04 - 手を引いて

 その手を離すつもりはなかった。
けれど、私はもう彼の手に引かれ進む未来を描くことはできなくなっていた。



 学生時代から続く恋人同士。
そんなありふれた二人にもイベントはある。
同棲からいきなりの遠距離。そして、駆け込みのような結納みたいな行事。
どれもわくわくするほどでもなく、かといって冷め切った風でもない。
彼も私も、嬉しいのかどうかすらわからないほど慣れすぎてしまっていた、のかもしれない。
淡々と進む雑事に、徐々にお互いの口数も減っていった。

「なぁ、おまえ、やっぱり仕事やめない?」

唐突に繰り出したのは彼の方で、思いもよらない言葉を口にする。
遠距離にいたった理由は、私の転勤のせいである。もちろん断ることはできるけれど、そうした後の未来は簡単に想像することができた。
学生時代からこつこつと努力して、ようやく掴んだ憧れの職種も、その段階で閉ざされるのだろう。
他部署への出向、という形として。
だからこそ、断るつもりも予定もなかった。
そのことを相談した記憶はあるけれど、彼から返ってくるのは生返事ばかり。
彼の方は彼のほうで、仕事が行き詰った時期でもあったようだ。
私へリソースを割く余裕はなかったのだろう。

「へ?なんで?」

思いのほか間抜けな声がでる。
それほど、私にとっては意味不明な言葉だからだ。

「いや、だって、別にそんなに働かなくたってさ」

その後に、どうせ結婚するんだから。という言葉が聞こえたような気がした。
彼の家は専業主婦の母親に仕事人間の父親、母親の人生をトレースするかのような姉、という家族構成だ。
もちろん、それが悪いとはいわないけれど、育ってきた家庭、いや、母親のありかたが子供の家庭へのスタンスへ寄与する、というのはそれほど間違ってもいないと思わせてくれる。
彼は「家事は女の仕事」であり「やってあげている」ものだという固定観念から離れることはない。
それに気がついたのは最近のこと。
女友達の愚痴から、彼は分担をしてよく家事をしてくれているとありがたく思っていた。
私が帰宅してご飯を作るまで待っているわけでもないし、風邪となれば「俺の飯は」でも「食べてくるから気にするな」でもなくスポーツドリンクを置いて最低限のケアはしてくれていた。
あたりまえ、といえばあたりまえだけれど、それすらいまだにこなせば「できる男」かのように友人に羨ましがられていた。
けれども、彼にとってはそれは無理をしてやってあげていることだ、ということを些細な口げんかをきっかけに暴露された。
口をあけて、彼を凝視したまま固まった私に、彼はばつの悪そうな顔をして、数日後にはなかったように平穏な日常へと戻った。
私の中に小さなしこりを残したまま。

「ずっとつきたかった仕事だって知ってるよね?」
「それは、知ってるけど」
「期間限定だって相談もしたし」
「……聞いた、ような気もするけど」

そのまま黙りこくる。
不機嫌に口をつぐみ、そして彼は自分の意見を通してしまっていたことを思い出す。
大体、面倒になった私が折れることがほとんどだからだ。

「それに、二人で働かないと将来不安だって言ってたのはそっちだよね?」

時代が違う、とか、これからの女性は、だの言っていた言葉を突きつける。

「それは、そうだけど……。ほら、パートとかさ」
「だから、仕事やめたくないって言ってるじゃない」
「でも、お袋だって」

徐々に小さくなる声で、本音を吐露する。

「ああ、家事全部やって、あなたの世話もして、育児もして、ついでに金も稼いでこいってこと?」
「別に、そんなつもりじゃ」

ふいと、横を向く。
そして再び口を閉じる。

「ともかく、もう決まったことだから」

何度も何度も、彼に相談していた事実が間抜けに思えてくる。

「ふーん、そう。だったら別れよう」

横を向いたまま呟く。
そしてちらり、とこちらを伺うかのような視線をよこす。
ぐつぐつと煮えたぎっていたものが一瞬にして冷え切る。
あれこれ悩んで、それでもベターな道を選んだという自信がぐらりと揺れる。
唇を噛み締めて、痛みでさらに頭が冷えていく。

「……わかった。そういうことならそうしましょう」

振り向いて、目を見開く。
予想外の答えが私からもたらされ、それでも次の言葉を口にすることはない。
今までの思い出も、気持ちも、どこかへと流されていく。
座ったままの彼を尻目に、最低限のものをバッグへと詰め込んでいく。
もっとも、彼は実家へ私は赴任先へと引っ越す予定だった部屋は、すでに私の私物はあまりない状態だけれども。

「じゃ、さよなら。あとでいろいろと清算しましょ」

最後までかからない声に、最後の最後まで残っていたわずかな未練が吹き飛んでいった。



後日、スムーズにいくと思った清算も実母から背後を撃たれる、という精神的ダメージで困難を極めた。
そして、私の未練は砂粒ほども残らずどこかへと消え去っていくこととなった。



お題配布元→capriccio
再掲載:3.24.201710.07.2016




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