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楽しさと自分


ちょっと前に、欠乏って大事かな
なんてことを書いたことが気になって
その続きになります。

欠乏といっても、食うのに困るというようなことではなくて、
行動する余地が残されていると言うことです。
とはいえ、人間がしていたことを自動化し、
言い換えれば、人間の行動を省略してきたことは、
歴史をつうじて人間が行ってきたことであるとも言えます。
しかし、最近では自動化されすぎて、
当の人間がすることを失いつつあると同時に、
自動化されていることが当たり前になってきたような気がします。

自動化ということは、意外にも消費の場で広がっているようです。
たとえ、どれだけパソコンを導入したところで、
「仕事」自体が自動化されることはありません。
たとえ、今まで人間がしていたことが自動化されても、
また新たに人間のする仕事が発生しますし、
発想やひらめき、感性、直観力が必要なところでは、
人間でなくてはいけないでしょう。

しかし日常生活は違います。自動化されても、
またあらたな「人間のすること」が生まれません。
それは、消費の意義が、使った結果ではなく
使う過程に意義があることが多いからです。

しかも、生活においては行動を省略するところと
積極的に関与していくところが、
人によって違う場合があるので厄介です。

ふつう、家事労働なら、面倒だからやめたということですが、
例えば、掃除の好きな人にとっては、
掃除の代行業なんぞは意味がないばかりか、
積極的に楽しみを奪う憎むべき存在です。
まぁ、掃除は、ダスキンにきてもらってやるものだ
ということがそれほど一般化してませんから、
大丈夫でしょうけど。

しかしそれだけではなく、
行動を省略して、つぎ込むはずの
「娯楽」にまでこの自動化が進んでいるように見えて
しかたがありません。

つまり、
「遊び」とはこういうことだ!
だからは、こういうことを楽しめ!
こういうことはめんどくさいものなんだ!
だから、省略してしまえ!
こんな無言の圧力があって、
結果をポンと渡されたような感じです。

でもそれは、そういわれたから
なんとなくそうかなと思うだけで、
自分で見つけた楽しみ方ではありません。

これは特定の
例えば、映画でも、
勝手にオススメされるものがあって、
その「オススメ」がなんだか威圧感をもって
迫ってくるような気がするんです。
余計なお世話がパワーアップしたような感じですね。

でも本当は、これがいいんだもんねというのが
あるかもしれないし、
またみんなと同じ映画を見ても、
わたしはこういう楽しみ方をした!
といって感動するのかもしれない。
比較的、映画やゲーム(RPGです)などは、
たとえ大作で、話題に上っているものでも、
自分が関与して楽しめることが多いんと思います。

まぁ、いわばツアー旅行のように、
「はい、どうぞ」
「あぁ、そうですか」
と用意され尽くしたシナリオどうりにすすむこと、
このあたりがどうも気に食わないところのようです。

楽しくありたい。
でも楽しくあるためには、
何がしかの「すること」がなくてはならない。
でも「楽しくありたい」ためにすることとはなんだろうか?
「することがある」ということは、「楽しい」ということを実現するための
必要条件だろうと思います。

何かをしなくてもよくなった、
また何かをする時間が少なく済んだ、
ということが、意味を持つには、
節約したエネルギー行動力が
向かう先がなくてはならないでしょう。

当たり前のことですが、
楽(ラク)≠楽しい、ありません。
楽しくなるために何かしたいのに、
すでに用意されていて、
自分が積極的に関与することなく、
結果だけを受け取る。
楽しいということは結果ではなく、
過程であるはずなのに…。
そんなわだかまりが残ってしまうのです。

わたしが就職活動したときに、
パソコンの話になったことがあるんですが、
その方は、パソコンが消滅して、
機能別に専用化されていくんだとおっしゃっていました。
また最近読んだ本のなかにも
そのような主張をしている本がありました。

でも、パソコンはまれにみる「関与」を求める機械です。
ワープロソフトを使ってると漢字を忘れたりするじゃないか、
あれは自分で書かないからなんじゃないか。
やっぱり代行させてるんじゃないか。

でもそのまえに、字を書く・きれいに仕上げる
ということをしようという関与がいります。
パソコンは多くのことができるために、
その多くの選択肢の中から
選び出さなくてはならない。
家電製品のように、専用機ではないので、
目的がなく買ってしまったら、
こう使いなさいとは指示してくれない。

パソコンは欲張りなことに何でもできてしまうから、
逆に何もできないという人もいます。
だから、パソコンでつまづく人は、
特に目的がなく漫然と買ってくる人だといわれますが、
そんな人のために、パソコンは専用機に分化せよ、
というわけです。

でも、機能を欲張っているのは、実は機械ではなくて、
人間の方です。しかもその欲張りは、メーカーの欲張りだったりします。
汎用性というのは、幅広く使うことが「できる」であって、
幅広く使わなくては「ならない」のではありません。
むしろそういうことよりも、
自分の使いたいように「育てていける」ことが
何より「汎用性」の利点ですし、楽しいのです。

もちろん、メーカーが欲張りに詰め込んだパソコンを買って
自分の好きなようにすれば、
もともとついていたソフトウェアが無駄になるわけですが、
そのようなバンドルソフトの弊害は、
パソコン自身がもつ汎用性とは関係がなく、
十分に改善されうる問題です。

パソコンを汎用から専用にシフトされることは、
確かに機能をシンプルにして、
使いやすくすることに異存はありませんが、
どこを削ぐかという問題は各個人で一様ではありません。

専用機として、削ぎ落とすところを決められてしまうと
それは、わたしがパソコンに接して感じた、
パソコンの一番いいところ、
エラソーに言うと、「パソコンの効用の本質」
までが削ぎ落ちてしまうような気がするのです。

パソコンですべてをする必要はありません。
したいことをしたいだけすればいいのです。
何でも抱え込むのではなく、
したいことがしたい程度に応じてできる、
そしてしたいことがしやすいように、コーディネートする。
このように、環境を自分で育てていけるということが
何よりの醍醐味です。

パソコンですることはこれですよ、
ソフトはこれとこれとこれがありますよ、
こういうように決められることは、
先に、「遊び」はこうするものと
決め付けるのと同じように、なにやら居心地が悪いのです。

パソコンは自分が動かないことには始まらないなぁということは、
わたしは、パソコンにはじめて触れて、
面白半分に使っているうちに気づいたことです。
FF9のビビみたいなセリフですけど、
わたしにとって、パソコンは
自分について考える時間をくれた「ジタン」のようなやつです。

つまり、あまりに汎用的で、
こちらのしたいことに寛容なものだから、
どうしたらいいのか分からず、あたふたした末に、
自分でPCを専用化していくということ
を経験できたように思うのです。
だからその延長として、
自分を考えることができたのかもしれない、
そう思うときがあります。

一番いいのは、空っぽのパソコンにどれにしよっかな、
と自分でほしい機能を付け足して、
足らなかったら後から付け加えるか、
いらなくなったら消しちゃうか
そういう使い方です。
その使い方には、どれにしようか考えている自分、
いるものといらないものをより分ける固有のルールが存在しています。

そうやって自分で選んだ結果、
「何の変哲もない」結果になったっていいんです。
自分で選んだということそれこそが、
「自分」というルールがある何よりの証拠なのですから。

これは実はコンピュータだけの問題のようで、
実はそうではありません。
問題となっているのは、
例えていえば、パック旅行で満足している、依存的な心性の問題です。
お金を払えばなんでもやってもらおう、
いや、やってもらって当たり前という感覚の問題です。

今年の春頃、パラサイト・シングルという言葉で、
就職しているのに、親と同居し、
収入を自分の使いたいように自由に使って、
生活の基本的な部分を親に依存していることが話題になりましたが、
実はその依存的な性質は、世代に偏って存在するのではなく、
まんべんなく日本を覆っているのではないか
と思うときがあります。

石原慎太郎東京都知事はよく、官僚的体質を指摘するのに、
「知らしむべからず、依らしむべし」
という言葉をお使いになりますが、
まさにその考え方を官僚や企業だけではなく、
一般消費者さえもが共有してしまっているのです。

情報に消極的で、意見を言わず、情報発信しないのは、
日本人の国民性のゆえであって、
「和を以って尊しとなす」、
「沈黙は金なり」
と言う文化の差によるものだ、
いままで自動化を目標に技術を進歩させてきたんだから、
だから、何もアメリカのやり方をマネすることはない。
日本のやり方でやればいいんだ、と言う人がいるかもしれません。

しかし、国民性を持ち出す議論には、要注意です。
「遺伝子」という言葉が「絶対逃れられない運命」
のようなことを連想するのと同じように、
「国民性」という言葉には、どこか
「だからしかたないじゃない」
という諦めや運命を連想させるところが
あるように思います。

でもこれは、原因をひとつの事象に求めたり、
将来を勝手に決め込んでしまう
決定論の一種で、無責任としか言いようがありません。

パソコンの機能の分化はやばいんじゃないか、
と言った理由はここにあります。
せっかく自分が関与できる大きなチャンスなのに、
せっかく自分を知ることができるのに、
「自分で機能を分化させる」のではなく、
「企業に分化してもらう」のであれば、
この心性はいつまでたっても直らないような気がしてしまうのです。

とかなり長くなってしまいましたが、
「そういうオマエはどうなんだ、エラソウに!」
という話になりますね。

これはなにも私自身がエラくて、実践してます!
というのではなくて、一つの目標として考えていることです。
私自身、完璧な人間の対極にいるようなものですが、
でも、「あぁ、ダメだな」という欠乏感があって、だから
「こうなりたい」という希望があって、
そのためには、「こうならなくては」という目標をもつことができます。

それがわたしの場合、
自分で決められて、
責任がとれて、
自分で楽しみを
いつも創っていけて、ということなんですね。

今日は長かった…。
もし最後まで読んでいただけた人がいらっしゃったら、
どうもありがとうございました。
おつかれさまです。

2000-8-19


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