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ネットの向こうに何を見る


世の中には、雑誌が数多く出版されておりまして、
自分の興味のあることに限ってみても、
雑誌から多くの情報を手に入れようとすると、
雑誌代もバカにはできないものです。

以前は、ゲーム雑誌をよく買っていましたが、
メールマガジンで最新ゲームの情報を
得ることができるようになると、
ゲーム雑誌はあまり頻繁に買わなくなりましたし、
パソコン雑誌も、始めてすぐの頃はよく買いましたが、
今では、気になったら買うという程度です。

そんな中、たまたま買ったある雑誌に
ちょっと気になる記事がありました。

「タレントとメル友(?)になれるサイト」

なぜ、(?)がついているのかと言うと、
タレント自身が返信するわけではないからなんですね。

現在、契約しているタレントは、
女性タレントばかり10人と言うことらしいのですが、
そういった契約されたタレントや
アーティストの好きな言葉、
趣味やメールでよく使う言葉などを
事前に登録しておいて、
人工知能をもったサーバに情報を保存しておくようです。

そして利用者がメールを送信すると、
そのサーバが自動的に内容を解析して、
内容に合った「その人らしい」メールを
自動的に送信する、というもの。

おそらく、面白そうなんじゃないの、という肯定派と、
あんなの面白くも何ともないよっ、という否定派の
どちらかに二分されるでしょうけども、
わたしは、こういうサービス(?)が
成り立つこと自体が不思議でなりません。

まぁ、成り立っていて雑誌にも載るわけですから、
そういうメールをもらってうれしがる人がいる、
という予想を立てているのでしょうけど…

インターネットが面白いとすれば、
それは、ネットの向こうに「生身の人間」がいるから、
そう言っていたのは、このサイトでも紹介している
『ほぼ日刊イトイ新聞』を主宰している糸井重里氏です。

わたしの場合、もちろんスタンドアローンで、
つまりネットに接続せずに使っていたときも、
それなりに、楽しかったわけなんですけど、
昨年に自宅でインターネットをするようになって、
やっぱり人とつながった方が楽しいなぁ、
と思っていたので、非常に納得して
聴いていたのを憶えています。

もっとも、わたしの場合は、一気にいっぱい増えすぎても
手が負えない気がして、爆発的に「つながった人」が増える
というわけではなかったんですけどね。

糸井氏は、『ほぼ日刊イトイ新聞』で
毎日更新されている糸井氏が毎日書いている「今日のダーリン」
で面白いことを言っています。

それは、2000年7月12日の「今日のダーリン」なんですが、
孔子の『論語』に出てくる

「朋あり遠方より来たる、亦愉しからず乎」

というフレーズって、インターネットのことじゃないの、
という解釈。すごくこの解釈が好きなんですけども、個人的には。

ってまた脱線してきたので、話を戻しますと、
インターネットやってて何が楽しいの、
と訊かれると、たぶんこう答えると思います。
ディスプレイの向こうで、関心をもってくれている「ひと」がいる。
その人々を見つける機会(いや、機械でも意味が通じるけど)がある。
関心をもってくれている人と意志の疎通ができる。

これは、メーリングリストなどの個人同士のことだけではなくて、
企業と消費者の関係でもそうだと経験的に思います。
ある企業に、質問のメールを出したとき、
明らかに雛型で作ったメールをずいぶん待たされてもらった場合と、
その担当の方が、自分の言葉で書いたメールを
すぐにもらった場合があったんですが、
やはり、その人が書いたなって分かる文章はうれしいものです。

人によっては、こういう感覚を「アナログ的」
というのかもしれませんが、
インターネットという「デジタルな」ものと
向き合っているからこそ、
実は人間にとって、すごく大切だ、
と実感できる場合もありますしね。

こういうところをないがしろにするから、
パソコンとかインターネットに懐疑的な人に、
「それ、みたことか」とか、
「やっぱりインターネットなんて怪しいシロモノだな」
などとと思わせてしまうのかもしれません。

で、先ほどの「自動ファンレター返信サービス」ですが、
この「サービス」は、やはり人がうれしさを覚える点を
どこか誤解しているように思えてなりません。

気になるのはまず、有名人を特別扱いにして、
返信してあげるから、金をくれというのは、
あんまりじゃないの、ということ。
だって、普通の手紙の場合に置き換えれば、
ファンレターを出して返信してほしかったら、
お金をよこせ、ってことでしょ。

もうひとつは、人はメールに含まれた文字データに
かけがいのない価値を見いだすのではなく、
文字データの向こう側にある「アナログ的」な
に価値を見出すということです。

インターネットの世界では、
オフラインの世界では無名なのに、
そのコミュニティの中では、
有名人のような立場にいる人が、
数の上では少数ですが、存在するようです。

でも、そういう人たちは、
自分から特別な立場に立とうとして、
そうなっているのではなくて、
ネットを通してその人と接点をもったことによって、
周りの人間が、なんか応援したくなるような、
そういう「アナログな」魅力をもっている方が多いんですね。

なので、有名人とメール交換ができることの対価として
お金を渡すことはミジメじゃないかなぁ、と。
お金を渡して、メールを「出させてもらっている」人と、
お金をもらって、メールを「出してやっている」人との間に
こんな信頼関係なんて、出てこないような気がしますし。

人と人の関係が続くということは、
メールの関係であれ、対面による関係であれ、
やっぱり互いに関心があって、
何かを汲み取ろうとしたくなったり、
何かを伝えたいという気持ちがいつもある、
ということだと考えています。

よくメールじゃ気持ちが伝わらない、という人がいます。
でも、手紙でも電話でも、あるいは実際にあっても、
気持ちが伝わらないときは、伝わらないものです。
伝わらないのは、ホントに手段のせい?
とよく思います。

メール、つまりでディスプレイ上の文字を読んで、
相手の気持ちを汲み取れないのなら、
人間は、本を読んで感動したり、
共感したり、納得したりできません。
どちらも手書きではない、「機械の文字」だからです。

有名人とメールしたいという人への返信に
必要な要素だけを抽出して自動的に返信するのと、
本人が金銭的な理由からではなく、
関心をもって返信するのとその違いはなんだろう、
そう考えると、やっぱり最終的には
「アナログ的」なうれしさへの意識が行ってしまいます。

小さな記事でしたが、こんなにも気になるのは、
せっかく、新しい面白さが生まれてきたのに、
わざわざ、その面白さをつぶされている気がして、
すごく残念で、悔しいからなんですよね。
ホント、不思議なものです、
別に、自分がどうのこうのということではないのに。

インターネットはさまざまな可能性があります。
なので、いろんな人がいろんなところに価値を見出して、
さまざまな応用を考え出します。
でも、インターネットを単なる金のなる木だ、
とだけは思ってもらいたくないものです。

もし、ネットの向こうが無人なら、
インターネットにどんな価値を見いだすのでしょうか…
どこかで、AIBOに対するわだかまりと、
テーマがかぶったなぁと反省しつつ…

2001-1-20


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