日本の戦国時代に武田信玄という人がいました。
彼が率いた甲斐国(現・山梨県)の騎馬軍団は、
戦国最強と恐れられた一方、
民衆を大切にして、当時から人気があり
自らから定めた法律にも、
異議申し立てを受け入れる用意を示すなど、
へぇ、エライじゃないのということで、
結構昔からお気に入りの人物です。
あまりに偉すぎると、すごいのは分かっても
共感できなかったりするものですが、
(上杉鷹山なんかそうかもしれません)
彼は良くも悪くも人間的で、魅力的だと思うんですが。
しかし、歴史家や時代小説の作家からは、
兵農分離ができなかった頭の古い武将だの、
鉄砲という最新技術をうまく使えなかっただの、
と言われいまいち評判がよくありません。
彼が、天下を取る(つまり、日本の統治者となる)ことを
考えていたかどうかは、専門家の間でも議論の分かれるところですが、
どちらであれ、彼の失敗として真っ先に挙げられるのが、
後継者の育成に失敗したことです。
彼は、親子関係には恵まれたとはあまりいえないでしょう。
弟の信繁とは信頼しあえるなかで、
信繁は、信玄の右腕として活躍しました。
しかし、甲斐国をまとめ上げた父親の信虎を、
その強引なやり口を止めるためであったにせよ、
追放せざるを得ませんでしたし、
駿河国(現・静岡県)に侵攻する際に長男の義信と対立して、
謹慎処分中に自殺してしまいます。
そこで、後継ぎの四男勝頼がクローズアップされますが、
彼は父親から、リーダーとしての経験を
あまりもたせてはもらえなかったようです。
そしてその結果は歴史が示す通り。
リーダーとしてどう行動してよいか分からず、
結局、父信玄の死後10年足らずで、武田家は潰れてしまいます。
信玄が後継者の育成に失敗したのは、
自分の理想に向かうという大仕事に不可欠な
リーダーとしての役割を全部自分でしてしまおうとして
仕事を抱え込んでしまったからなんじゃないかと思います。
彼は自分が育てた家臣には、たいそう信頼を置き、
自ら独断で決めてしまうよりも、その合議を重んじました。
彼は、人を見抜く力もあり、農民であっても武士として雇われ
能力を発揮した人もいます。
しかし、当時は、リーダーとしての地位は絶対的に世襲であり、
能力があるから他人に渡すというのはもってのほかだったでしょう。
でも、地位を渡すべき肉親とはうまくゆかない。
だから、全部自分で背負い込もうとしたからではないかと思うのです。
特に、彼は中国の古典をよく読み、
君主とはいかにあるべきかという理想を持っていたようですから、
なおさら、自分がしっかりしなければ、と力んでしまったように思います。
話が長くなりましたが、要は、自分だけでやることと
自分も参加しつつ、みんなでやること、そして他人に任すことを
きちんと使い分けるということは、
依存グセのある人にも、自分はしっかりしているという人にも
大事なんじゃないかと思ったりします。
自分だけで、とがんばっていると心身ともに持続しません。
では、体と心がもてばいいのかということでもなく、
ある意味では信玄のように、
人を心底信用しきれていないのかもしれません。
また、他人に任せてばかりでは、他人に依存する癖がついてしまい、
自分では何も決めることができなくなります。
自分で決められないということは、
他人とは自分の存在が希薄であることに他ならないわけですから。
最近は依存する考え方が広がっていると言われ、
自分を自分で律するということが、
もっとも見なおされてもいいと思いますが、
(自分の含めてです。言うは易し、行うは難しですね(笑))
もともと自分で自分を律する人は、
得てして、マジメになりすぎることもあるように思うですが…
ま、「がんばりすぎず、怠けず」といったところでしょうか。
2000-8-14