最近、フリーター層の拡大が話題になっていますよね。
また、パラサイト・シングルと名づけられた
未婚の若い人たちに対しては非難囂々です。
私自身は、その消費の側面に興味があるのですが、
一般的には、どちらに対しても労働に関する側面のほうが関心を引くようです。
ブランド消費はいわずもがな、
パラサイトシングルに至っては、
生活に欠かすことのできない部分のコストを負担しないがために、
生活のために働いているという感覚がなく、
人から良いと思われたい仕事を探そうとするために、
気に入らなかったらすぐやめるという
「労働の趣味化」だとというわけです。
確かに、一般的に経済的に独り立ちすることは
心理的な意味でも独立することを促すことになるのでしょうし、
それが確固たる「自己」の形成の契機になるだろう
ということは容易に想像できます。
そこでいわく、生活のために働いていないから、
日本経済に活力がないのだ、
親同居税でも課税して、親から自立させて、
日本経済、ひいては日本社会の活力を…。
でも、みんなが生活のために働くことが、
つまり経済的に自立することが、
社会に活力を与えるというのは、論理の飛躍があります。
今、本当に生活のために仕事をするということは、
そこそこの給料をもらって、
休みが充実しているということなんじゃないでしょうか?
そこには、社会に対する活力源となるような
エネルギーが生まれてくるような気配はありません。
社会に活力がないというのは、よくいわれているように、
ヒエラルキー型の社会から、ネットワーク型の社会に
変わろうとする流れのなかで、
権力や購買力に対する魅力が落ちてきていることと
非常に関係があると思います。
「出世」や「所得」なんてはまったくその通りです。
企業に勤めて自由がなくなるなんて言い出すのも、
実際問題としては、束縛の存在自体は今も昔も変わらないわけで、
つまりは、「自由」と「所得や出世」を天秤にかけたとき、
そんなに「所得や出世」が魅力あるものではなくなった、
ということでなんでしょう。
私は、ベンチャー企業といわれている新興企業の経営者が何を求めて
起業しているのか、その動機については深い知識を持ち合わせていませんが、
もしそれが、新市場開拓や特許による独占的利潤を求めた、
いわゆる「一攫千金」を目指しているんだったら、
別の意味で、すごいなぁと思いますね。
こんなに金持ちの意味がなくなっている時代に
よく金持ちを目指して、働けるなぁ、と。
ならば、経済的インセンティブを与えても、
その根本に存在する活力の冷え込みを再び熱気を求めることは、
もはや叶わぬ願いでしょう。
皮肉な話だが、活力と欠乏は表裏一体です。
もちろん、現在に経済的な欠乏を再現することはできませんし、
してはならないことでもあります。
ですが、何か別の「欠乏」がない限り、
社会に活力は生まれてこないのも事実です。
むしろ、関係性を求めるネットワークの時代になりつつある今、
新たな活力源となる「欠乏」を見出せないということが
ひとつの問題点として挙げられるのではないでしょうか。
これは、労働に関する問題だけではなくて、
豊かな時代の「行為」の意味が問われているといってもいいでしょう。
豊かという言葉には、物質的に恵まれている
という意味ももちろんあるが、
必要不可欠な行為を省略でき、
行為の選択ができるということも意味しています。
われわれにとって行為とは
生存のために費やすものであって、
何をしようかなどという発想が一般化すること自体、
初めてのことではないかと思います。
これこそ求めて来た豊かさだったのかもしれませんが、
そうだからこそ、恵まれた行動力が行き場を見失っている、
とも見ることができます。
その恵まれた行動力はどこに流れるか。
何も変化が起こらないなら、
それは水が高きから低きに流れるがごとく、
努力しないよい、ラクなほうに流れるのは当たり前でしょう。
就職活動をする学生に言われる言葉、
まず何がしたいのかはっきりさせること…
これは、学生だけにあてはまることではないかもしれません。
思い描く「希望」の背景としてどのような「欠乏」を見いだすか。
今度の欠乏は、以前と違って、
誰にでも簡単に分かるものではないようです。
問題が難しいかどうかより、まずどこに問題があるのか、
それを探すのが難しいといってもいいかもしれません。
インセンティブを与える前に
このようなことが、話題になっても面白いのではないかと思うんですけどね。
2000-8-7