「ごめんなさい、やっぱり無理かも」
気晴らしにと、婚約者をドライブに誘ったものの、案の定振られてしまった。
だいたい100パーセントの確率で突然の誘いは断られる。こちらもそれを承知でたまに声をかけているのだからいつもならば落胆もしない。だが、どうしても家でじっとしていられない自分にとってはかなり不都合だ。
電話越しの声は相変わらず楚々とした雰囲気を醸し出し、とてもじゃないけれど、弟が嫌っている理由になっているような生活態度をとっているとは思えない。そのままでいい、何もかも白日の下にさらされることだけが幸せへの道ではないのだから。
「困ったな……」
思わず漏れた声に自分自身が驚く。今まで聞いたことがない程弱弱しく、追い詰められたような声を出していたから。
仕方なく車のキーを探し、一人でドライブへ出かけることにする。わけのわからないこの気分も、そのうち収まるだろうと高をくくりながら。
気がつけば夜が明け、土曜日の朝となっていた。
さすがに空腹を覚え、身近にやっている店はないかと視線をあちこちへと巡らせる。車の中からようやく発見できたのは、実家近くのファストフードで、それをこの年で再び口にする事には抵抗があったものの、コンビニで何かを買うことも、まして家へ帰って何かを作ることをしたくもない自分にとって、選択の余地はなかった。
仕方なく駐車場に車をとめ、オールで過ごしたのか少し疲れたような若者が数人座席に座り込んでいる店内へと足を運ぶ。
どれだけまずくともコーヒーだろうと、ともかく腹に入れられる物とそれを頼み、用意された食料をもって窓際の座席へと腰掛ける。暖かいコーヒーは、やはりおいしくもなかったけれど、空腹だったせいか想像よりはましな味だった。
そろそろ底をつきそうなカップを手に、ぼんやりと窓の外を眺めると学生らしい集団がぞろぞろと歩いて行く姿を見つけることができた。
部活か何かなのだろう、完全週休二日制になった彼らたちが学校へ行くのは、授業以外の理由があるはずだ。
ただ流れていく同じ格好をした若者達を何人も見送り、次の集団がちょうど視界に入り込んであたりで再びあのひんやりとした感触を味わうこととなる。
その集団の中に、湊がいたのだ。
しかも、隣には背だけはひょろひょろと高く、中身がすかすかそうな少年が嬉しそうに寄り添っていたのだ。
そんな光景は、許す事は出来ない。
瞬時にして湧き上がった怒りと、背筋が凍るよう思いで、僅かに液体が残るカップを勢いよく握り締める。こげ茶色の液体が数滴顔へと跳ね上がり、トレイの上を無造作に汚していく。
慌てたように店員がタオルを持って近寄ってくる。それを手で制しながら簡単に顔を拭う。
幸いにもトレイ以外は汚れていなかったせいか、形ばかりの謝罪の言葉を口にし、店内から一秒でも早くという気持ちで外へと飛び出す。
すでに学生達の姿は目の前の通りにはなく、区別のつかない別の集団が再び湊がいた歩道の上へと侵食していった。
足元がグニャリと柔らかくなる。
自分の中の何かが失われていく。
「どうしたの?いつもにもまして黙り込んで」
「いや、仕事がね」
久しぶりの逢瀬で、親密な男女らしいことをした後は、決まったようにくだらないことを話し合うのだが、今日はそんな気分にはなれない。
仕事のせいにして、婚約者と距離をとる。その空気に気がついたのか、彼女はさっさと衣服を身に付け、帰り支度をしていた。
「ごゆっくり」
皮肉だったのか、心からそう言ったのかはわからないけれど、彼女はその言葉を残して、自宅へと帰っていった。
よく、わからない。
肉欲よりも自分の心の中を占める何かがあり、何かのことを考えるたび誰かが警鐘を鳴らす。
しかも決まって、湊の事を考えていたときに、だ。
妹みたいな近所の子ども。弟の幼馴染。ただの高校2年生。
どれだけ並べてみても、自分にとって何がしかの影響を与えられる存在ではないはずなのに、心の声はそれを否定する。
招待状も発送済みだ。両家は婚約者と自分の間は安泰だと思い込んでいる。いや、実際に安泰だ。自分はそれを壊すつもりはないし、彼女もそれを壊すつもりはないだろう。だが、ヒタヒタと近寄る何かは自分の中で確実に間近まで迫っており、そのたびに張り付いたような悲鳴をあげそうになる。喉の奥でくぐもったままの悲鳴は辛うじて出口を抑えられており、たぶん、いや、きっとこのまま自分は押さえ込むことが可能だろう。
何を考えていいのかもわからない自分の耳へ、耳障りな電子音が鳴り響く。
それが携帯の呼び出し音だと気がついた時には、長い間繰り返された呼び出し音は終了しており、何も言わない携帯を手にしたまま、誰から掛かってきたのかすら調べる気力がわかないでいる。
携帯をベッドの上へ放り投げた瞬間、再び電子音が鳴る。あまりのタイミングのよさに、今度は数回の繰り返しの後、相手を確認もせず通話ボタンを押す。
「あなたの彼女今ホテルにいるわよ」
名乗りもせず端的に婚約者の不貞を知らせる電話は、そのホテルの存在場所を早口で告げた後、あっさりと接続が切れた。案の定ディスプレイには非通知の文字が浮かんでおり、それはこの情報が取るに足らない密告電話であることを告げている。
それに、彼女が他の誰かとそういうことをしているであろうことは、とっくの昔に知っている。
知っていて、今まで知らないふりを続けてきたのだから、これからも続けていくつもりだ。もちろん結婚後は、多少は手綱を締めるつもりではいるけれど、基本的に彼女を束縛しておくつもりはない。それはまた、自分にとってもそうであり、彼女に振り回されるつもりは全くない。
だが、そのときの自分は、冷たい何かが近づいてくることに耐え切れず、無意識に密告電話が告げた住所へと車を走らせていた。
何がせきたてているのかはわからないけれど、自分がその場所に行けばそれがわかるような気がして。
取るに足らない、と、思った内容は、あまりにも正確であったようで、駐車場には見覚えのある車が止められていた。ただ呆然と何をするわけでもなくそこで立ち尽くしていた自分は、どれだけその場にいたのかはわからない。数分だったのかもしれないし、数時間だったのかもしれない。
やがて出て来た見覚えのある女は、ぴたりと固まってこちらを見つめ、後ろに引っ付いている幼そうな男は困惑したままオロオロしていた。
こちらが何も言わないことをいいことに、男の方はいつのまにか逃げ出し、固まったままの婚約者だけが残される。
「知るつもりはなかった」
「……」
「おまえがそういうことをしている事も知っていた」
「違う!違うの、これは、あの」
明らかにそれ以外の目的で利用することのないホテルの駐車場で、違うという説明がこれ以上展開できるはずもなく、婚約者は聞きもしないのに先ほどの男のことをペラペラと話し始めた。
その雑音が、一切耳に入ることなく、ただ頭の上を素通りしていく。
「もう、いい」
泣き始めた女は、たぶん知らない人が見れば自分の方が彼女に酷い仕打ちをしているだろうと思わせる泣き顔で、他の人間ならなかったことになったのかもしれない。
だが、元々彼女に情があるわけでもない自分は、あっけないほど簡単にその腕を振り払うことができた。
地面に泣き崩れる彼女。
ずっと付きまとっていた冷たい物体は頭の中で湊の姿を形作り、その姿はあっさりと砕け散っていった。
婚約者が不貞を働いた事実よりも、湊の姿が砕け散った幻の方がショックで、今までへばりついたまま漏れ出す事が無かった絶叫が、初めて迸る。
あの時に、自分は何かが壊れてしまったのだと、今ならば理解することができる。
花火はいまだに微かに窓を揺らしており、その合い間にエアコンのモーター音が聞こえる。それ以外の音はまるでしない。自分の立てる音すら
あの後の自分はよく、覚えていない。淡々とした事務処理だけが進んで行き、婚約は解消された。
暫くの間は、噂にさらされていたらしいけれど、当の本人の反応がイマイチだったせいか、やがてはそれも目新しくより刺激的な他の噂へとうつっていった。
その後の彼女の事は知らない。親切面した誰かが教えてくれたような気もしたけれど、記憶の片隅にも残ってはいない。
今はただ、全ての煩わしさから逃れ、たった一人きりの部屋で静かに暮らしている。
また花火が打ちあがる。
一瞬にして輝かしい光を発し、瞬きするほどの間で闇空の中へと消えていく。残された煙すら風に吹かれてどこかへと去っていき、後にはただ夜空が広がるばかり。
やがて、その音も止まり、この部屋には本来の静寂が訪れる。
もう、花火はどこにも残っていない。
また、季節のない一人きりの世界へと引き戻される。
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