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古都の悩み


ちょっとこのところ、立て続けに、
旅行に行ったので、それに関係した話を。

過去の芸術的価値の高いもの、
あるいは、歴史的価値のあるものを保存する、
ということにかけては、
現在が、歴史上一番熱心なのではないか、
という気がするときがあります。

最近、訪れたイタリアでは、
かの有名なコロッセウムがなんと、
教会を建築するための資材を調達するために、
意図的に破壊した、ということもありますし。

そんななかで、その「歴史的なモノ」を
どう保存するのか、ということに関して、
二つの違う発想を感じました。

ひとつのやり方が京都の流儀、
もうひとつのやり方が、イタリアの流儀です。

京都には、景観に関する規制があって、
地上何階以上の建物は建ててはいけないだとか、
ガソリンスタンドやスーパーの配色は、
派手すぎないもの、ということになっているようです。

京都にあるマクドナルドは、
大抵、看板の地の色が、茶系統の色になっていて、
一般的な赤色地に、濃い黄色という配色よりも、
「景観を損なわない」よう、
配慮がなされているようです。

また、学問の神様として崇められている
菅原道真を祭っている北野天満宮の近くにある、
「イズミヤ」という大型スーパーは、
おそらくひまわりをモチーフにした
マークなのでしょうけど、
これを青や紫といった色に、配色を変更しています。

しかし、京都市内に建てられている、
建造物のほとんどが、近代的なビルです。
もちろん、近代的といっても、
30年も40年も前に建てられたビルなどは、
新しいという感じがすることもなく、
中途半端に古い感じです。

ですから、看板の配色の面や、
ビルの高さを制限したぐらいでは、
あまり「景観に配慮している」とは
どうにも、言えないような気がするのです。

景観を守る、と一口に言っても、
守るべき「景観」とは何か、
というイメージをよく思い描かないまま、
あまり高いビルが乱立すると、
観光名所からの眺めが悪くなるとか、
そんな発想のみで規制してきた気がしてなりません。

やはり「景観」というのは、
歴史的価値の高い建造物も含めた、
街全体としての雰囲気だ、と思います。

京都タワーの最上階から1階降りたところに、
タワーから見える風景が、
昭和40年ごろはどうだったかを
写真に収めて、窓の上のほうに、
に掲示されてあります。

それを見ると、確かにビルのつくりが古臭いとか、
そういう違いはあるのですが、
今挙げた、古都京都の景観、という点から考えると、
あまり今と大差がないように
わたしの眼には、映ってしまうのです。

昭和40年ごろといえば、日本は高度経済成長時代。
戦後の復興を経て、より豊かな日本へ飛躍する
そんな時代でした。

金閣や銀閣、京都御所、
清水寺に、苔寺に、
龍安寺、天龍寺。
上賀茂神社に、下鴨神社、
平安神宮に、二条城。

このような神社・仏閣、古城などを、
一種のアミューズメント施設のように扱い、
それさえ残っていれば、とりあえずはいいだろう、
というような感じだったのかな、
と邪推してしまいます。

イタリアに行く前は、景観保護といっても、
これぐらいが精一杯かな、と思っていたのですが、
イタリアに行って、ちょっと考えが変わりました。

イタリアでは、歴史的なものを保存するというとき、
保存する地域を特定して「歴史地区」とし、
徹底的にその「雰囲気」を保存しています。
ですから、たとえ車が走っていようとも、
中心街は、石畳というところが多いんです。

また、広告や看板に対する考え方も違うようで、
ミラノのヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の
アーケードにあったマクドナルドは、
高級感あふれる他の店舗と歩調を合わせ、
黒地に金色で文字が書かれていました。

またこれは、ヨーロッパ人に共通するらしいのですが、
きらびやかなネオンや、原色をふんだんに使った
目立つ広告は、一般的には嫌うそうです。

建造物に関しても、できる限り、
昔のものの概観を保とう、と努力するようで、
概観は「いかにも」な、ヨーロピアンスタイルでも、
中は現代風に改装されてあるようなお店を、
よく見かけました。

ただ、こういう保存の仕方が必ずしもいい、
とは言い切れないのも、確かです。
たとえ、歴史的価値の高い建造物が
ひしめき合っている都市であっても、
その都市の都市計画の主役は、
その都市の住民であることが、大原則です。

ですから、住民にとって住みやすい住空間を
創造することは、都市計画の中核となる仕事です。

確かに、実際にどれだけ住みよい街かということは、
別問題でしょう。
ハードの面のインフラ整備ばかりに眼が行って、
自然環境などの、ソフト面に目が行かなかった、
という大きな欠点があったことは、
否定しようのない事実ですから。

しかし、ハード重視、ソフト重視に関わらず、
都市計画がいかにあるべきか、ということは、
日本では、たとえ京都のような街であっても、
機能的な関心に重点がおかれていた、
ということには、間違いないでしょう。

そのために、京都が、
近畿地方の大都市でありながら、
生活水準がとりわけ悪く、収入と言えば、
もっぱら観光業だけ、という街にならなかった、
という考え方もできます。

なので、例えば、つい数年前完成した
新生京都駅があまりに近代的すぎる、
と文句ばかり言うのも、考え物ではあるのです。

その点、イタリアは、経済状態については、
あまり誇れるような国ではなく、
ヨーロッパ各国と比べて、見劣りがします。

「掘れば遺跡が出てくる」とまで言われる
ローマでは、都市計画において、
歴史資産の保護と経済発展のバランスが
特に難しい、ということもあるかもしれませんが。

ここで、歴史資産の保護に力を注ぎすぎて、
経済の面がおろそかになった、
と言われても、わたしには反論できません。

もし、景観の保存のしかたについて、
雰囲気を残すというやり方が、
他の経済状態が安定している国でも、
行われているのか、ということについては、
イギリスやフランス、ドイツなどの
他のヨーロッパ諸国を訪れていないので、
なんとも言えないのですけどね。

総括して、京都に苦言を呈するならば、
雰囲気を保持する、という発想に乏しかったこと、
景観の保存と経済発展のジレンマに対して、
地理的な「すみわけ」をせず、
中途半端な景観保存を京都市全域に広げたこと、
でしょうかね。

高度経済成長時代に建てられたビルというのは、
ひょっとすると、あと何十年か経てば、
立派な歴史的建造物、になるのかもしれません。

もし、その当時の雰囲気を残そうか、
なんて議論が、京都で起こることは
あまり考えられなさそうですが、
もし、日本のどこかで起こったときには、
注意深く見守りたい、と思いました。

もし、何かモノだけではなくて、
たとえ、日本のどこかの、
ほんの小さなスペースでいいから、
「場の空気」のようなものも残すことができたら、
なんて気には、なりませんかねぇ。

2000-12-16


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