もう、あと20世紀も残すところあとわずか。
っと、やっぱり言っちゃうこのフレーズ。
いや、エディタだから、打っちゃう、か。「あれっ?もう年越し?」
なんて言って、毎年マヌケな年越しを過ごしていますが、
さすがに今回は、100年に1回&1000年に1回の、
特別な年越し、「世紀越え・千年紀越え」なもので、
あと何日だろ、とか、20世紀が終わるまでに
しておくことは、とか言いながら、
珍しく年越しを気にする毎日です。さてさて、来年からお出ましになる21世紀というのは、
よく未来の象徴として、使われました。
「21世紀は××の時代」とか、
「21世紀はこうなる」、とかそういうヤツですね。でも、その21世紀がもう来てしまいます。
それじゃこれからは、人が未来を何に託して語ろうとするのだろうか、
ということって、すごく気になります。わたしは「21世紀」を前面に出して、
将来の話をするのは、好きではないんです。
得体の知れないはずの21世紀の楽しみを削ぐようで。でも、実際この言葉が好きな人は多いようで、
そんなせいかもしれませんけど、
この「21世紀はこうなる」式の言い回しには、
いろんなバリエーションがあります。例えば、「21世紀的」なんていうのもそう。
21世紀なんて誰も分かりっこないのに、
「21世紀」というコトバで堂々と形容しています。
これが21世紀って感じだろ、とでも言いたげな。こんなとき、「21世紀」は、押しつけがましく聞こえます。
21世紀、といったところで、
将来はどうなるかを言おうとしても、
それは、現時点のことを単に直線的に
延長しただけであったり、
自分の希望をあたかも現実として
語っているに過ぎなかったりするわけで。将来についていろいろ話せるのは、
もちろんいいことだけれども、
「こうなるんだ!」
という断定口調は、
やはりどこかしっくりきません。「時代についていけなくなるから…」
「時代の流れだからね…」
という言葉は、よく聞く言葉です。その言葉から垣間見えるのは、消極的な印象ですが、
そのような未来は、もう自分にとっていい方向に
修正することはできなくて、ただただ従うしかない、
と考えている点では、けっこうキツイ調子の言葉でしょう。時代の流れだから、こうするというのであれば、
自然環境に受動的に適応して盲目的に
進化する遺伝子みたいです。
だからでしょうか、まだ見ぬはずの将来の話なのに、
全然魅力がなかったりするんですよね。受動的な適応だけだと、その適応する人間っていうのは、
別に「その人」でなくたっていいことになります。
生にリアリティがないということは、
そんなことから来るのかなぁ、と思ったりもします。つい先日、TBS系のNEWS23「多事争論」で、
アメリカの先住民の人生観について、
筑紫哲也氏が紹介されていました。
その人生観は、「未だ見ぬ子孫に何を残そう」
という言葉に集約されています。どうやら、次の世代に何を残し、何を守るのか、
それを考えつつ日々を生きる、ということのようです。いままでは、何か影響力の大きい機関が、
未来のことをあれこれと騒ぎ立てて、
一人じゃ影響力が小さい個人は、
「あぁ、そうなのかな、それじゃしかたないか」、
といって適応することが、よくありました。でも、こういうのは、
21世紀にはあまり残したくないな、
と個人的には思います。決まりきった図式を残すのではなくて、
「未だ見ぬ子孫」のような、
自分にとって、「かけがえのないもの」
に託しながら、未来を語りたい。
「21世紀」という言霊に振り回されず、
未来を語りたい。
そんなことをこの年の瀬に考えましたね。各人の20世紀を消化(いや、昇華かな)して、
その21世紀を創りはじめるのには、
やはり、もう少し時間がかかりそうです。
となると、しばらくは「20世紀的な21世紀」
が続くかもしれません。2000-12-30