「かしこい」という言葉には、どんなイメージがあります?
言葉の問題としては、日本語にも「賢い」のほかに、
「頭の回転がいい」とか「切れる」といった
いろいろな表現がありますし、
英語でも、「wise」「clever」が代表格ですが、
「intelligent」「bright」なんていうのもあるようです。
あまり当てにならないと思いますが、
わたしのイメージでは、
「wise」:知恵がある
「clever」:頭の回転が早い、ずるがしこい
「intelligent」:知識が豊富
と思っています。
そのほか、出身大学名でかしこい、かしこくない
ということを判断してしまう人もいれば、
論理的で理路整然とした受け答えに、
知性を感じる場合もあるでしょう。
そんなことを考えれば、「かしこい」
というイメージはその人その人によって、
いろいろなんだなぁ、と思いますね。
しかし、かしこさのイメージのなかに、
「分かりやすく表現できること」という能力を
挙げる人はどれぐらいいらっしゃるのでしょう?
ひょっとすると、少数派かもしれませんねぇ。
ちょっとどこに書いてあったのか思い出せませんが、
天才の天才たる所以は、という問いに、
誰にも思いつかなかった
ものすごい発明をするだけではなく、
それは表現し考えた内容が他人に伝わったからだ、
ということが書いてありました。
つまり、どんなにすばらしいことでも、
人から人へと伝わらなければ、
その革新性には何の意味もないわけで、
分からない人から見れば、
世紀の天才もただの変人ということになります。
わたしにとって、分かりにくいことの代表選手は、
哲学、というより哲学者の著作です。
哲学の世界は、専門用語が飛び交うだけではなく、
およそ日本語の言い回しとはかけ離れた、
独特の直訳調の言い回しで
書かれていることが多いように思います。
特に、外国語の書物の翻訳ともなると、
原文が難しいのに加え、
原文に忠実に翻訳してあるのか、
非常に読みにくいものがあります。
哲学者は、自分たちだけの世界に閉じこもって、
門外漢に分かるように、表現する気はないのではないか、
いや、むしろ、逆に分かりにくい専門用語を駆使し、
分かりにくい言い回しを使うことによって、
それを乗り越えられる人間とそうでない人間を分けて、
「哲学の世界」自体に権威付けしているのでは、
と斜に構えてみたくもなるわけでして。
そんな折、とあるきっかけである人の哲学関係の本を
読もうと思ったことがありました。
ま、その頃進化論についていろいろ読んでた時期で、
その関連からなんですけどね。
その人は、オーストリア生まれの哲学者で
カール・ライムント・ポパーという人です。
1902年ウィーン生まれで、
途中ナチスの迫害を逃れニュージーランドへ、
さらに戦後にはイギリスへ拠点を移して、活動をした人です。
彼は長寿でしたが、1994年に亡くなっています。
彼の著作のうちの何冊かを読みましたが、
納得したことあり、
それはちがうなぁ、と思うことありと
ま、いろいろ考えることがあったわけですが、
哲学者であっても、こう考える人がいるんだな、
と「哲学」自体への偏見を
ある程度拭い去ることができた記述があります。
彼のよれば、単純に説明のつくことを、
複雑で分かりにくく表現したり、
話の趣旨から逸れるような、
いわば重箱の隅をつつくようなことを、
いかにも重要であるように重々しく表現するなど
そんなどうでもいいことを自分たちの仕事と思っているんだ、
と痛烈な言葉を浴びせています。
あ、やっぱり哲学者でもそう思うんだ、
と非常な親近感を覚えました。
一介の大学生が「親近感」なんて、
おこがましいのもほどがありますけど。
わたしは、哲学者というのは、
今何を解決しなくてはならないか
ということを専門に探す人だと思っています。
例えば、今、経済のことが大事ですよね。
不況だから、景気を回復しなくてはならない。
たしかにそう、間違っていない。
しかし、解決しなくてはならない問題は、
それだけだろうか?
皆が気づいていないだけで、
ほかに深刻な問題点は残っていないか?
特に、経済の問題に引き合わせて考えるなら、
「ゆたかさ」ということに対して、どう考えるのか?
経済の分野で目標とすることは何か?
アメリカに追いつけばそれでいいのか?
もし追いついてしまえば、また目標を失って
あたふたしないか?
こういうことは、経済学部生には
似つかわしくないといえば、
確かにそうなのですが、
みんなが一つの方向しか目が向いていないときに、
誰か、別の方を向いて違う道を探したり、
みんなが進もうとしている方向は
本当に大丈夫かどうか考えたり、
そんなことをする哲学も必要だと思います。
その意味では、哲学専攻の大学教授が必ずしも、
哲学者だというわけではないのかもしれません。
たとえ、その教授が過去の哲学者を専攻しているとしても、
その解釈や影響の基にして、
その教授自身の考え方がなければ、
特定の哲学者に関するオタクみたいなもので、
哲学者そのものではないでしょう。
今、日本経済は不況で「就職氷河期」です。
企業の採用意欲が強いのは、
情報関連など一部の業種だけかもしれません。
そういう経済環境を反映して、
「実学」が重要視されています。
つまり、早い話、大学を選ぶ際に
就職に役に立ち「そうな」学部を選ぶ傾向が
強いということです。
経済学部でさえ、経済現象を対象にしているとはいえ、
実は実学ではなくて、理論を駆使して
経済の先行きを予想するだけだと思われ、
人気がそれほどないようです。
やはり人気があるのは、「ツブシ」の利く法学部や、
ビジネスのノウハウにより近い商学部や経営学部、
といったところでしょうか。
そんななか、やはり文学部、
とくに哲学系の学科などは
苦境に立たされているのではないか、
と思わずにはいられません。
国公立大学ならともかく、
私立大学では、大学運営といえども、ビジネスですから
採算を大幅に度外視することはできません。
もし、入学者が継続して減少傾向にあるのなら、
その学部、学科を縮小・廃止する検討が
なされるかもしれません。
しかし、「哲学」が実用的ではない、
とされるのは、かつての高名な哲学者が言ったことを、
教授がああだこうだ、となにやら難しそう
に講義しているだけだから、という気がしてなりません。
過去の哲学者の著作は、過去の哲学者が
その時代の問題になぜ気づいたのか、
ということが現れていると思います。
だから、この人はこんな状況のときこんな風に考えたんだ、
ということが、今どうなのかを考える刺激に
なるんじゃないかと思うのですよ。
ある哲学者の見解を解釈し、講義しているだけだと、
知識は増えても、だからといってどうなることもありません。
わたしが本来の哲学の仕事であると思っている
解決すべき問題を探すということが、
過去の哲学者の解釈の講義を聴くことによって、
できるようになるとも思いません。
もちろん、わかりにくい言葉と言い回しを
いくら聴いても、そこで得た知識を分かりやすく
人に伝えることができるようになるとは限りません。
哲学がそのような学問的伝統に
あぐらをかいて、今のままでいるのではなく、
まずアカデミックな世界から
もっともっと飛び出すことが大事だと思います。
これからどうしたらいいかということで、
結論が出ずに考えつづけている人に、
日常使っている言葉と言い回しをできる限り使って、
「こういう、考え方もあるんじゃない?」
と優しく語りかけることができる。
こんなのも哲学じゃないかってつくづく思います。
だとすれば、たとえ問題が、
個人的な問題であっても、
社会全体が抱えるようなものであっても、
いや、もっと視野を広く全世界的なことであっても、
そのような思考と表現のできる人は、
すごく必要とされる人ではないでしょうか。
その意味では、相談に乗るのが上手な人は、
実は隠れた哲学者なのかもしれません。
もし哲学を学ぶことを通して、
どんな問題が潜んでいるかを見つけて、
自分の能力と相談して、その優先順位を確認し
さらに、こういうことなんだよ、
と話しかけられる人が慣れ親しんでいる言い回しで
表現できるようになる…
これは立派な特殊技能です。
資格などの実体を伴ったものにはなりませんが、
大学に通うことによって、立派な能力を身に付けた、
あるいは、「かしこく」なった、
と胸を張っていえるのではないか、と思うのですが。
どうでしょう。
ちなみに、わたしは今書いている卒業論文は、
あまり分かりやすくなっていないようです。
ホント、分かりやすく書くのは難しい。
また書き直しです…
2000-10-16