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余暇と仕事のあいだには


今、資格取得というものが流行っているようです。
もっとも、今に始まったことではないかもしれませんが、
終身雇用が保証されないご時世に、
企業外でも通用する能力の証明をしよう、
ということで、資格をとる人が多いのでしょうか。

わたしの友人の中にも、いろいろな者がいまして、
公認会計士受験を目指して挫折したヤツ、
とりあえず、簿記だの情報処理とか、
システムアドミニストレータ初級なんていうのを
取っておこうか、といって受験したヤツなどさまざまです。

一般的に、大学生が比較的気軽に受験できる資格は、
その資格をもっていることによって、
給料に一定金額上乗せ、といったメリットはあまりないようです。
しかし、資格をとろうとした積極性は、
ヤル気の証明というかたちで、
汲み取ってもらえる場合があるみたいですね。

さてさて、わたし自身はどうかと言うと…
正直に言って、あまり乗り気じゃなかったというか、

「あっ、これだ!」

というのがなかったというか、
受験したのは、漢字検定くらいのものです。

でも、今受けないにしても、
将来、挑戦してみてもいいかな、と思って
資格に関する本を買って読んでいました。

そんな時に見つけたマイナー(?)な資格。
それが「余暇生活開発士」です。
これは、日本レクリエーション協会が認定する民間資格なんですが、
この協会が文部科学省の外郭団体ということで、
公共的性質が強いような気がしました。

余暇を上手く活用できるようアドバイスをしたり、
余暇を充実できるような、余暇開発プログラムをつくったり、
余暇の楽しみ方を提案したり、ということが仕事のようです。

この資格は、まだ新しい資格ですが、
おそらく「会社人間」で定年を迎えた高齢者で、
余暇を持て余してどうしてよいのか分からない、という人が多いことや、
いわゆる仕事重視、生産重視で、仕事という、
たった一つのことしか分からないような人が増えてしまった、
ということに対する反省があるからでしょう。

しかし、そもそも仕事以外にも、
もっと有意義な時間をつくって楽しもうとするのに、
これを「余暇」と呼ぶのはいかがなものか、って思います。
だって、「余」った「暇」な時間ということでしょ?

それでいて、仕事中心から余暇中心へと
ライフスタイルを転換するべきだ、
なんて説くんだから、ちょっと矛盾しているような、
そうでないような、不思議な気分になります。

ま、それはさておき、余暇をもっと大切に、
って言うのは、至極結構なこと。
ですが、ネットで検索して調べて行くうちに、
ちょっとこの資格の趣旨と考え方の違いもありまして。

そもそも、「仕事」と「余暇」を分ける基準は、
いったい何なんでしょう?
やはり何といっても、所得につながるかどうかでしょうね。
でも、仕事と余暇を分けるこの基準は、
その意味以上の力というか、壁というか、
そのようなものの存在を感じます。

というのは、余暇時間を充実させるということの中に、
仕事を軽視するというか、必要悪として
考えるようなことが含まれているように思えたからなんです。
例えば、労働時間が長いということです。
でも、海外でお店の昼休みが長かったりすると、
日本人の感覚からすると、もっと働けよ、
と言いたくなりますが、労働時間を短くせよ、
ということには、そういうデメリットもあるはずです。

さらに、余暇時間開発士の人が書いた文章を読むと、
企業が主導する従来型のお金がかかる楽しみを、
「気晴らし休息」や「させられる娯楽」などと呼んで、
語弊を恐れず言えば、見下したような気がするんですね。

でもそれは、ちょうど働きバチと呼ばれた日本人が
仕事一本槍で、自分の遊びや娯楽なんていうのは、
どうでもいいことだと考えていた、
あの蔑む感覚を企業や企業のつくるものに被せている、
というような気がして。
例えて言うなら、「仕事重視」にマイナスの符号を
つけたようなものです。

自分のもっている時間のうち、仕事に費やす時間が大切だ、
というのは、それなりに説得力のあることです。
その理由も至極簡単なこと、
お金がないと、生きてゆけないからです。
何かにつけてお金は要りますから。

いや、それだけではないでしょう。
少人数ではできないような大きなことをする充実感、
といったようなこともあるかもしれません。

一方、仕事以外の時間が大切だというほうにも、
また一定の筋が通ってはいます。
お金をもらうために生きているのか、
生きるためにお金をもらうのか、
普通なら、答えは後者でしょう。

でも、いったん所得につながるかどうか
という基準を取り払って考えてみると、
どちらの属する時間も、自分の時間です。
それに、仕事に時間が充実せず、余暇の時間が楽しいもの、
というのも、必ずしも当てはまることではないようです。
どちらが手段であって、どちらが目的であるかということは、
ニワトリかタマゴか、で睨み合っているに過ぎないわけで。

楽しくありたい、幸せに生きたい、充実した人生を送りたい、
各人各人、いろいろな表現ができる、
このようなささやかな希望のためという点においては、
仕事も余暇も変わりがないことです。

「豊かにしてきた人間」は、余暇時間ばかり気にする
「豊かな時代に生まれた人間」のことを
頼りなく思うかもしれないですし、
「豊かな時代に生まれた人間」は、仕事のことばかり考えていて、
余暇時間を持て余している「豊かにしてきた人間」のことを、
時代遅れの堅物だと思うかもしれません。

でも、大切なのは、仕事か余暇かではなくて、
仕事−余暇という二元論を克服することなんじゃないの、
と思うんですよ。

そう考えると、余暇をどうするかという問題は、
定年退職した高齢者の問題だけではなさそうです。

ちなみに、経済学はお金に関する学問と思われていますが、
その答えは半分あたりで半分間違いです。
本当は、「資源配分の最適化」を研究する学問です。

お金をはじめ、さまざまな財やサービス、
水産資源、鉱物資源やエネルギー、
それに、時間や人間の意識など、
広く資源と呼べるものは、存在する量が限られています。

なので、全部思うようにしようとすると、
その「資源」がいくらあったって足りない、
だから限られた資源を、どういう場面にどれだけ
ふりわけるのがいいか、ということを考えるわけです。

個人レベルでいえば、資源に当たるのは、
所得であったり、時間であったり、意識であったりするでしょうか。
そのふりわけ方は、仕事−余暇という線引きからはみ出ていたって
構わないような気がするんですけどね。

2001-2-15


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