85.海
 この海が見える別荘が一番大好きだった。
浜辺まですぐ近くのこの別荘に来るのは久しぶりだった。
子供の頃から何度となく訪れたこの場所は、私にとっては思い出がつまりすぎて、不本意な結婚をした今となっては来るのが辛すぎた。 だからこうやって、バルコニーからこの景色を眺めるのも本当に久しぶりだ。
不本意な結婚。
それを私の方から口にするのは卑怯な気もする。
たぶん、夫の方こそ声を大にして主張したいことだとも思う。
だけど、一度も私の本心すら知ろうともせず、すれ違いどころか同じ生活圏にもいない暮らしを強いられている我が身にとっては、最初の頃にもっていた罪悪感すら擦り切れてしまった。
初めの頃は、そのうちなんとかなるだろうと高をくくっていた両親も、一向に夫婦らしくならない私達を見て、口には出さないまでもあからさまに心配した顔を向けられるようになった。たぶん、私達の実態が知られるのも時間の問題だと思う。いや、本当は知っているのかもしれない、知っていて、それでもあまりに娘が惨めで言い出せないのかもしれない。
子供でもいれば違ったのかも、と思わないでもない。
だけど、指一本すら私に触れようともしない彼との間に、そんなものは出来るはずもなく、よく知りもしない親戚達からはまだかまだかと一方的に責められている。そんなことにも疲れているのかもしれない。
突然この波打ち際を眺めたいと思うだなんて。
海の色は幼い頃記憶していたものとは異なり、濃いグレーを呈している。空の色はその灰色と交じり合って、空と海との境界が曖昧だ。
そのうち雨でも降るのかもしれない。
私の気分を反映したような空色に、気分が一層どんよりとする。
限界、なのかもしれない。
仮面夫婦ですらない夫婦生活に。
彼と口を聞いたのはいつだったのか。
公式行事では夫婦として出席することもあるものの、それでも通り一遍の表面的な挨拶しか交わさない。
それでもその最中はそれなりに扱ってくれるから、勘違いしてしまうのだ。
昔の優しかったこの人に戻ってくれたのではないかと。
そんな誤解は、パーティーや会食が終了した時点で泡と消えるほどはかないものなのに。

「俺と結婚できて満足かって言ってるんだよ」

そういい捨てた夫の問いに、答えることはできなかった。
結婚するために、モトカノを追い落とし、彼を家という名の囲いで追い込んだのは私だ。
だけど、ただ結婚をしたかったわけじゃない。
彼が好きだったから、だから、独占したかっただけだ。
そんな叫びも彼には届かない。
いや、一度でも彼は私の本心を聞こうとはしなかった。昨日偶然出会った夫に吐き出すまでは。



「珍しいわね、ここにいるなんて」
「モノを取りにきただけだ」

相変わらず表情のない顔で、確かに彼はボストンバックやら荷物を抱えている。
私の両親が用意した新居には、住民票は置くものの、彼が帰ってきたためしは一度もなかった。
それでもお互いの両親や親戚、友人などが新居へ訪れることも少なくはなく、その度に彼はココの家へと泊りにきたのだ、他のゲストと同じように。
だから、わずかだけれども彼の私物が置いてはある。
だけど、それはほんの僅かな量で、生活感を与えるには不十分だ。目端が利く人ならば、ここは女の一人暮らしだとあっさり看破するだろう。
その僅かに残っていた荷物を彼は運び出そうとしていた。

「もうここに来るつもりはないから」
「別れないから」

咄嗟に言い返す言葉は、どこからどう聞いても末期状態の夫婦のもので、一瞬にしてお互いの雰囲気が険悪となる。

「おまえは俺と結婚できて満足だろ?いいかげん解放してくれ」
「本当に籍を入れただけじゃない!それらしいことを一つもしないでよく言うわね」
「おまえは俺と結婚したかったんだけだろ、もう十分じゃないか、いいかげんにしてくれ」
「いやよ、今更どうする気?」

接触する機会は少ないものの、それなりに落ち着いていた生活に波紋が一つ。彼からもたらされたそれは、覚悟はしていたものの実際にぶつけられると思った以上に痛いことがわかった。私はこんな目にあってもまだこの人が好きなのだと実感もしてしまった。

「あの人?あの人のところへ行く気!!!あんな男にだらしなくって、ホイホイ逃げ出しちゃうような女どこがいいわけ?」

頭に血が上ってしまった私は、言うべきではない言葉をあっさりと叩きつける。
彼の顔はすうっと無表情となり、引き結んだ唇はよりいっそう私を排除する雰囲気を強く醸し出している。

「やっぱり、おまえだったんだな」

その一言で、私はすべてを了解してしまった。
私がばあさまを焚きつけていたことも、彼女の印象を悪くするような身元調査をさせたことも、なにもかもこのヒトにはばれてしまっているのだと。

「最低だな、おまえ」

それだけを言い残して、さっさと背中を向けた彼に縋りつく。
たぶん顔は涙でぐちゃぐちゃだ、化粧なんか溶け出してみっともない顔をしているに違いない。だけど今はそんなことにはかまっていられない。

「うっとうしい」
「いや!どうして!どうして私じゃだめなの?」

纏わりつく私を汚い物でも見るかのような一瞥をよこし、振り払う。
それでも私は縋りつくのをやめられない。

「好きなのに!愛してるのに!どうして!!!」

初めて出た本音。
だけど、もうそれすら届かない。

「好きだったら、愛していたら何をしてもいいのか?」
「ちがっ!!」
「最低だな。さっきのが本音なら今からお前は5年前の俺と同じになるんだよ。もっともお前は一時的には我を通したんだからおまえの方が遥かにましだよな」
「いや!」

短い絶叫とともに、床に振り払われる。
彼の足音が遠ざかっていく。
玄関のドアが乱暴に閉まる音がする。
もう終わりだ。
誰もいない廊下に一人きり、現実感が伴わない喪失感は、それでも唯一感じることのできる床の冷たさと共にジクジクと私を痛めつける。 こんなところにはいたくない。
私はただその思いだけで、泣きはらした後、この別荘にやってきたのだ。



 思い出の風景とは異なるけれど、それでも波は繰り返し繰り返し、波打ち際の砂を奪い去っていく。
小さな貝殻も海草もなにもかも、灰色の波にさらわれる。
どうして、幼馴染の夫との思い出が詰まったこの場所に来たかったのかはわからない。
幼い頃のキラキラした思い出など、今の私にとっては辛いだけなのに。
あの波にさらわれる貝殻のように、私の思いも、記憶もなにもかもさらわれてしまえばいいのに。
言葉をぶつけても、波は全てを吸収してくれるのに、この想いだけは海もさらってはくれない。
海は一晩中波を作り出しては消していき、彼への思いは何一つ消えずに燻ったまま。
叫んでも何も答えてはくれない。 

前編
10.31.2006update
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彼とモトカノサイドのお話を書けば切ない(?)ロマンス小説(っぽく)なるのかな、と。その裏ではこんな感じというお話です。ココの彼女は明確な悪意がないので難しいです、悪意がない悪意が一番厄介ともいえますが。
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