さて、ついにやって来ました、21世紀。
今日は、我が家でとっている新聞で
気になる記事が書いてあったので、
その話題に関することです。どの新聞でも、年頭のあたって、
今年の見通しとか、今の社会を論じる文章が、
載っているのではないか、と思います。1月4日の新聞にこんな見出しで、
「平成十三年はしがき」が書かれてありました。「自分探し」より「神探し」
ざっと、読んでう〜んと唸ってしまったのですが。
簡単に要約するならば、
こういうことになるのでしょうか。
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日本人の心に「神」が失われてしまったために、
正月もつまらない行事になった。
日本人が「神」を捨ててしまったのは、
明治以降の近代化の時期である。もうひとつの契機は、1945年の敗戦。
敗戦のキズから立ち上がるため、
西欧の「個人の尊厳」という概念に
飛びついたからだ。そもそも、この思想は、
キリスト教の神のみが持っていたはずの尊厳性を
キリスト教の俗化や人間の傲慢によって、
人間にも与えてしまったことに始まる。
その結果、生まれながらにして人間は尊いものだと、
思い上がるようになった。日本人は、そういう思想をキリスト教と
切り離して受容したために、
自分が無条件に尊い存在であると勘違いし、
自分を律することを忘れた。しかし今では、その「個人の尊厳」の本家本元である、
ヨーロッパやアメリカで、
逆にキリスト教が人々の心の中に戻りつつある。今の日本の道徳的退廃が、
「神なき社会」の結果であることは疑うまでもない。
日本人は、かつてさまざまなものに神性を見いだして、
頭(こうべ)を垂れる民族だったはずだ。今、若者の間でよく聞かれる「自分探し」などよりも、
いわば「神探し」のほうがずっと大切ではないか。
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わたしには、この文章が人に共感の感情を
どれだけ持ってもらえるのか疑問だと思います。なぜ、人間に尊厳性を与えることが、
人間の傲慢なのか。個人が尊重されることが、
どうして自分を律することを
忘れることになるのか。道徳的退廃が、神の喪失によると断言しているが、
なぜ断言できるのか、そんな簡単なものか。
少なくとも、それは自明のことではないはずではないか…よくあることですが、現在の問題点を考えるときに、
きまって、昔はよくて、今は悪い、
という構図をとる人は、かなりいます。当然昔にもよいところがあり、悪いところがあり、
今の悪いところがあり、よいところがあるはずです。
以前に書いたような気もしますが、
少なくとも、先人の努力と苦労の結晶の悪口を言うことは、
その恩恵に与っている人間のなすことではありません。ここでは、「神」がもはや日本人の心から
消えてしまったことを憂慮している文章です。
昔は、神を敬う気持ちがあり、よかった。
でも、今はそれがなく、ダメだ。
そういう文章ですね。でも、突き詰めて考えようとするならば、
そもそも「神」とはなんだったのか、
そこから始める必要がありそうです。専門的な見解などは当然用意されているのでしょうけど、
それに従うのではなく、自分に問いかけてみるという、
その点を大切にしながら。改めて、「神」とは何者か。
どの民族も自身の民族独自の神話をもっている
ということを聞いたことがあります。
そこで、素人ながら思うのは、
人々の間で共有された文化の象徴ではないか、
ということです。そこには、政治があり、芸術があり、経済があり、
哲学があり、倫理があり、信仰心があります。
いや、科学の片鱗さえあるかもしれません。
そして、それらが複雑に絡み合っている、
といった印象があります。ですから、「神」とは実際には、
その「神」の心をもった人々の間で共有されるような、
統一性・同一性のシンボルとなりうるかもしれないな、と。
キリスト教が、かつて異なった信仰のしかたをした人々を
「異端者」として迫害してのも、分からないこともありません。たとえ、皆と同じく信仰するよう迫ってくる「神」であっても、
目的を与えてくれるという意味においては、
現在でも、人々の心の安らぎのありかかもしれません。
人は、自由であることを望みましたが、
また自由の重みに耐え切れず、
絶対者にすがりたくなるのもまた人間ですから。連続して登場しますが、「生のリアリティ」がないというのも、
神はもはや死に、経済的地位すらももはや目標とはなりえない、
そんななか、目標を見つけるなんてできないことだ、
でも目標がないと、自分が、他の誰でもないはずの自分が
生きているという実感をどこから得ればよいのか、分からない、
そういうことだ、と個人的には理解しています。現代社会を「神なき社会」と表すことができるのは、
社会全体で共有できるものがなく、
個人間・地域間・社会間の関係、それにこれら同士の関係を、
どうやってつくっていいのか、いつも手探りの状況で、
確証をもてないからかな、という気がします。しかし、この一体性・統一性は、
本来「個人の尊厳」とは対立しないんじゃないの?
というのが、冒頭で考え込んでしまったときの
違和感だったわけで。個人の尊厳がどういう経緯で、出現したのであれ、
それは無条件・無制限の尊厳ではないのは、当然だったはずです。
自分で決めることができ、その責任を負うがゆえに、
尊厳性を付与されるのですから。ただ、日本では個人の尊厳とか、自由とかそういう
西欧起源の概念が表面的に、しかもある時点から、
急激に導入されていったという経緯がありますから、
例えば、自由=勝手気ままでやりたい放題という
イメージが出来上がってしまったのかもしれませんが。わたしは、多くの人間の心にまたがって、
存在しようとする「神」が
再び人々の心に宿ることがよいことなのか、
それを確信をもって判断できません。でも、多くの人の心を支配し、
それゆえ、皆が同じ習慣に従うことよりも大切なのは、
純粋に畏怖する気持ちをもっているか
ということじゃないかと思うんですけどね。自分を、自分の属する地域・組織・社会・種を
中心だとか、頂点にあるだとかいった、
思い上がった心情に支配されることなく、謙虚であること。
自分のルーツに対して感謝と尊敬と畏怖の気持ちをもつこと。それをどういう行為で表現するのか、
どういう時期に行うのかということを、
社会とか国家のレベルで共有しなくてもいいような気がします。
国家にはもっと別に共有するべきことが
ありそうな気がするのは、わたしだけかもしれませんが。別に、正月に神を迎えなくてもいい、
俺は別の日に祝いたいんだ、と言ってもいいだろうと思うんです。
そんなことを何らかの形で強制しても、
一種のレジャー化した「初詣」と同じようになります。
レジャー化した「初詣」には、
もはや、神の息吹は感じられないのです。戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍し、
近代的な思想をもっていた、と評価される
織田信長の少年時代に、こんなエピソードがあります。織田家の長男信長は、ガキ大将のような少年で、
武家の息子を連れ立って、農村を駈けずり回っていた、
と伝えられています。
一方、次男信行は、礼儀正しく落ち着いた少年でした。
そんなわけで、織田家内では、
御世継ぎは、信行さまになるんじゃなかろうか、
との声も囁かれるほどでした。で、織田家の当主、織田信秀が亡くなったときのこと。
その葬儀に次男信行は、正装をして参列しているのですが、
後を継ぐべき信長は姿すら見せません。
父上の葬儀すら姿を見せないなんて、
と思う重臣が多かったそうです。が、葬儀の途中、信長はいつも農村を駈けずり回っている
薄汚い格好で現われました。
その格好だけでも、重臣は驚いたのに、
信長はなんと、焼香をガッとつかんで、
父・信秀の位牌に向かって振りまいてしまったのです。もちろん、この行動が非常識極まりないと、
当時は思われたことしょうけども、
現在では、信長が父の死を悼む気持ちを
自分が納得できるやり方でしたかった、
と解釈されているようです。まぁ、もっともエピソードというものは、
つくられたものも多いものですから、
真偽の程は分かりませんが。で、何が言いたいかというと、
極端ですけど、信長のホントの気持ちが
あらわれているような気がするということです。彼に、父の死を悼む気持ちがなかったのではありません。
どうして、親父は死んでしまったのか…
最大の理解者だった父・信秀の死を
悔しく、悲しく、めいいっぱい思うことが、
大事じゃないか、とそう考えていたのではないかと、
勝手に思っています。どうして、そんな人生の幕引きにまで、
澄ました顔をして、お行儀よく座っているんだ、と。
本当に、お前らに親父の死を悲しむ気持ちがあるのか、と。たしかに、あまりに過激な方法であったために、
周囲の人間に対する配慮が足りないということは確かですけど、
今、葬式を開かず、お別れ会という形にしたり、
骨を墓に埋めるんではなく、散骨したりというような、
そんな感覚と共通するような印象を受けるのですけどね。
「哀悼の気持ち」を自分が思うようなかたちで
表現したいという感覚なんでしょうか。必要なのは、「自分探し」ではなく、「神探し」である
と書かれてありましたが、どちらも当たっているとはいえないでしょう。「自分」は探すものではなく、各々の心ではぐぐむもの。
「神」も探すものではなく、各々の心に宿すもの。我々には、各人各人の「神」の解釈が許されるはずです。
たとえ、神が存在するとしても、
もはや神は、人々を横断する存在ではなく、
その中核を同じくしながらも、各々のかたちで変化していく。
平成にまします神々は、いろんなお姿をしておられることでしょう。はぁ、全く正月早々、お堅い話でのスタートでしたね…
いや、それだけじゃない、長いぞこれ…2001-1-6