わたしのページはほぼ文字情報だけです。
これはインターネットを取り巻く現状に逆らった姿勢です。
インターネットは、いまや文字情報だけではなく、
画像や動画をどんどん取り込んで、
魅力あるコンテンツを作らないといけないのに…、なんていうのは企業の話。
いわゆる広告としてではなく、コミュニケーションの手段としては、
文字情報を主体にするべきだと思っています。
わたし自身は、直接的なコミュニケーションも大事だとは思いますが、
直接的なコミュニケーションもまたすべてを語らず、
断片的なものだと考えます。
そしてもちろん、文字情報によるコミュニケーションも断片的です。
得られる情報が全体的ではなく、断片に過ぎないという点では、
両者とも等価値です。
人間は生まれたときからのコミュニケーション手段である、
直接的なコミュニケーション、
つまり五感を駆使する非言語コミュニケーションが
あまりに「アタリマエ」でありすぎるため、
直接的であるが故の錯誤、先入観、偏見が生じることを忘れがちです。
物理的に近いことによって
全人格的なコミュニケーションが成立していると錯覚するのです。
そもそも全人格的なコミュニケーションというものは存在しえません。
それは、人間が行為の主体になることができるのは、
分散された他者との関係性の集合体から生じるものであるからです。
コミュニケーションの相手によって、
「自己」とある「他者」の関係は変わります。
そして、また別のある「他者」とはまた別の関係が成立しています。
全人格的なコミュニケーションというものという発想は、
「自己」というそれ以上分割されえない
絶対的中心を想定することなしには成立しません。
もし、絶対的に優位なコミュニケーション手段がないことを受け入れれば、
多様なコミュニケーション手段をもつことは、
人間のさまざまな側面を知ることができるという意味で、
人間に対する理解を深めることができると思います。
匿「顔」性のところでも書きましたが、
今までにも、数々のメディアが登場して来ましたが、
感覚的な判断を排除したものは、手紙、電報ぐらいではないでしょうか。
ラジオは聴覚、テレビは聴覚と視覚、電話も聴覚、といった具合です。
インターネットや電子メールが可能にした
文字だけによるコミュニケーションの特徴として挙げられるのは、
まずそのスピードです。手紙では遅すぎて、
コミュニケーションを育むことに時間がかかるばかりか、
遅すぎて、わざわざ使おうとはしないでしょう。
その意味で、手紙は特殊な関係にあるときに
その真価が発揮されるのだと思います。
そしてもう一つは、地縁でも血縁でも、社縁でも学校縁でもない、
興味による縁を作り出すことができたということです。
考え方によっては、五感を排除した文字情報は
無味乾燥というように移るかもしれませんが、
実際、書籍ではそういうようには思うような人はないでしょう。
結局、視覚情報としては生身の情報には勝てないのは当然で、
コンピュータといえど、代替できるものではありません。
むしろ、五感による情報を遮断して、
文字情報に特化させることで、
文章から浮かび上がる「ヒト」の一側面を
垣間見ることができるということのほうが大きいように思います。
ただ、もちろんこれも断片ですから、
文字情報による偏見が生まれてくる可能性は
しっかり肝に銘じておく必要があるでしょうね。
実際、ネカマのように悪意がなくても、
女性が男性に間違われり、
男性が女性に間違われたりするというような例がありますから。
そういう批判の声があるのも、
文字情報の特質に注目せず、
いわゆる広告・販促媒体として
インターネットへ向けられる過剰な注目と怪しい期待が
あることが大きいと思います。
しかし、インターネットがその進化を発揮できるのは、
そのような技術の進歩の向きとは
全く逆の「文字情報への特化」においてだと思います。
あらら、書いてるうちにエライ堅い話になってしまいました。
ごめんなさい。
2000-8-11