今、大阪梅田の阪急百貨店では、
「AIBO WORLD」という展覧会のようなものが開催されています。
「AIBO」とはいわずと知れた、
ソニーが開発したエンターテイメントロボットの名前です。なにやら、もう2世が出たらしく、
価格も15万円と10万円も安くなって、
しかも、いろいろと改善されたところもあるそうです。しかし、どうしてもわたしは
このロボットに対する違和感というか、
AIBOがつくられたコンセプト自体に
強い拒否反応を示してしまうようです。テレビのインタビューでも、
「かわいらしいと」いう人と
「気持ち悪い」という人、
どちらの意見もあったようですが、
とあるWebページでは、
森羅万象に神性を認めてしまう日本人には
容易に受け入れられて行くのでは、
という趣旨のことが書かれてありました。新しく現れた突拍子もないもの、
と思われるものに対しては、
いつの時代も拒否反応が出るのが、
世の常です。小説や映画についてはよく知りませんが、
漫画やアニメなどは、子供が勉強しなくなる
とか何とか言って、世の親から鬱陶しがられましたよね。またファミコンに始まり、スーパーファミコン、
プレステといったゲーム機に代表される
テレビゲームもまた、世間から強い批判の目で
見られたことがありました。
いや、むしろ今もまだ、
といったほうがいいかもしれません。最近では、インターネットでしょうか。
ハッカーによる犯罪、電子商取引のトラブルだけではなく、
引きこもりを助長しているとか、
インターネットはつまらない情報ばかりしかない、とか、
果ては、文字情報だけでは、
人間の温かみがないなどといった
個人の感覚の問題を勝手に一般化しているような見解すら
見受けられます。わたしは、その都度、
そのような一見知識人と考えられている人たちの意見には、
内心いつも強い疑問をもっていました。特に、少年犯罪が頻繁になってきたときに
論じられたゲームの悪影響などには、
ゲームを一通り楽しんでから発言しているのかを
疑いたくなるような皮相的な議論に
ゲーム好きの一員として、
強い憤りを覚えたこともありました。インターネットもそう。
多くの議論は、ディスプレイの先に
生とはちがった人間の見え方がすることも無視し、
あるい生の世界でもある光と影の部分の、
むやみに影の部分を強調してみたり。自分がそんな環境に子供として生きていたら、
どうするだろうかなんてちっとも考えずに、
短絡的に新しい文明の産物を丸まる否定して、
自然にもっと接しなくては、
ゲームをやめて外で遊べ、と説教する。どうして、人間はこうも極端に走るのだろうか?
自然も愛し、文明も愛すことがどうしてできないのだろうか?
なんて、考えていましたが。…閑話休題。
AIBOの話でした。やはり予想されたように、
注文が殺到し、人気はものすごいものになりました。
当初25万円もしたこのAIBOには、
どこか薄ら寒い気がしたんですね。これは「主体」や「人格」ということと
深く関係することなんです。
人は、自分はもちろん、
他人をも大切にすることができます。
が、そういうときの「他人」とか「自分」とは、
何を指しているのだろうか?それは人格だと思うのです。
人格とは、それ自体で考え、行動し、
他者からの影響は受けるけれども
決して従属はしない、というものと考えています。人間がペットとして動物を飼うときにも、
動物にある種の人格のようなものを
見いだしている場合がほとんどですよね。AIBOの場合はどうでしょうか。
わたしが違和感を覚えるのは、
第一には、この「人格」のようなものを
人がつくるということによるものだろうと思います。人がつくる以上、人が求めるモノを
備えた「人格」となってしまうことは、
明らかなことです。
そのような意図通りの「人格」をつくることは、
果たしてよいことなのだろうか、
そんな不安感です。AIBOそのものには「後天的」に特徴が形成され、
持ち主(というか飼い主)には
他のAIBOと容易に区別ができるほどの
「個性」が備わるらしいんですが、
AIBOの可能性自体は、人間が設定した以上にはなりえません。「人格」をつくるとはこのようなことで、
さらにプログラムに少し詳しい人であれば、
AIBOを楽にカスタマイズすることすら可能だそうです。
しかし、「カスタマイズ」という言葉すら、
わたしは使うことを躊躇します。映画やゲームは、みな製作者の意図によって、
改変されたり、追加されたり、削除されたりするのですが、
これらはすべて、基本的には、多くの人の相互作用でつくられる
歴史だとか、物語をつくっているのです。
そこには、人間模様を離れた立場から描写したものであったり、
製作者のメッセージが込められているはずです。もちろん、ゲームについては
わたしが好んでするゲームが、
ロールプレイングゲームであったり、
シミュレーションゲーム(恋愛モノを除く)
と偏っているということも影響していると思いますけどね。しかし、AIBOの場合、
人間が創るのは、ひとつの「人格」です。
いろんなことを考えたりしている、
あれをつくろうとしているんですよ。AIBOとペットとしての動物との
一番の大きな違いは、飼われている動物がもつ特徴は、
基本的には、ペットとして飼われるべく存在するのではなく、
人間の意思とは関係なく存在している、という点です。ですから、付き合う上では人間にとって
厄介なところもたくさんあるはずなんですよね。
でも人間同士でもそうですが、
自分とは異なり、どうにも自分の思うようには
変えようがないものと交流する、
それがコミュニケーションの醍醐味
なんじゃないかと思うわけでして。それに対して、AIBOは人のつくったロボットです。
どれだけ利口で、学習能力があったとしても、
その可能性はすべて人間が握ってしまっています。なので、あたかも人間にとって面倒であることすら、
実は、人間が関与できる部分を意図的につくった
ということでしかないような気がして、
複雑な気分になります。AIBOを買ってすぐのときは、
まだ立てないらしいですが、
それはそうした方が、
人間がAIBOに親しみが沸くから、ですよね?
そんなのに向き合うのって、
わたしは少し寂しいというか、罪悪感を感じます。もうここからはSFの世界かもしれませんが、
そんな風にしてつくられたAIBOにもしも、
「自分で考えて行動し、決して従属はしない」という性質が
備わってしまったなら。もしも、AIBOが自分自身を認識するようになったら。
どうして、自分が今ここにあるのかというような
哲学的なことを考えられるようになったら。人間が「人格」というものまでも
創ってしまうということに対する不安とともに、
そういう人間に奉仕するべくして誕生した
「人格」っていうのは、どんなことを考えるのだろうか、
ということにも考えが及びます。もし人間に牙を向いてきたらとか、
そんな心配はよそに置いておいて、
仮にAIBOに本当に「主体性」があるんだったら、
そのAIBOの「きもち」になって
考えることだってできるはず。いつのころか、人間が長い進化の過程で
他に類を見ない知性を手に入れたために、
人間は、いつも意味を求めていました。
人間にとって、すべてが意味をなさない世界は
とても耐えられるものではありません。自分とは、人間とは何か。
どこから来て、どこへ行くのか。
そして、その答えが見つけようとしたひとつの試みが、
宗教や科学あるいは哲学であったのかもしれません。そしていまや人間は、生活に覆い被さって
権力を振りかざす世界観にとらわれることなく、
それぞれが十人十色の世界観、人生観、
死生観を持つことができます。が、未来のAIBOは、自分が今ここにいるという理由が、
誰かの意思によってつくられている
ということは、当然気づくにちがいありません。すべては、人間の欲求を満たすために。
可能性は、人間の寂しさを紛らわせることに。
そう、決められてしまっています。
そのとき、どう思うか。AIBOがそのようなはっきりとした「人格」を
もつのはまだまだ先のことであっても、
そんな「人格」と向き合う
人間はどうなるのかということは、
今すぐにでも問題になってきそうなことです。人間が、たとえ親の意思によって生まれてきているとしても、
それはハードウェアだけのことに過ぎません。
もちろん精神面でも、親の影響は強く受けるかもしれませんが、
人間環境という、それぞれの人間は独立して動きながらも
相互に影響し合って、一人や二人では、
どうにも手におえない大きな波に翻弄されながら、
だんだん「自分」という存在を手に入れていく、
それが人格の創られかたであるはずです。そんな「人格」をつくる基礎にある
コミュニケーションとは、
人間とは、互いに違うもの、
すべては知り尽くせないもの、
だからこそ、知り合おうと努力することと思っています。でも、AIBOのような明確に、厳密にその存在の意味を
決められてしまっているものとコミュニケーションを
「している」と思うようになってしまったとき、
人間ですら、自分で他人の可能性を
勝手に改変できるのではないかという、
そんな感覚が人々の中に芽生えやしないか、
ということが非常に心配になってきます。いつか、人格をつくり制御できるという傲慢な態度によって、
人と人、人と動物の関係が損なわれてしまうことは、
全くありえない絵空事であるとも思えないのです。AIBOを持ち運ぶために、
分解してケースにしまっている様子を見たことがあります。
AIBOを可愛がり、ペットと見なすのなら、
そんなばかげたことはできない、
と声を荒げて文句のひとつも言いたくなるわけでして。AIBOは単に、可愛いとか、
可愛くないとかということだけではなくて、
人間が人間をどう見ているのかということについて
ちょっと考えさせられるきっかけを
投げかけているようにも思えてきます。
2000-11-20