花火(前後編)
前編/後編

 夏中エアコンが可動している風通しの悪い部屋へ、窓ガラス越しに花火の音が響く。打ち上げ場所が近いのか、音とともに振動まで伝わってきている。
もう、何年もそんなものには縁がないのに、ふと窓を見上げるとそこには建物に遮られながらも、不完全な円形の光を見つけ出すことができた。
ああ、今年もそんな季節なのだと。
それらしいものといえば噴出される冷風のみ、というまるで季節感のない部屋で、それでもふと季節をかんじる瞬間。必ず自分は一人きりで、きっとこれからも一人きりなのだと、そんなことを思い知らされるためだけに、僅かな間だけ正気に戻る時がもたらされる。
そう、自分は今だ夢の中にいるようなものなのだから。





「竹田のお兄ちゃん?」

人ごみの中、婚約者と二人で必要なものを買出しにきていた自分に、不意に声が掛かる。その声があまりにかわいくて馴染み深いものだったから、すぐさま振り返る。振り返った先には、やはり弟のかわいい幼馴染が好奇心一杯の顔を隠そうともしないで立っていた。
無言のまま肘で「目の前の人間を説明しなさい」と突付かれたため、已む無く婚約者に彼女を紹介することになった。

「弟の幼馴染の湊ちゃん、えっと、いま」
「高校2年生です」

彼女の年齢など気にしたことがなかったせいか、あやふやな自分の記憶にすかさず湊のフォローが入る。
膝上のスカートに、少しだけ茶色くした髪、今時と言うには大人しく、だけど真面目という程には堅苦しくない彼女の制服姿を漫然と眺めながら、もう、高校2年生か、と言う気持ちと、まだ2年生か、という気持ちが同時に湧き上がり、親父臭くなった自分の思考回路に辟易する。

「弟さんって、確か」
「そう、大学2年になった」
「あら?でもあなたとは幼馴染じゃないの?」

彼女の端的な質問に、湊のことを弟の幼馴染という表現をしたわけまで話さざるを得なくなる。
なんとなく、湊のことを婚約者には詳しくしられたくない、というよくわからない気持ちが働いたからなのだが、そんな葛藤などお構いなしに湊は嬉しそうに説明をはじめていた。

「年が離れすぎていたせいだと思います。学校も一度もかぶらないですし」
「ああ、さすがにひと回り以上違うとそうなっちゃうのかな」
「そうなんです、それにお姉ちゃんなら違ったかもしれませんが」
「思春期の男の子がよその女の子の面倒なんかみないってわけね」
「たぶん、私が大きくなってちゃんと日本語が離せるようになるまで、竹田のお兄ちゃんと話した事ありませんでしたもん」

湊から語られる過去の自分は、ある意味正しくてある意味外れている。
確かに、自分の家の弟すらその年の差で、かわいいペットぐらいの認識しかなかったのは確かだし、ましてさらに下のよその女の子など眼中にないのが普通のところだと思う。
だが、実際のところ俺は彼女に触れるのがただ恐かっただけなのだ。男兄弟に囲まれ、女性と言えばどう考えても親父より強そうな母親だけで、だから、いきなり目の前に弟よりもさらに小さい今にも壊れそうな物体を差し出されても、おいそれとそれに触れることができなかっただけだ。それを周囲は思春期にありがちな照れと反抗心だと決め付け、説明をするのも面倒くさかった自分がそのまま放置しておいたのだからそう思われても仕方がない。おかげさまで、湊に近づく機会すら与えられずに、一方、弟は彼女と仲良く共に成長していった。
気がつけば、彼女は弟と共にランドセルを背負っており、着実に壊れそうな物体から人間へと成長していき、ふと目を離した隙に、少女へと変化していた。
この年代の女の子の変化には目まぐるしいものがある、と、ニコニコとしている今日の湊をみながら妙に感心をする。
婚約者と湊はなにやらきゃらきゃらと女同士にしかわからない会話をし、上機嫌のまま湊は手を振って帰っていった。

「カワイイ子ね」
「……、まあ、な」
「私達もあんな子どもが欲しいわね」

冷たい何かが背筋を掠めて触れていったようにゾクリとする、それがどこからくるものなのかがわからなくて曖昧に微笑む。
婚約者はそれを了解の合図ととったのか、湊以上に上機嫌となり、自分の手を引きお目当ての店へと向かって行った。
結婚の準備という煩雑だけれども、交際中の二人にとってこの上もなく幸せであるべき時に、思ったほど自分の心が昂揚していないことに気がつく。完璧なフォルムを形作る器から微細な水が漏れ出しているように、そのまま放置するわけにもいかず、かといってその原因をつきとめる事も出来ずに落ち着く事ができないでいる。はしゃいだままの婚約者は、やがて大量の生活用品を買い込み、そのほとんどを私の両手へとぶら下げるべくあけ渡す。黙ったままそれを引き受け、すでに住み始めている新居へと運ぶべく、駐車場へと歩き出す。

「あら?食事は?」
「このままじゃ落ち着かない」

両手一杯の荷物を掲げ、彼女の問いを封じる。いや、本当のところ、家へ真っ直ぐと帰ることだけを考えていたのだけど、上手くごまかす事ができた。
きっと、このまま少しおしゃれなレストランにでも行くのだろう。生活が始まってしまえば、そのようなところへ頻繁に出かけるわけにはいかないことに、今の彼女は気がついているのだろうか。



「兄さん?」
「いちゃ悪いか?」

いかにも遊んでいます、といった風体の弟から漏れた言葉に、どこか自分を非難する意識が混ざっていたようにかんじ、咄嗟に切り返す。
そんな感情などお構いなしに、母親はあれこれと世話を焼き、父親は新聞を読んだままこちらには関心をしめさない。

「いや、悪いって言うか。いないの?今日」
「ああ、まあな」

弟は婚約者の事をどう呼んでいいのか戸惑っているらしく、名前はおろか義理姉さんとも呼べないでいる。長男の自分が結婚し、姻族が増える、という家族にとってある意味初めての出来事がもたらされたのだから仕方がない。自分も、まだ先の事だけれど、弟に配偶者が出来た時には戸惑うのだろうから。
だが、そんな戸惑いよりも先に、弟は生理的に彼女の事が好きではないらしいのだ。初対面で一瞬見せた彼の嫌悪に満ちた顔は、すぐさま得意の社交的な笑顔に隠されてしまったけれど、実兄である自分にわからないはずは無かった。幸い自分以外に気がつくものもおらず、肝心の婚約者にしてもそのことに気がつかないばかりか、人懐っこい笑顔を浮かべる弟を気に入っているし、好かれているものと勘違いしている。その勘違いがこちらにとっても有益なものだから、あえて訂正をするつもりはないが。

「独身最後に女友達と旅行だそうだ」
「ふーーん、女友達と、ねぇ」

意味深にこちらを見据える弟は、その嫌悪感を丸出しにしている。甲斐甲斐しくビールを注ぎ、酒の肴をせっせと運んでいる母親は気がつきもしない。

「ああ、女友達と」

弟が何を言おうとしているかは、わからないでもない。だが、弟がそのことに気がついたことは意外ではあった、チャラついた外見とは裏腹にそのあたりが自分より保守的な弟は本能で勘付いたのかもしれない。自分も弟にはそのことを隠そうともしなかったのだから、まだ潔癖さの残る彼の神経を逆撫でしたのは自分のせいでもある。
彼が気に入らないという唯一にして最大の問題は、彼女がその外見とは裏腹に身持ちが固くないということだが、そんな些細な事は二人の間では問題はない。彼女は気がつかれていないと思い込んでいるし、自分は知らないふりをしている。結婚するにあたって、重要なのは相手のスペックであり、それ以上でも以下でもない。平凡ながらも、中流よりやや上に属する自分に対して、彼女は申し分のない相手であり、手に余ることも何かが足りないこともない。玉の輿にのるには自分は欲望がうすく、自堕落になるには勤勉すぎる、彼女はどう思っているのかはわからないけれど、自分にとっては分相応の相手だとそう思っている。弟は、それが気に入らないのだろうけれど。

「そういえば、湊ちゃんに会った」

弟の視線に居た堪れなくなった自分は、あまりない共通の話題を提供する。

「ああ、むちゃくちゃかわいいだろう?湊」
「そうそう、お嬢さんらしくなって」

ようやく自分が理解できる話題になったのが嬉しいのか、母親が入り込んでくる。男三人なんて寂しいものよ、と、日頃から愚痴を言っている母にとって、湊は娘の代用品のようなもので、湊もさほど嫌がりもせずこの人の相手をしてくれているらしい。

「まあな、高校生だって聞いてこっちが驚いた」
「何言ってんだよ。俺だって大学生じゃん」
「そうだけど、湊ちゃんはずっと小さいっていうイメージがあったからさ。まあ、妹はいつまでたっても妹ってことかな」
「兄さんってば迂闊すぎ!ああ見えてあいつってもう彼氏だっているんだぜ?」

ゾクリと、体の芯が震えた。
溢しそうになるコップを丁寧に机の上へと置き、ぺちゃくちゃと湊について話している母子の姿を眺める。

「あら?やっぱり?最近ますます綺麗になったと思ったのよ、かーさん」
「だろ?小さいころからかわいかったけど、ますますかわいくなったよなぁ。昔は紹介してくれっていう同級生が山程いて困ったものだけど、湊と知り合いだって大学の連中にばれたらもっと大変そうだ」
「そういうお前は?」
「俺?いやーー、俺にとっちゃ湊は妹みたいなもんだし。って、兄さんもそうだろ?」
「ああ、そうだな」

ピタリ、と冷たい何かが背中に張り付く。悲鳴をあげそうになる思いを必死で堪え、置いたばかりのグラスを手に取り、一気にビールをあおる。
母親はすでに別の話題へと興味が移っており、何か良くわからないご近所さんのことを話しながらビールを注いでくれた。
よく、わからない。
どうして湊の話題が出るたびに、こんなにも何かが激しく反応するのか。
彼女は、妹みたいなもの。
その言葉に間違いはないと、頭の中で反芻する。
その数だけ、ヒタヒタと何か得体の知れない何かがこちらへと迫ってきそうな恐怖に震えながら。


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8.30.2007
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