就職活動にあたって、口酸っぱく言われること。
自己分析をきちんとして、
あなたのしたいことを見つけましょう、
これです。
ある日、就職活動を終え、
ま、一回飲みに行くかということになりました。
就職活動がとにかくしんどかったという者もいれば、
いや、逆に楽しかったぞ、という者もおり、
感想はさまざまです。
しかし、みなが口をそろえて言った言葉があります。
「なんだかんだいっても、やっぱりやりたいことなんてなかったよな」
「そうそう。でもとにかく、就職は決まったし、いいんじゃないの」
えっ、そんなもんなんか…
就職活動のしはじめも、こんなことを言っていましたが、
ま、ある程度はできたのかなと思っていたのですが…
納得しているからいいじゃないの、
と言われればそれまでですが、
どうも釈然としない気持ちが残った一日でした。
考え方を強制するつもりはないけど、
ホントにいいワケ?
ともう一度聞きたくなるような、そんな気持ちでした。
わたしは、入学後に襲われた目標の喪失感が激しかったので、
これからどうしようかということについて、
いろいろ考えてみたことがありました。
ま、考えてみたというだけで、ぜんぜん埒があかなくて、
興味のあることを試行錯誤しながら、やりすすめていくうちに
たまたま一定の結論を出せた、という感じでした。
しかし、あまりに友人たちとの感想と違うので、
仕事ってなんじゃ?
ということについて、少し考えてみました。
仕事って、なんでするわけ?
この問いに対する一番メジャーな答えは、
生活のため、でしょう。
んが、しかし。
生活している自分って、じゃあ何なのかということにも考えが及ぶので、
「生活のため」で問いがストップしないんだろうと思います。
これは、非常に贅沢な問いです。
仕事がなくても、死なずに済むというような、
世界史上まれに見る状態にいるからこそ、
思い至ることのできる問いです。
とにかく生きているという状態から脱して、
その土台の上の+αを垣間見てしまったがために、
とにかく生きるということがもはや至上命令ではなく、
たとえ、食っていくために仕事をするとしても、
なぜ食っていくのかという疑問の受け皿がないと
やっていけないような気がします。
そんな中、次の解答候補は、
仕事は楽しそうだから、あるいは楽しいから、
ということかもしれません。
これもまた、いろいろと困った点があります。
楽しくなくなると、やめちゃうわけ?
楽しいことだったらほかにあるんだし、
仕事をする理由はほかになんかないの?
というような疑問もそういった困った点として
指摘できる一例でしょう。
また、楽しい仕事なんぞは趣味的な仕事であって、
世の中には、楽しくない仕事の方が圧倒的に多いんだ、
それに、生活のためにはたらくという真剣さがないから、
ダメだという考え方もあります。
わたしはどうもこの考え方には違和感が拭えません。
というのは、生活のためにはたらくということは、
取り立てて仕事に真剣になるということではないからです。
あくまで、生活費がもらえるから仕事をしているわけで、
仕事の内容とは関係がありません。
ところが、生活のためにはたらくという言い回しには、
「より豊かになるために、よりいい暮し向きになるように」
仕事をするという考え方がどこか見え隠れすることが多いように思いますが、
今のように、お金がたっぷりあったら何する?
といわれても、「うーん、別に」
と答えてしまう人もいると思います。
というようになれば、
「そこそこ仕事して、そこそこ生活できればいいや」
という人が増えてくると思うのですが、
ここでは経済一般への影響は不問にするとして、
それって、真剣な態度か、と思うのですよ。
打算的ではあっても、けっしてそういう心根のことを
「真剣」とは呼ばないと思うのです。
…っと、話がずれてきた。
閑話休題。
ともかく、他の回答の候補は何かを考えると、それは、
俺が(あるいはあたしが)やらないと、
ダメだからという気概じゃないかと思うのですが。
「俺がやらなくても、誰かがやる」という感覚は
広がっているかもしれませんが、
今どきこんな気持ちにさせるほど、
切迫した気持ちをもっている人は、少数派かもしれません。
よく、自分自身や身内が病気に苦しんでいて、
非常に立派な医師に治療してもらったことがきっかけで
医者を志したというケースがあるように、
何かこう、自分の人生を大きく変えるような革命的なことが
起こらないと、そういう気持ちにならないような気もします。
自分にしかできないことだと実感できる仕事のことを
日本語では、「天職」というと思います。
普通、漢字にしたほうが、漢字そのものに意味があるために、
熟語の意味も分かりやすくなることが多いものですが、
「天職」だけでは、あまり意味がはっきりしてきません。
この言葉を知らない人にとっては、
天(=神)の職業ということで、聖職者や宗教家のようにさえ
思うことがあるかもしれません。
(んなことないか(笑))
この「天職」は、英語では、「calling」というと思います。
なぜ、call(呼ぶ)なのか?
おそらく、この職につくように、という神の啓示をうけたような、
そんな職業に対するプライドをあらわしたものじゃないかなぁと思うのですが。
「お前は、その仕事をすべく、神様からお呼びがかかった」
という感じですね。
その他の意味として、「強い義務感」や「神の思し召し」
なんて意味もあるぐらいですから、
たぶんそうじゃないかと。
ま、宗教的な言い回しを除けば、
自分は、この仕事こそするべきなんだ!
という気持ちの高ぶりをもって仕事をすることといえばいいでしょうか。
言い換えれば、人生にテーマを持てる状態だと思いますね。
自分が、この世とオサラバするとき、
「楽しかったぞ、余は満足じゃ」
なんて言いながら、自分の一生に表題をつけられるよう、
いつも、どんな表題がいいか考えてる。
しかも、そのテーマをどこから与えられるのではなく、
自分で見つけ、さらに育てていけるということ、
その育てることこそ、仕事なのだということ。
それがいいんだろうと思いますね。
テーマがあることというのは、
「目標がもつこと」とは微妙に違うんですね。
たとえ短期の目標ではなく、
長期の壮大な目標・計画を立てたとしても、
そこには常に、目的に従属する手段としての行動がある。
目標と同じだけ、プロセスも大事にしていれば、
いいんだけど、目標にばかり目がいって、
プロセスをおろそかにしていたら…
目標はいつかはなくなるものです。
というより、無くならせようとして設定されるものです。
それが無くなれば、どうなのかわかりません。
とはいえ、大切なことは、実は結果にはなくて、
プロセスにあるものじゃないかということに、
うすうす気づいていても、
価値あるものは結果であるということが
大事にされている世の中です。
「だってがんばったんだよぉ」
といっても、成果を出さないことには他人は評価しません。
そ・こ・で。
プロセスを他人が評価しないのなら、自分が評価しちゃえばいいではないか。
(ちょっと欲を出すと、家族とか大切な友人にも分かってほしいけど)
だったら、プロセス全体を締めくくるテーマを見つけ、
自分の今やることを進めることで、テーマを絶えず修正していき、
自分の今やっていることが自分の人生のテーマのどういう位置を占めるのか
ということを確認していこうと思うに至ったわけですね。
少し話がそれますが、
このような気概を持って、人生を充実させることと、
意識的か無意識的かは分かりませんが、
物質的な「貧困」を関連させることを好む人がいますが、
おそらくそれは、違うでしょう。
もしそうなら、現代の日本はお先真っ暗、です。
確かに日本人が、貧困をばねにして
努力してきたことは確かでしょうが、
だからといって、貧困を美化するのではなく、
むしろ、今の日本があるのは、先人の努力によって、
貧困の問題を深刻な問題ではないようにさせてきたわけで、
そのことに対して深い敬意を払うのが、後世の人間のありかただと思います。
問題なのは、物質的な貧困に代わる
新たなエネルギーのみなもとには、
そう簡単にはありつけない、ということでしょう。
(これ以上書くとかぶるのでこれぐらいにしますが)
で、先ほどの「楽しい」に戻るのですが、
人生のテーマをつけようとして、
自分のやってることに自信があって、
ということは、「楽しい」経験と呼んではいけないでしょうか?
楽しくなくてもやれないと仕事じゃないじゃないの
ということは、もちろんそうには違いないのでしょうけど、
楽しくなくなったから、やーめたっ!
という人の楽しさは、どちらかといえば、
単なる「快楽」に近いもののように思います。
じゃなくて、ホントに熱中して
寝食を忘れて、辛いと思っても継続できる、
それって実は「楽しさ」ではないのかということです。
また、このような楽しさの状態になっているときは、
そもそも、楽しいとか楽しくないとか、
そんな考えは頭に浮かんではこないんじゃないでしょうか。
ホント、今日は話にまとまりがなくてですみません。
長いしねぇ、重いしねぇ(笑)
えっ、わたしの「テーマ」ですか…
もちろんありますよ。
それがこれからの仕事とぴったりだといいんですが。
って、仕事まだだけどね(←このへん中古車gooの広末涼子風に(笑))
あとで見たら恥ずかしいんだろうなぁ、
なんて思いつつ、今日はこのへんで。
2000-9-15