つい先日、以前に買ったままで、
読めずにいた新書を読みました。その本はタバコに関するもので、
いわゆる、嫌煙権のことについての本です。
嫌煙権というのは、こういう考え方によるものです。
つまり、タバコを吸いたい人は吸ってもいいけれど、
そこから出る煙で、吸わない人が、
苦しんだり、健康を害されるのはイヤ、ということです。わたしは、タバコを吸いません。
興味がなかったこともありますし、
身近に吸う人間が少なかった、
ということも、影響したのかもしれません。タバコを吸わない人間にとって、
場所をわきまえずにタバコを吸う人間は、
侮蔑の対象になりやすいものです。
しかも、その感情が知らず知らずのうちに、
拡大してしまうことがあります。「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」
という言葉があるように、
本当は、マナーの悪いタバコの吸い方に対して
向けられるはずの感情が、
タバコを吸うすべての人に向けたくなるという、
理不尽極まりない感情、これです。この本で説明されていた、「嫌煙」という概念は、
比較的穏やかで、たとえタバコが健康に害があるとしても、
それを承知で喫煙している人に対して、
むやみに禁煙を要求することはありません。
タバコを吸わない人の利益を確保することこそが、
嫌煙権運動の目的なのですから。禁煙となっている場所が、あちこちにできているのは、
全くその恩恵ですし、また見逃しがちですが、
タバコを吸う人と吸わない人の関係を
何の気兼ねもなく、今では話すことができるように
なっている、という点でも、嫌煙権運動に
感謝しなくては、と思っています。しかし、喫煙を「ゆるやかな自殺」
と呼んだりするなど、やはり喫煙者にとって、
不愉快な表現を平気でしてしまうのは、
どこか「禁煙=絶対悪」である
と考えているような気がしてしまいます。つまり、吸うか吸わないかの選択の余地を、
根本的なところで認めない姿勢が、
現われているように思えてなりません。例えば、女性が喫煙すると、
胎児に悪い影響を与えることは、
おそらく確かでしょう。
しかし、もし将来の新しい命のために、
喫煙を止め「られる」女性ならば、
他人が言なくてもやめると思います。喫煙が子供に悪影響があったとしても、
今ではその可能性がある、事前に分かっていることであり、
子供がそのことで親を責めたとすれば、
そのときは、わが子に誠心誠意、謝るしかありません。問題なのは、「タバコを吸う」
という選択肢をどうするか、という問題を
当事者からとり上げてしまうことです。「正しい答え」はこれですよ、
と本人が考えることなく、
「正解」を提示しても、
本人の思考が欠落した決定には、
行動を方向づける力はありません。もちろん、わたしは個人的に、
タバコは吸わないほうがいいと思います。
もちろん健康に悪いこともありますが、
依存性が強いことが、どこか怖いと思うので。また、特に女性にも健康面から言って、
吸ってほしくはありません。
ですから、身近な人間がどうしようか、
と相談してきたら、迷わず禁煙することを勧めます。しかし、いくらタバコが嫌いでも、
喫煙者を論理で追い詰めて禁煙を迫る、
ということは、本当に喫煙の弊害を抑えよう、
とするのには、逆効果かもしれません。
喫煙者がタバコを吸うこと自体に対して、
ケチをつけないことが、一種の礼儀だと思いますし。自分たちの主張していることが正しいことだ、
という思いが強くなりすぎると、
違う嗜好、違う考えの人に対して、
きつく当たったしまうことが多くなります。人間というものは、
理屈だけで動かそうとすると、
どうしても、しこりが残ります。理屈のみで人を動かすということは、
論理的に攻め立てて、最終的に、
相手が自分の立場を守りきれなくなって、
いやいや、受け容れざるを得なくする、
というものだと思うからです。なので、たとえ理屈とは違うものなしに
説得しようとしても、
理屈のもつ強ささえも、
全く無に帰してしまう、
といった結果になりかねません。ずいぶんと前ですが、フジテレビの
「世にも奇妙な物語」で、これに関した物語を
やっていたのを思い出しました。そこでは、タバコを吸うことは重罪とされ、
政府や市民団体から、喫煙そのものが弾圧されます。
ついには、喫煙者狩りという事態にまで
至ってしまうのでした。喫煙者たちは、山奥のアジトにこもり、
必死に再興策を練りますが、
そのアジトも見つかり、
最後の喫煙者も捕まってしまいます。
途中から見ると、独裁政府VS反政府組織の
泥沼の抗争のようにさえ見えました。少々、強引かもしれませんが、
携帯電話についても、「する人」と「しない人」
のすみわけと選択の寛容さが大切かな、と思います。東京では、新幹線で禁煙席があるのと同じように、
携帯電話OKの車両と、携帯電話禁止の車両に
分ける鉄道会社も現われたとのこと。
個人的に、これは英断だったと思います。あれだけ車内アナウンスで、
「携帯電話の電源をお切りください」
と言っても、電源を切ってくれないわけですから、
ペースメーカーをしている人にとっては、
そうするが一番よいのでは、と思います。健康面はといえば、やはり電磁波の影響を無視できません。
人体に対する詳細な影響は分からないとはいえ、
電話会社が、さして安全性に問題がないと、
言っているあたり、かつてのタバコの場合と
同じような構造が見て取れるような気がします。わたしは携帯電話は使うので、
健康面がどうだと言われても、
すぐにやめる気にならないわけですが、
タバコを吸う人も、気持ちになのでしょうか。まぁ、どうあれ、携帯電話を頻繁に使いたいという欲求と
そんなに使わないし、使ってもらっては困る
という欲求を上手く調整すると思うのですが。
どちらにも、「あ、ええやん。」
と思ってもらえそうで。
さらにそれだけではなくて、
パソコンやインターネットを使うかどうか、
ということも、その人の意に任せるほうが
よいように思います。こうして、自分のサイトを創っているくらいですから、
わたしは、面白くてしかたがありませんが、
やっぱちょっとねぇ、という感覚が
根本的に抜けない人に無理強いすることは
できるだけしないように心がけています。「日本政府流IT革命」的発想に染まってしまうと、
「IT時代に乗り遅れるのはイヤだから、しかたがない」
という消極的理由で、パソコンに触れることになります。
そんな悪い第一印象で始めてしまっては、
面白いものも面白くなくなってしまいます。やりたくないなぁ、と考えていた人が、
ネットを楽しそうに使いこなす人を見て、
面白そうかも、と言いつつ
始めるようになってもらえたなら、
それは同じコトで楽しんでいる人間として、
本当にうれしいですしね。タイトルをどうしようか、と考えていたときに、
宇多田ヒカル「Wait&See〜リスク」
のフレーズを思い出したので、
そこから拝借しました。煙を吸いたくない、電波で苦しい思いをしたくない、
インターネットは難しそうでヤダ、
という、自分ではどうしようもない、
他人の「変えられないもの」を「受け容れ」、
それを踏まえた上で、「受け容れ」てもらえない、
いままでの行動にこだわるのではなくて、
どうしたら「する人」も「しない人」もいい思いができるか、
それを考えて、自分を「変える」ことができれば、
なんかよさそうだねぇ、ってことで。変えられないものを無理矢理、
権力・権威とかで捻じ曲げてしまっても、
後で痛い目に遭うのは、分かりきったことですから…なんか、歌のイメージとは
かなりかけ離れているような気がするけど、
ま、いいか。2000-12-18