お弁当を抱えて満員電車に乗って、同じ車両の同じあたりに乗り込んだ風景は、毎日変わらず私を受け入れる。
名前も年齢も知らない、それでも顔だけは知っている通勤車両の周囲の人間の、変わらない少しうんざりとした表情を眺めながら、私も人知れずため息をつく。
「中止する、だって?」
太志さんに告げた言葉は、切り出した自分自身にもずしんと重く響くものだった。予期していたとはいえ、太志さんにとってはさらに衝撃的な出来事で、ほんとうに言葉を失う、というのはこういうことなのだとぼんやりと彼の顔を見つめる。
「……どうして」
数分の重い沈黙ののち、開かれた口は、単純な疑問を吐き出す。
それは、そうだろう。
表面上何も問題なくやってきた私たちが、ここにきて結婚を中止する理由などないのだから。
「私、太志さんには感謝してる」
噛みあわない会話に太志さんが沈黙する。
何を言っているのかわからない、という表情は初めて見るもので、私はこの人のこともよく知らなかったのだと痛感する。
「あの時、太志さんが色々してくれなかったら、病院から出られなかった、ううん、少なくとも家から出られなかったと思う」
直人との別れと、入院。あの時太志さんの差し伸べた手がなければ、私は今ここでこうやって話していることすら出来なかったのかもしれない。
直人への依存から、太志さんへの極度の依存。
それはゆっくりと確実に移行していき、少し前までの私はそれに気がつくこともなく、真綿に包まれたように安穏としていた。
気が付かなければ、ある意味幸せだったのかもしれない。
だけれども、気が付いてしまった自分に嘘はつけない。
「だから、感謝している」
「感謝、だけなのか?」
感情を極力抑えた太志さんの声が響く。
こういう会話は、この明るい日の光を取り入れたカフェには不似合いかもしれない、と、周囲を見渡す。
誰も彼もこちらのことなど気にすることなく、一人でのんびりしていたり、仲間内で会話を弾ませていたりしている様子が目に入る。
私と太志さんの二人も、前まではああいう風に見られていた、のかもしれない。
少し残念で、少し寂しい。
「俺への感情は感謝だけなのか?」
出会ってから今までの思い出が急激に脳裏にうかび、きりきりと胸が痛む。
そうじゃない、と声にだせなくて、太志さんの苛立ちは増していく。
「あの男か?あの男のせいなのか?」
「違う、全然違う。あの人はもう関係ない」
私の大部分を占めていて、今でもどこか痛みを伴う藤崎直人という人間は、もうきちんと過去のことになっている。
太志さんと付き合いながらもいつもいつも、大半の思う心は直人に向かっていた。
そんな不誠実な私の態度が、今ここにいる私と太志さんの状況をもたらせてしまった。
「それはすぐに否定するんだな」
「……だって、違うから」
トントンと速く設定されたメトロノームのように太志さんの人差し指がテーブルを叩く。
隣の席の女性が、その音が気になるのかチラチラとこちらをのぞきこんでいる。
「太志さんには悪いと思って…」
「違う、そんなことを聞きたいんじゃない」
抑えきれない怒りが、常にないキツイ口調で私へと浴びせられる。
一瞬周囲が静まり返り、会話が止んだお客さんたちの好奇心に満ちた視線がこちらの方へ向かってくるのがわかる。
気が付いているのかいないのか、イライラを隠そうともしていない。
「あの男は関係ない、じゃあどうしてそんなことを言いだすんだ?納得できない」
もう、好きじゃない。
違う、最初から。
わかってしまった私の心は、とても口にだせるものではなく、だけれども、このままで太志さんに理解してもらえるものじゃないことぐらいわかってはいる。
だけど。
「他に好きな男でもできたのか?」
「そんなわけない」
太志さんの目を真っ直ぐと見据える。
「じゃあ、なんだっていうんだ?」
怒りの中に不安の色を滲ませた太志さんの顔は、弱弱しい。
そんな顔をさせてしまった自分がいやになる。
「独立、したいから」
私の気持ちをストレートに表しているようで、それでもまだぼんやりしたままで、これ以上しっくりくる言葉を口に出すことができないでいる。
「わけがわからん」
「うん、ごめんなさい。私もこれ以上上手く説明できない」
「会社辞めるのが嫌だったのか?」
「そんなことは、ないけど」
誰でもできるような私の仕事は、私が辞めたところでまた新たに同じような若い女性をあてがえば済む。それぐらいわかっていたことで、だから私はあの職場に執着も未練もない。
「引っ越すのがいやなのか?」
「そうじゃない」
確かに、彼の実家の近くへと引っ越すことにかすかな不安が無かったといえば嘘になる。まして、彼の母親には私の病歴をたてに、遠まわしに結婚を反対されていたとあれば、思わない方がどうかしている。
小さな不安や不満は数え上げればきりがなく、だけど、それら全部をあわせても今の私の理由にはならない。
いつまでたっても太志さんの納得する理由が言えない私に、太志さんは会話を切り上げ、捨て台詞を投げつける。
「俺は、絶対そんなの承服しないからな」
取り残された太志さんのカップには、口をつけられていないコーヒーが注がれたまま。
私はすっかりぬるくなってしまった紅茶を飲み込み、薄っすらと冷や汗をかいていた両手をあわせる。
痛みよりもようやく言い出せた安堵の方が体中に染み込んでいく。
もう後戻りはしないのだと、言い聞かせるようにしながら。
半そでが肌に馴染み、確実に季節は巡っているのだと、ようやく確保したスペースから電車の外を眺める。
木々はどこかうんざりしたような様子をみせ、冷房の効いた車内で今日の気温を思い出させてくれる。
あれからもう一年以上経ったのだと、今さらながらに月日のたつ速さに驚く。
延期から中止に。
太志さんとの最初の話あいから数ヶ月の後に、ようやくそういうことに落ち着いた。
幸い結納を交わしていなかった私たちは、慰謝料なども発生することなく、婚約を解消することができた。
母親はあからさまに落胆し、彼の母親は控えめに安堵していた。
色々な人に迷惑をかけて頭を下げて、結局私の退職、という生きていく上ではそれなりのペナルティーを受けることで終結した。
手に職も無く、若いと言い切るには微妙な年齢での再就職は厳しく、父親のコネでようやく中小企業の事務員という場所を確保することができた。
前にいた会社の規模と比べるべくもなく、給料も福利厚生もいいものではない。
だけど、お仕着せのように仕事をさせられ、人形のように暮らしていた毎日では思いもかけないほど、自らの判断が必要とされる職場はとても楽しい。
さんざんわがままを言った両親とも、以前よりいい関係になったかもしれない。
相変わらずあんなにいい人を、とぶつぶつ言っている母親にしても、私をからかう材料の一つ、ぐらいにしか思っていないようだ。
婚約破棄をしてすぐ、千歳の結婚式に参加した時には、腫れ物に触るかのごとく扱われた私だけれども、思いのほか能天気に参加していた私に、彼女達は逆にどうしていいかわからなかったようだ。それが強がりではなく、本心からの私であったことに気がついた頃には、友達も普通に話題を振ってくれるようになってくれた。相変わらずどうしてあんなエリートを、という母の愚痴と同じようなレベルのものだけど、「どうせなら合コン開いてくれればよかったのに」と、すでに恋人がいる友人の冗談とともに流される程度の軽い会話に終始するようになっていった。
私は、恵まれている。
何にもない、からっぽだ。
そう思っていた私は何も見ていなかったのだ。
私にはまだこれだけ私の事を考えてくれる人たちがいてくれる。
今はそれだけで充分。
降りる駅が見え、電車の扉が開く。
一気に押し寄せる熱気と、人の波をかいくぐり、私は職場へと向かう。
決まった路を決まったように歩き、見慣れたオフィスへと到着する。
一瞬だけ吹いた涼やかな風に、ほうっとため息をつく。
ビルの隙間から見える空は似つかわしくないほど晴れわたり、その青色は吸い込まれそうなほど深い。
平凡な毎日、平凡な日常、そして平凡な私。
だけど、私はそんな私を愛している。
そう、ようやく私は口にだしてそれを言えるようになった。
座り込んで泣きじゃくっていたあの頃の私の手を取り、私はようやく今ここに立っていられるようになった。
私はもう、私の手を離さない。
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