あの時にみた、景色を思い出す。
ひらひらと飛ぶ淡い光に、それを注視する人々の群れ。
私たちも、確かにあの中にいた。
「……聞いてるのかよ?」
ぼんやりとしていた私に、夫の声がかかる。
いつもは私が口にする言葉を彼の方から聞けるだなんて、と、違うところに笑い出しそうになる。
「聞いてなかったけど?」
つい、と、口から零れ落ちる言葉にはどこかとげがある。
別に機嫌が悪いわけではない。
常ならば彼がとるような態度をとる。
どこか鬱屈した現状に対して、私はやっぱりたまっているものがあったのかもしれない。
リミットを越えた何かは、堰を切って止まってはくれない。
舌打ちをして、もう一度何かを説明する。
彼の声は私の耳を上滑りして、ただ言葉の羅列が散らばっていく。
「ふーん」
「っなんだよ、その言い方は!」
激高した夫は、机をたたいて立ち上がる。
大きな音がして、椅子が倒れる音が続く。
「それで、いいんじゃないのかしら?私には関係のないことだし」
ゆっくりと気持ちを吐き出していく。
そう、関係がないことだ。
いつもいつも先回りして、何もかもを整えて。
そして賞賛を受けるのは彼だ。
彼の家族をもてなしたところで、突然の来客に対応したところで、私をねぎらってくれる人は誰一人いない。
当の夫ですら、それは「当たり前」のことだと、思っているのだろう。
「関係ないって」
いつもとは違う私に、先ほどまでの威勢のよさが消えていく。
そういえば、この人はおとなしくて優しい人なのだったと思い出した。
「うん、関係ない。あなたの友達なのだから、あなたがもてなせばいいんじゃないの?私が私の友達にやっているように」
実のところ、私の友人たちがこの家にやってくることはない。
「他人」がこの家へと入ることを、「夫」が嫌がるからだ。
共働きの私たちにとって、私の友人を招くこともハードルが高いことではあったのだけれど。
「私はその日出かけるから、貴重品は鍵のかかる部屋においておくから安心して」
見上げて笑う。
どうしていいのかわからないまま、泣き言も罵声も浴びせられない夫が立ちすくしている。
「じゃ、急ぐから」
いい逃げをするようにして出勤する。
目の前をゆらゆらと、光が通っていったような気がする。
思わず右手でそれを捕まえようとする。
ゆっくりと開いた手のひらの中は、もちろんからっぽだ。
「そういえば、蛍、覚えてる?」
振り返って彼の方に問いかける。
呆然としたままの彼は、あからさまにわけがわからない、といった顔をする。
その表情をみて、何かが落ちてきた。
「ま、いいや、そんなの」
口に出して気持ちがすっと冷めていく。
最後まで残っていた「情」の部分が抜け落ちていく。
蛍はもう、私の周りを飛ぶことはない。
お題配布元→capriccio様
再掲載:09.22.2023/web拍手:03.09.2017