事実を、体で感じることが
できるかどうかです。独りでいる時間、自分と対話する時間。
そして、少しずつ足し算をしていって、
もしも、かけ算のチャンスがきたら、
その効果をぐっと高めることができるように。誰かのために向けられた寂しさじゃなく、
不特定多数に向けられた寂しさというのは、
カラ元気を出しているように、
見えるせいか、かえって痛々しいものがあります。渇いた心を癒せるのは、
自分にしか生み出せない水です。
他人の好意は、助けになる触媒でしかありません。
渇いた心には、温かな好意も通じないことが
あるんですから。2001-5-6