今日は重い話です。
先にそれだけ言っておきます。
今年はどうも、気温が高いようで、
夏はかなり暑かったですよね。
10月になっても、ちっとも涼しくなりません。
夜はそこそこ気温が下がるのに、
昼になればまた上がるという感じです。
こんな調子では、秋の到来を
肌で感じることはできません。
人それぞれ、秋の到来をふと
感じさせてくれるものを
お持ちだと思います。
わたしの場合は、金木犀(きんもくせい)
の香りなんですね。
別に植物に詳しいわけではなく、
どちらかというと花や木の名前には、
かなり疎いほうなんですが、
家の近くに植わっていたせいか、
これだけはしっかりと記憶に残っています。
以前にも書きましたが、
きつい匂いはあまり得意ではありません。
しかし、金木犀の木に近づいて匂いをかぐわけではなく、
普段通り、街中を歩いていて、
ちょうどいいぐらいに香りがするのがいいのです。
今年は暑いので、11月頃にならないと、
金木犀の香りは満喫できないのかもしれないな、
と思っていると昨日、今年初めて金木犀の香りを
感じることができました。
つい最近までは、金木犀の香りというと、
ただ秋を感じるというぐらいで、
もう、秋かぁ、もうすぐ入試やなぁとか、
やっと涼しくなってくるなぁ、
なんていう感想しかなかったのですが、
2年前、大きな事件が起こりました。
金木犀の香る季節のその事件は、
一本の電話から始まりました。
高校時代のクラスメートからでした。
確かに、話はしていたけど、
そんなに仲がいいというわけでもなく、
遊びに行ったこともなかったので、
同窓会でもするのかな、なんて思っていました。
しかし。
それは、高校時代の別のクラスメートKの訃報でした。
「Kが、死んだ…」
今では、はっきりとは記憶してませんが、
確か、何度か訊き直しました。
しかし、わたしが聞き間違えていた
というわけではありませんでした。
Kは車に乗っていて、事故を起こしたようでした。
もう、Kの死の原因など、忘れかかっていますが、
車同士でぶつかったのではなく、
ひとりで運転していたときに、
壁か何かにぶつかったのだと思います。
しかし、なんであれ、Kが死んでしまった、
という事実については、何にも変わりません。
正直どうしていいか分かりませんでした。
Kの葬儀に行く、喪服を用意する、
連絡のつくクラスメートに電話する。
そんなことではありません。
Kが死んだという事実に直面して、
ただ、真っ白になったという、それだけでした。
事実に向き合う心づもりが、どうしてもできないのです。
こんなことは、自分の蚊帳の外のことではないのか?
あんなことが自分の周りで起こるのか?
人の悪い冗談ではないのか?
明日行けば、葬儀の場で、
「ひっかかったー」
とか言って、出てくるのではないか?
どうしても実感が湧かない。
Kは死んだ、それは言葉としてはわかる。
しかし実際は何も分かっていない。
一体死ぬとはどういうことなのか。
しかも、わたしの同じ年齢の人間が
死ぬとはどういうことなのか。
何も分からない…
最寄の駅につくと、何人かクラスメートが
もうすでにいました。
まだ、1度だけ同窓会をしただけでしたが、
こういう集まり方だけは想定していませんでした。
葬儀には、長い列ができていました。
人のいいヤツでしたから、葬儀に出てもらえる
友人や知人が多かったのかもしれません。
Kには弟がいます。
本当にKによく似た弟です。
だからかえって、おまえKじゃないの、
といいたくなるほどでした。
焼香を済ませて出てくると、
Kの彼女がいました。
直接会ったことはないのですが、
その様子から、Kの彼女であることが見て取れました。
彼女は泣き崩れ、
とてもひとりで立てそうにはなく、
誰かに支えられていました。
もらい泣きしそうで、わたしも必死に涙をこらえましたが、
彼女の姿はいまも鮮明に覚えています。
Kの葬儀のあと、帰る途中、
かつてのクラスメートは、
こんなかたちで会うとはいえ、
久しぶりに会ったということからか、
帰る途中、べらべらと話をしたり、
ちょっと飯でも食いにいこうか
なんてことになりました。
しかし、わたしは終始言葉少なく、
カレー屋に入ったときも、あまり話をせずに
ひとりもくもくと、食べていたように思います。
わたしは、どうにも、そのよう姿勢が
さっきまでの葬儀の様子から手のひらを返したようで、
気に食わなかったことを覚えています。
少しさかのぼりますが、
高校時代、あるクラスメートが父親を
亡くしたことがありました。
わたしは、クラスの代表のひとりとして、
葬儀に参列しました。
その帰り、やはり終始無言だったわたしが、
担任に他のクラスメートが
いろいろ話をしていることについて、
あんなのでいいのかといったことがあります。
しかし担任の回答は、
「お前が、そんな引きずってもしょうがないじゃないか」
というものでした。
確かにそうかもしれない。
でもどこかで、納得できない部分が
あったのも確かです。
カレー屋でのできごとは、
ちょうどこのときの違和感をわたしに
再び感じさせることになりました。
どうやら、わたしはこの頃にはすでに
すでに「死」に対して、答えにでるでないに関わりなく、
まず、とにかく考えることができるように
なったのかもしれません。
人はいろいろな記憶を積み重ね、
記憶の束をつくっていきます。
それは意識があるうちは、記憶を取捨選択し、
記憶と記憶とぶつけて、
自分のアイディアを創造したりできます。
もし80歳や90歳で、
自分で記憶の束をつくることに
なることをやめることになったとしても、
ハードウェアの耐用年数から考えて、
諦めもつきます。
逆にそれ以上長い間生きていようとすることは、
時代の変化が激しいとつらいものと
感じるかもしれません。
そのような長い期間の記憶の束は、
ある一つの軸を中心にして、
さまざなかたちに変形しながらも、
必ずや次世代に受け継がれていくはずです。
ただ瞬間瞬間楽しいのもいいけれど、
本当に、自分という記憶の束を一つ一つあせらずに
着実に育てるということは、本当に楽しく、
人々に平等に与えられた、
楽しむチャンスなんだと思います。
しかもその記憶が、次の世代に受け継がれて
また新しい記憶の束を誕生させる
きっかけになるという連鎖反応。
でも、21歳でその記憶の束が太くなるのを
やめさせられてしまうなんて、
高級レストランへ行って、前菜で帰らされるような、
演劇を見に行って、これからというときに、
突然仕事で会社に戻らなくてはいけない
というようなことに近いような気がします。
もちろんKにだって、
楽しいことはいっぱいあったでしょう。
でもKがそんな、21年間を総括できる
ようなものをみつけただろうか。
そうじゃなかったら、
あまりにももったいない、と思うのです。
わたしは最近、やっと自分のテーマを
もつことが曲がりなりにもできた
と勝手に思いこんでいます。
これが外から与えられたものではなくて、
自分の中で芽生えたものであるだけに
途方もなくうれしいわけで、
そしてそのテーマを満喫すべく、生きていく。
何を青いこと言ってるんだ、
まだお前は働いてないくせに何が言える、
そんなことを言うのは10年、いや100年早い、
というお叱りをたぶん受けるのでしょうが、
これは正直な気持です。
よく彼の分まで精一杯生きるなんていいますが、
その彼の分ってなんでしょう?
その彼とわたしは違う人間です。
Kのテーマは、Kにしか見つけられないものです。
Kが歩むはずだった道は
だれももはや通ることはありません。
この世で何かをやりのこして逝ってしまうのも、
もちろん悲劇的なことではあります。
でも、やり残すものさえ
見つけられなかったとしたら…
今でも耳に残る明るいKの声。
わたしのような文科系の人間とは
正反対の体育会的なノリ。
それでいて、イヤミがない。
金木犀の香りとともに想いだす、
Kの死とその意味。
どうだろう、いまこんな風にKのことを想い返すのは、
豪放な性格だったKが見れば、
何を女々しいことを、と苦笑するだろうか。
いや、それともそれでこそ友だちやぁ、
と言うだろうか。
K、自分はどう思う?
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わたしが死のうとも
君が生きている限り
いのちはつづく
永遠に
その力の限りどこまでもつづく
Quoted from…
"Melodies Of Life featured in Final Fantasy IX"
2000-10-8