79.耐えられる
こんなことには耐えられない、なんて弱音を吐くことも許されないのかもしれない。



今の時代にと言われるかもしれないけれど、所謂名家のお嬢様として育てられた私には許婚と言われるものが存在した。
もっとも、幼い頃はその意味がわからずただの仲の良い遠縁のお兄ちゃんとしか思わなかったのだけれど。
その意味が変わったのは思春期を越えてから。
急に逞しくなった彼の存在に、突然優しいお兄ちゃんは異性であり私とは違う存在なのだと気がついてしまった。その時からずっと私はお兄ちゃんのことを追いかけては、振り払われない彼の手にどこか安心していたのだ。
だから、彼が急に結婚をすると言い出したときには世界が終わったかのような気分を味わった。

「嘘でしょ?」

それ以外の言葉など出るはずもなく、私はただ呆然とお兄ちゃんの顔を見つめていた。

「お前には最初に言っておかないと、と思って」

照れたような笑顔を浮かべるお兄ちゃんは、今まで見たこともない程"男"を感じさせ、私ではこんな顔をさせることはできないのだと、その存在を遠くに感じてしまった。
頷く事とも出来ず、否定することもできず、突っ立ったままの私には気がつきもせず、彼女の事を嬉しそうに語るその顔を今でも忘れることができない。
私はその人には勝てない、そう思ったからこそ卑怯な手を使ったのだ。
彼が根回しをする前に恋人の存在を触れ回り、気が狂ったように泣きつづけてやったのだ。裏切られた許婚として。
遠い日に親同士が決めた縁談など、古臭くてカビが生えたも同然だ。何が何でも私が彼と結婚しなくてはいけない、などということはないし、他の人間と結婚したからといって彼が跡取から外れるはずもない。彼女が有能だと認められれば別に結婚することに誰が口を挟む問題でもない。焦りが私の気持ちを後押しし、唯一の女孫だという立場を利用しておばあさまを焚きつけたのだ、この私が。
孫には甘い祖母は、案の定彼の一族へと働きかけてくれた。最初は戸惑っていた相手の家族も、あの年齢の女性なら当然とも言うべき男性遍歴をまとめた報告書を渡されるにつれ、徐々に彼女への態度を頑ななものへと変化させていった。
私と結婚しなければ、会社も継がせないし、親子の縁を切る。
最終的には彼の両親はそれほどまでに態度を硬化させていった。
その間、私はただ泣き伏せているのみ。事態は思いも寄らぬ方向へと転がり落ちていく。
彼女を捨てる事も出来ず、かといって、親子の縁を切ることもできないお兄ちゃんはよく言えば優しく、悪く言えば優柔不断だ。無理やり結婚して、彼女がどんな目に会うのかを躊躇していたのかもしれない。
結局のところ、何も言わずに彼女が彼のもとを去ることで、決着がついた。
抜け殻のようなお兄ちゃんを残して。



 今目の前にいるのは私が好きだったお兄ちゃんなのだろうか。
頬が削り取られ、明らかに顔色が悪いおにいちゃんは、飲めもしないお酒をあおっている。
いくら飲んでも酔いが訪れないのか、明らかに度数の高いお酒を水のように飲み干している。

「お兄ちゃん、もうこれぐらいで…」

私が酒瓶を取り上げようとするものの、彼は引っ手繰るようにしてそれを奪い返す。
据わった目でこちらを見上げ、聞いたこともない程冷たい声音で話し掛けてくる。

「これで満足か?」
「満足って」
「俺と結婚できて満足かって言ってるんだよ」

乱暴に酒瓶がテーブルの上に置かれ、その音に驚いた私は僅かに飛び上がる。

「おまえの画策だろ」

部屋に閉じこもって泣いたふりをして、裏で色々していたことを指しているのか、彼は似つかわしくない薄笑いを浮かべる。

「結婚してやったんだから、これで満足だろ?」

確かに、今日は式と披露宴が行なわれた。始終無表情の花婿と、それを窺うようにしてビクビクしている花嫁。周囲もその雰囲気を感じ取っていたのか、お祝いムードとは程遠い微妙な空気が流れていた。
しかも、先月退社した彼の元職場の同僚達からは明らかに私に対する悪意が感じられた。
いなくなった彼女が同僚だと言う事を考えればあたりまえかもしれないけれど。
私は一生で一番幸せだといわれる瞬間を、こんな状態で過ごしてしまったのだと思い、愕然とする。
お兄ちゃんの口は止まらない、吐き出すたびに私はどんどん心を凍らせていく。

「いっとくが、お前にはこれっぽっちも愛情を持つつもりはないから」
「ないって、だって、結婚したのに」

イヤイヤだとはいえ、みんなの前で誓ったじゃないか、とは、とてもじゃないけれど言えない雰囲気だ。

「それに、顔をみるのもむかつくのにセックスなんて気持ち悪くてできるわけない。悪いけどほかをあたってくれ」
「お兄ちゃん以外の人なんて考えられないのに!」
「お前だけは考えられないんだよ、俺は。そうそう、ほかをあたるのはいいがばれたら容赦なく離婚するつもりだから」
「じゃあ、じゃあ、後継ぎはどうするのよ」

家同士の結婚をする、というのは、そういうおまけもついてくる。いや、血族で経営している会社を存続させるには結婚の意味はほぼそれと同義語なのかもしれない。私は全てを捨てて、家という囲いで彼を追い込んでいったのだから。

「適当にどっかで仕込んでこい。止めはせん、もっとも離婚が早まるだけだが」
「私にどうしろっていうのよ!!!」

あまりに理不尽な彼の言葉に、思わず言葉をぶつける。今まで大人しくしていた私に少しだけ驚いている。

「ふん、お前が望んだのはこういうことだ」
「違う」
「両親を煽って、彼女に罪悪感を埋め込み、そうまでして結婚したかったんだろ?望み通りじゃないか」

いくら家同士が決めた許婚とはいえ、私はこの人のことが好きだから。

「おまえは俺からなにもかも奪ったじゃないか」

彼の目が暗く揺れている。
何も言えなくて、せめて彼の前では泣かないようにする他はできなかった。
彼はそのまま二人のために用意されたホテルの一室を出て行った。
新婚の二人へと用意されたフラワーアレンジメントが所々に置かれ、華やかな部屋とは対照的に取り残された惨めな女が一人。
一人では広すぎるベッドに顔を埋め、もう枯れたと思った涙が再び流れ出す。
すれ違った二人は永遠に交わらないまま。
私はこのまま耐えていく。
これは、私の罪だから。

続編
10.31.2006再録
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