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真面目・進化論


真面目って言葉がありますよね。
辞書的には、いい意味なんでしょうけど、
どこか融通の利かなさを蔑むような、
そんな響きもあります。

わたしの高校時代の現代国語の先生が、
こんなことを言ったことがあります。

真面目、不真面目、非真面目。

非真面目って何か、と言いますと、
真面目か不真面目か、そういう基準を超えた位置にあること、
というように聞いたように思います。
要は、そんなつまらない価値観に
とらわれなくてもいいじゃないか、ということだろうと、
わたしは受け取りました。

そのときは、あぁ、そうかもな
と思ったことは確かですが、
実際、例えて言うなら、頭で分かって、
心で分かっていないというような、
そんな中途半端な感じだったかもしれません。

ただ最近、あぁ、こういうことかと、
実感できることがありましてね。
まだ、研修期間中なんですが、
同期のある一人が、みんな真面目すぎるよ、
って言っていたんですよ。

まぁ、あまりに会社に忠実で、
入社早々、寝食惜しんで、
なぁんて時も数回ありましたんで、
そういうのも、分からないではないですがね。

でもそのとき、わたしはその言葉に対して、
なぜか変な関心のもち方をしてしまいまして。
というのは、何で研修に真剣に取り組むということが、
さらに言えば、なぜそう言うことだけが、
「真面目」ということばで表されるのであろうか、と。

まぁ、言いか悪いかは別にして、
ここは、本気で行くところではなく、
今は、無難にこなしていればよい、
という新入社員がいたとして、その新人が、別のところ、
例えば、将来の自己像を思い描くことに、
時間を費やしていたとしても、
それは、ある意味「真面目」だと思います。

いや、もっと極端に、
今は、まだ遊んでいられると考えて、
どんなことを始めようかと、
スキューバダイビング、スノーボード…
なんて考えているのも、
やりたいことをできるときにしておこうと
真剣に考えているという点では、
やはり「真面目」だと思うのです。

まぁ、わたしの性格的なところでは、
三つ目の意見には、賛同しかねますが、
同期の「真面目」の言葉を聞いたとき、
「真面目」という言葉には、何かに真剣に取り組む、
というだけではなく、何に真剣に取り組むのか、
ということまで、規定されている感じがしたんですね。

例えばわたしは、人並み以上には受験勉強をしたほうです。
しかも、それは自分の中で、いい記憶として残っていますし、
今でも、その成績表を見返すと、
そのときの記憶が蘇り、ヤル気が出てきたりしますし。

しかし、それはわたしが「真面目」だったから、
というよりは、勉強に楽しみを見いだせたからであり、
たまたま、楽しみを見出せたことのひとつに、
これを真剣に取り組んだら、「真面目」
という評価が与えられる「学校の勉強」があった
ということに過ぎないように、今となっては思います。

事実、どんな人でも、好きなことを
不真面目にはしないと思いませんか?
競馬に夢中になっている人が、いい加減に予想を立てたり、
根っからのパチンカーが、適当に打っているとは思えません。
むしろ、真剣に頭のほとんどのパワーを、
つぎ込んでいるはずでしょう。

世間一般には、競馬やパチンコに、はまっていると言うと、
「真面目」というカテゴリからは、
外れるのかもしれませんが、
しかしそれは、興味の対象が違うというだけで、
いわゆる「真面目」と言われている人たちの特徴と、
さほど変わりがないように思えてくるんですよ。

どんなことに真剣になっていようとも、
それはやはり、「真面目」なんだろうと思います。
もちろん、犯罪に真面目なんて言うのはダメですが、

「そんなことに真面目になってはいけません」

なんていう叱り方には、どこか違和感があるくらい、
真面目という言葉には、真剣になる対象が、
漠然とでも人々の頭の中で、
固定化しているのかもしれません。
真剣になるべきは、こういうことであって、
あとはどうでもいいんだ、というようなかたちで。

非真面目ということは、ひょっとすると、
何に真剣になるかは、自分自身で決めろ、
真面目という言葉が指すような、
決まりきったことに真剣にならなくていいんだ、
ということかもしれません。

「真面目」という言葉の指す行動は、
すごくいいことなんですから、
「真面目」という言葉につきまとう、
妙なイメージがなくなって、
イヤな印象のない言葉に、なってほしいものですね。

ひょっとすると、手垢にまみれた「真面目」よりも、
もっと新鮮な印象を受ける、別の言葉が
できてくるのかもしれませんが。

2001-5-21


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