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『唯一』からの卒業


今日は、あからさまに自分自身の話なんで、
つまんないかもしれません。

とあるきっかけで、受験時代に使っていた
ノートや成績表を見る機会がありました。
へぇ、ようやったなとか、なつかしーとか
思いながら見ていました。
いつもなら、そこでかつて憧憬の念を抱いていた
とある大学のことを思い出すのですが…

なんにつけ受験という言葉で聞くと、
懐かしげに他人に話している自分や
いまでも、当時のノートや成績表を
眺めている自分に気づいたとき、
当時の自分にとっての受験という存在が
あまりにも大きすぎたなぁ、
ということを考えていました。

そして、いままでの大学生活は、受験という目標そのものが
なくなったことに対して、どのように対処していったらいいか、
自分なりに考えてきたという側面があるな、
なんてことをふと思ったのです。

わたしの場合、あまり受験勉強に「苦労した」
という感想を持っていません。
むしろ、すごく充実した時間を
過ごしたように思い出されます。

一方で、大学には入りたての頃は、
入学の経緯に納得がいかなかったり、
自由をもてあましていたりしたせいか、
その落差を強く感じました。

というのは、その年のセンター試験が、
ちょうど教育課程が変わる節目に当たっていまして、
数学の難易度に現役生用と浪人生用で、
ずいぶんと差があり、不公平ではないか
と批判の声があがりました。

わたしもその影響を受けて、
前期試験は志望大学を受けることにしましたが、
後期試験では、志望大学を変更せざるを得ませんでした。
国公立大学は、前期と後期の2回ありますが、
募集人数の大半は前期試験に集中しているので、
後期試験は難度がかなり上がります。

二次試験で挽回しようとかけてみたわけですが、
やはり無理でした。それで結局、
今の大学に入学したんですけどね。

それからしばらくは、
あまりいい精神状態ではなかったようです。
大学に入っても、来たくて来たんじゃないだ
なんていう言い訳をしてみたり。

バイト?サークル?
旅行?運転免許?
そんなのが大学なのかい?
自由という言葉の裏に隠された
無言の大学生らしさへの違和感を感じたり。

大学の自由さをもてあましつつ、
志望大学に対する未練が残っていたわたしは、
それを解消すべく、大学に通いながら
もう一度受験しました。
結果は不合格。また失敗です。

しかし、そこにはもはや未練がなく
今の大学を受け入れる心構えができていました。
もう無理だ、と諦めたというよりは、
自分のできることことをいかんなく出し切れた、
ということでは満足だったのでしょうが…

今の大学に留まることにしたわたしは、
どういうわけか、その年の夏にひとりで旅行をしました。
行きたいところがあったのは確かなんですが、
すぐにそこへは行かず、時間をかけて
ゆっくりゆっくり行きました。

それから、あまりひとりで旅行したことについて
詮索したこともありませんでしたが、
どういうわけか、大学受験のこだわりのことと
どこかで関係しているんじゃないか、
と最近思うようになりました。

確かに行きたい場所にいって、
見たいもの見ることはできた。
でも、知らない土地に行ったら、
あんなにも、いろいろな情報がこちらに
語りかけてくれているはずなのに、
それを感知するアンテナの受信能力が
乏しかったような気が、今になってしてきまして。

かえって独りであったために、
見知らぬ土地へ行っても、
どこに行って、何をしたいのか、
それが不透明だったかもしれない…

確かに、入学の経緯に関しての
自分の力が出せなかった悔しさや
ということに対しては、整理がついていたのでしょう。
しかし、受験という目的を失って
自分自身の中にできた「これからどうするの?」という
空洞が埋まっていなかったわけです。

そんなことを考えていると、とあるサイトで、
目的が一つだけだったら寂しいよねぇ、
なんていうことが書いてあるのを見つけました。
目的が一つしかないんだったら、
すべてが「究極目標」に向かうための
歯車でしかない、そんなのいいわけ?
ということでした。

それ自身に価値があるのではなくて、
「究極目標」にどれぐらい役に立つか
というように、手段的にしか
日常を生きることができないじゃないの…
確かにそれは少し寂しいかもしれませんね。

しかし、わたしにとって
目的がひとつであるということは、
そのあとの喪失感のほうにより、
マイナス面を感じてしまいます。

わたしの場合は、
受験以外のことを歯車にするほど
抑圧したことはありませんでしたが、
日々が楽しい原動力になっていたのは、
いい成績を出すべくがんばることだけ
だったかもしれません。

そんな風に考えると、やはり
ひとつのことにだけに邁進する、
ということに潜む恐ろしさを
頭のどこかには、もってなくてはいけないな
と思うんですね。

目標に向かって努力することは大事です。
到達すればそれはすばらしいことだし、
しなかったとしても、それは自分の力不足の反映で、
できなかったなりに得るものはある。
そして、なにより挑戦することは人間を成長させる。

しかし、取り組んでいることに集中しているがゆえに、
結果的に到達できようとできまいと、
ゴールがなくなったことに対する
喪失感がかなり大きいのです。
目標がなくなったら、なにをしたらいいわけ…
そんな感じです。

考えてみれば、受験という目標なんて、
達成するのはそれなりにしんどいかもしれないけど、
目標に定めることは、いとも簡単にできてしまうではないか。

わたしは、目標を達成するべく
努力することはできたけれども、
目標をつくるということに関しては
全くの無能のままだったのかもしれません。

目標に向かって努力することを人は賞賛します。
しかし、目標が目の前からすぅーっと消え去ったあと、
どうすればいいかなんて、人は何も言ってくれませんし、
また言いようもないわけですからね。

先日「コラムもどき」で書いた
「テーマ」ということは、いわば一般原則のようなもので、
今の自分が置かれている具体的な状況で
一番そのテーマに即して目標をつくろう
ということだと考えています。

「テーマ」を持てる人は、目標がなくなって、
何をしたらいいのか分からない、
などと悩むことはありません。
「テーマ」は一般原則ですから、
今、自分が置かれているさまざまな環境から
いくらでも目標は見えてきます。

昔は、このような「テーマ」が外から
与えられるものだったのでしょう。
お前は、こうなるべき運命だ、というように。

今はそんなことは自分で決められるわけで、
そのことには感謝しなくてはいけませんが、
その分、かえってどうしていいのかわからないというような、
自由をもてあますことにもなるのかもしれません。

さらに、一つしかない大事なものを守るのだと、
それが守りきれないとき、大変だというような
消極的な理由だけではなく、
いろんな目標があれば、そこで相互に影響もしあえるし、
またそこで友人のでき方などの人間関係も
相互に関係しておもしろくなるかもしれない、
そんな期待も持てるような気さえします。

目的がひとつしかないのは、寂しいね、
というのは、そこから多様な「ひと」と「ひと」の
つながりができにくくなるからかもしれません。

ひとつの見方で割り切れるようなのではなくて、
いろいろな見方が合わさって、混ざり合った
複雑な楽しみ方や感じ方ができるようになりたいというのは、
わたしの「テーマ」のひとつでもあります。

なんかとりとめがない文章で
申しわけありませんが、
今日はこの辺で。

2000-10-28


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