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批判されるきもち


人は、自分の考え方に対して批判的なものに対しては、
あまりいい気分がしないものです。
それがたとえ、正しくてもです。

人間の気分というものは、
正しいか正しくないかより、
いい気分がするかしないかに
左右される傾向の方が強いようです。
自分の持っているその考え方に
自分が惚れこんでいれば惚れこんでいるほど。

かくいうわたしも、まだまだ人間ができているわけではなく、
「青臭さ」の抜けきらない人間ですが、
視点を複数持つという目標の下に
可能な限りいろんなジャンルの本を読もうとしています。
(困難を極めていることはいうまでもありませんが(笑))

こんなマイナーなページを見て下さっている方ならば、
おそらくインターネットについては、
ある程度肯定的な見方をなさっているのではないでしょうか。
もちろんわたしもそうです。
コンピュータやインターネットに接することだけではないにせよ、
これらとの出会いが、自分の転機になったことも確かです。

しかし、わたしは、インターネットの可能性を
まるまる否定したような本をあえて読みました。
いわく、コンピュータは思考を停止させる、
直接のコミュニケーションこそがすばらしい、
インターネットは人間の絆を脆弱にする…など。

これはホントにつらいし、ストレスはたまるし、
読み進めては立ち止まって考えるために、
読むスピードが急激に落ちます。

でも、ある一点を過ぎると面白くなってくるんですね。
つまり、その結論には同意できなくとも、
その視点が新鮮であるということです。
そしてその視点で自分が考えるとどうなるだろうか…
と考えると、自分の考えが拡がることもあります。

どんなことについてもそうだと思いますが、
人間は物体や事象をそのまま感知することはできません。
必ず視点が必要です。どこから見るのかということです。
そしてどんな視点もそうであるように、
自分が持っている居心地のいい視点というのもまた
対象に関して問題となるところの一部に光を当てているだけです。

ですから、全体を知りたければ、
いろんなところから光を当てて、それを総合してみないといけない。
全く一面的な部分の理解で、すべてを理解したと思い込んでしまう、
ということになってしまいます。

ところが、自分と違う考え方というのは、
もちろん視点は同じでも結論が違うというようなこともありますが、
視点が全く違う、つまり前提となっている価値観が全く違うこともあります。

たとえ、議論を導く論拠が弱くて、議論の運びに飛躍があったとしても、
どこに検討すべき問題があるのかを
学ぶことができただけでも重要な収穫です。
別の光を当てられるようになるわけですからね。

また、この自分とは異質の意見も一つの考え方であり、
議論の前提として依拠している価値観が存在することが分かります。
そしてその発見は、自分自身の見解に含まれる価値観を見つめなおす
というところにつながってきます。
あぁ、自分はこういうことを大事にしているのか
ということが分かって、自分で自分にびっくりできたりして
楽しいものです。

2000-8-11


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