今日は漢字について少しばかり。わたしは小学生のときに、
やたらに漢字に興味があったらしく、
あまりに漢字が好きなんで、
2年生のときの担任の先生が、
ぜひ漢字字典を買ってあげたらよろしいのでは
と親に言うほどだったそうです。
ま、そんなわけで、今でも
漢字の字典を見るのは好きなんですね。さて、漢字という文字は、
「表意文字」という種類に当たります。
一方、アルファベットは、「表音文字」といいまして、
各々の文字は意味をもたず、音だけをもちます。例えば、"zebra"という単語の意味を答えよ、
という問いは成り立ちますが、
"A"という意味を答えよ、
なんて訊かれても答えようがありません。しかし漢字は、それ自体で基本的に意味をもっています。
「魚」や「車」などの物を形どったものもそうですが、
それらを組み合わせて作られた漢字もそうです。
例えば、野菜の「菜」の字は、
「くさかんむり」+「采=採る、採取する」=採って食べる草
という意味から作られた漢字だそうです。また「美」という字は、
「大」+「羊」の組み合わせです。
これがなぜ美しいかというと、
漢字の辞典には、大きな羊という意味から
うまい・美しいの意味が生まれた、
ということなんですが、
ある人は大きな羊という食べ物を
皆で分け合う姿が美しい、
と勝手に解釈しているそうです。
こんなことができるのも、
表意文字ならではの楽しみでしょう。しかし、漢字とは不思議なもので、
漢字それぞれにパッとを見たときの
固有の印象があります。例えば、歪むの「歪」という漢字。
いかにも歪んでます、って感じがしませんか?
他にも、「やまいだれ」の部首をもつ漢字もそうです。
「癌(ガン)」なんてそうですよね。
また、「鬱(うつ)」なんて
見ただけで気が滅入りそうだし。これでは、あんまり嫌な印象の漢字ばかりですが、
他にも、齧る(かじる)「齧る」という漢字は、
いかにもネズミがガジガジと齧っているような
場面を想像できますね。
また、「平」という漢字の旧字体は、
真ん中の点が、漢数字の「八」の字の形をしているので、
タレ目のまぬけな顔に見えたりしますし、
逆に「鷹(たか)」は強そうな感じがします。さらに、漢字をを3つ組み合わせたものも、
えもいわれぬ威圧感がありますよね。
「森」はそうでもないですが、
例えば、
馬×3、車×3、女×3、
毛×3、直×3、水×3、虫×3
というのがあります。
ひょっとすると機種依存文字かもしれないので、
ここには書くことができませんが、
手元のメモ帳(PCのメモ帳じゃないですよ)に
手書きでちょっと書いてみてください。
毛×3なんて、もういかにも
毛むくじゃらな虫を想像してしまったり、
虫×3なんて、見ただけでぞっとしたりとか、しませんか?さて、例はこんなところにして、
このように漢字というのは、
意外と文字がもっている意味だけではなくて、
パッと見たときの印象も意外とおもしろいものなんですよ。とはいうものの、漢字には難しいものや画数の多いもの、
あるいは書くにくいものなどいろいろ存在します。
戦後、多くの漢字が簡略化されましたが、
最近、また新たに認められる字体が、増えています。漢字を簡略化することにかけて、
一番ダイナミックにやったのが、
中国(中華人民共和国)です。
中国では簡体字と繁体字という
二つの字体があって、
簡体字という簡略化された文字が用いられるのが通例です。わたしもそうですが、中国に行ったことがない人でも、
天安門広場をテレビなどで
見たことがある人は多いと思います。
毛沢東の肖像のそばに書かれている
「中華人民共和国万歳」
というのは、実は簡体字です。個人的には、中国の簡体字という自体は
あまり好きではありません。
あまりに省略されすぎて、
見慣れた日本の漢字とのイメージの
ギャップがあるからなんでしょうけどね。しかし、例えば「気」という字の
「×」の部分がないのを見たりすると、
どうにも、バランスが悪いというか、
ここまでしなくても簡単にしなくてもいいから、
もっと落ち着く字にして欲しかった、
という感じがします。一方、台湾では漢字の簡略化はほとんど進んでおらず、
繁体字で記述することがほとんどです。
日本人が見ると、戦前に使われていたような文字が
いっぱい使われているのが分かります。今の日本人が、戦前の日本の漢字を見ると、
なにやら重々しくて、たいしたことではなくても
どこか肩肘を張らなくてはいけないような、
そんな居心地の悪さ、肩身の狭さがあると思います。同じように、台湾の繁体字もちょっと厳しそうです。
やはり、なにぶん画数が多いので
視覚的に重々しくなりすぎることは否めませんね。さて、話は戻って日本の漢字です。
簡略化に反対して、昔の字体にこだわる人がいますが、
簡略化するという方針自体は、間違っていないと思います。おそらく簡略化に反対する理由があるとすれば、
「今から新しく使うことにします!」
というその字体にはじめは違和感がどうしても付きまとうから、
ということでしょう。特に問題となるのは、固有名詞の場合です。
例えば、「崎」の「大」の部分が、
「立」になっているヤマザキさんにとって、
「山崎」と書かれることは、
気分のよいものではありません。
確かに固有名詞の場合は
尊重されなくてはならないでしょう。では、普通に使う漢字はどうでしょう。
この場合、簡略化された漢字を元の旧字体に戻しても、
何のメリットもないはずです。
漢字が煩雑になると、もはや組み合わせでは
意味を推測しづらいですし、
固有名詞ではないわけですから、
書きやすくするということは大切なことです。しかし、書きやすくするという基準だけで
漢字を簡略化していいのかな、
と思うこともまた確かでして。やっとここで、冒頭の漢字の第一印象の話とつながります。
例えば、神聖なものを汚すという意味の「冒涜」という熟語で
用いられる「涜」の字は、本来右側が、「売」の旧字体、
つまり縦に「士+買」を組み合わせた字だったのですが、
簡略化されて、「涜」でも通用するようになったのです。だけど…
ま、主観的な印象と言われればそれまでですが、
「冒涜」だとなんかこう、安っぽいというか、
気合が入らないというか、情けないというか、
ともかく「神聖なものを汚す」という重々しい意味とは
マッチしない印象があるんですよね。漢字をに慣れ親しんで、漢字を使った熟語で
抽象的な事象を考える人間にとって、
どういう意味をもった漢字が、
どのような「デザイン」に簡略化されるのか、
ということも大切だと思うのです。漢字で表現することを芝居や演劇に例えるなら、
伝えたいことや表現する内容は、台本やストーリーです。
そして、漢字は個々の場面に合った衣装や表情をする役者、
のようなものかもしれません。芝居であれば、相撲の場面に痩せた人を
力士役に起用するのは、全く論外ですし、
70歳もすぎた老人が、20歳の大学生の役を
演じるのも無理な話です。同じように、「神聖なものを汚す」という
重々しいことを伝えるには、
「涜」の字では、あまりに役不足なんですよね。だからといって、「売」の字がつく他の漢字を皆
旧字体に戻してしまえばよいかというと、
そういう話ではありません。
「読」を旧字体に戻してしまうと、
必要以上に読むという作業が鬱陶しくなるような、
嫌な印象を受けるのはわたしだけではないでしょう。ま、ともかく。
漢字で何かを伝えるという「演劇」にも、
デザイナーというかディレクターというか
「役者」をうまく演出するといった、
そんな視点も大切なんじゃないかな、
と思う今日この頃です。2000-11-12