03
「久しぶり……、だね」
思わず呟いてしまった一言を、秋絵は洋行が嫌味だと受け取るのではないかと後悔した。しかし、彼女のそんな心のうちなど気がつくはずもない洋行は、相変わらずの笑顔で、運ばれてきたパスタを口に運んでいる。
事実、二人がこうやって時間を共にするのは久しぶりのことなのだ。
まず、秋絵が洋行に黙って友人の結婚式に参加し、次の週は洋行が急な出張で結局時間が合わず、最悪なことにその次の週には、洋行が体調を崩し秋絵と会うことができなかった。
だが、本来ならその程度の事はお互い仕事をしている立場上良くある出来事、なのだ。ただの事務職の秋絵ですら、年末や年度末、年度始めなどには事務仕事が集中し、日頃のんびり過ごしている分働かざるを得なくなるし、技術職の洋行なら尚の事、休日に都合が悪いことなどさして珍しいことではない。
なのに、久しぶりに会った第一声に彼女がこんなネガティブなことを吐き出してしまったのには理由がある。
体調が悪いと、予定をキャンセルしてきた先週に、どれだけ彼女が問い掛けても決して彼のマンションへと看病はおろか、見舞いに行く事も許してもらえなかったからだ。
こんなことは今までなかったことだ。
二人とも一人暮らしであり、困ったときはお互い様とばかりに風邪で寝込んだときなどには差し入れをしたり、それこそ看病、とまでは行かないまでも、様子を見ながらお互いの家へと泊りこんだことは数知れない。
なのに、今回ばかりは頑なに洋行が、秋絵が立ち入る事を拒んだのだ。
自分の相手をすることが辛くなるほど状態が悪かったのかと思いもしたが、聞いてみたところただの疲労だという。
それこそ、自分を呼んでくれらばいいのに、そんな声にならない鬱屈が、久しぶり、という言葉に透けて見えるようで秋絵は自分の心の狭さに辟易した。
そんな思いなど知らずに、洋行の方はマイペースでパスタを消化している。
ぼんやりと考え込んでいた彼女の方も、結局は食欲に負け、黙々とリゾットを食べ進める。
洋行の方はというと、秋絵の言う事を適当に聞きながしながら、こんな場だというのに先週までに我が身に起きた出来事を考え込んでいた。
どう考えても、よくわからないのだ、と、咀嚼を繰り返しながらも一つもその味を堪能することなく嚥下していく。それほど、思考は今現在進行形で起こっている出来事にかかりきりだ。
土井亜紀子との一度目の邂逅を思いだす。それはただの偶然にすぎぬ、と、思っていた自分に、あっという間に次の偶然がやってきた。そう、三日も経たないうちに彼女と洋行は再びコンビニの前で出会ってしまったのだ。
軽く会釈を交わして別々に歩く、などということが出来ない彼女との遭遇は、彼にとっては苦痛でしかなく、それでもめげずに彼女がひっついては話しつづける、という構図は一度目と変わることなく、だが、心の中で微妙に変化する気持ちというものに彼は気がついていなかった。
三度目に出会ったときには、もはや偶然などと悠長に言っていられる気持ちではなくなっていた。
相変わらず良く喋る彼女に、相槌だけはうつものの、それでも最初に感じたものより煩わしくなくなっている自分に気がつき動揺した。そもそも、秋絵以外の女性と流れとはいえ二人きりで行動すること自体、最近めっきりないことだから、少し面食らっているだけだと自分自身に言い聞かせる。なのに、いつもまにか秋絵よりも少し背が高かった、だの、秋絵は少し痩せすぎだけど、彼女はちょうどいい、だの、本来比べるべきではない二人を同じ土俵に上げて比較してしまう自分に、洋行は自嘲する他ない状態だ。
結局のところ、彼女とは二日に一回は出会うこととなり、勝手に垂れ流される情報によるが、いつのまにか洋行にとって、彼女は詳しく知る人物となってしまっていた。
やましいことなど何一つありはしないのに、普段どんな小さな出来事も秋絵に伝えてきた彼にとっては、隠し事足るに十分な出来事で、だからこそこうやって差し向かいで話していても、どんな風に話し始めればいいのかわからなくなっている。
そんな些細な罪悪感が洋行の頭を支配し、逃げるようにして体調を理由に会うことを拒んだのだ。
そのことが二人の間に僅かに影を落としているにも関わらず、他の事に考えが及んでいる洋行は気がつくはずもなかった。
「ふぅ…」
大量のコピーを終え、秋絵は思わずため息をついた。
大学の頃は仕事も私生活もできる女を目指していた自分が、結局のところただのサポート的な仕事に終始している。あの頃に描いた夢と現実のギャップに、最近少しだけ疲れてきたのだ。
それは社内における、自分が置かれた微妙な立場のせいでもある。
こなしている仕事といえば、誰にでもできる一般的な事務のみで、誰よりも気が利くことも、それを認められて他部署へと配置換えしていくこともない。結局のところ、秋絵はどこまでいっても中途半端なのだ。おまけに三十路手前の年齢とくれば、周囲の自分に対する視線が心なしか冷たくなっていくのは、秋絵の被害妄想だけではないだろう。秋絵程度の仕事をこなすのならば、正直若くてカワイイ女性の方がいいのだ。会社からしてみても、彼女より若く給料が安い女性の方が使い勝手が良い。段々年を経るごとに、仕事の腕はかわらないのに、自分の居場所が徐々になくなっていくような気がするのも、あながち間違いではなく、そんな微妙な空気を感じ取った同僚達は次々と寿退社をしていった。
今の自分は、その寿退社の対象ですらないのだと、短くとも綺麗に整えられた指先をみつめる。
再び深くため息をつき、彼女はコピーされたものを整え、ファイルに納める。
どんなに居辛くとも、自分はこうやって生活していくしかないのだと思いながら。
「お見合い?」
「あんたもいい年なんだし」
正月に帰れば、後ろにひっつくようにして結婚の二文字を呪文のように唱える母から、とうとう最後通牒が渡される。別に、そんなものは興味がないと捨て置けばよいのに、今の沈み込んだ秋絵にとっては母の提案が思いのほか、もう後がないのだと突きつけられたような気がしたのだ。確かに、今秋絵が生活をしている土地と異なり、地元での結婚年齢は低く、さらに言うと出産年齢などは輪をかけて低い。それだけ、生活基盤が不安定でも子どもを作るという行為そのものが尊ばれるような土地なのだ。当然、秋絵の年で独り身などということは許されるはずもなく、会社にいるより肩身の狭い田舎へ帰ることを忌避してきたのも致し方がないことだと、秋絵は自分自身に言い聞かせている。
そんな土地に生まれついてずっと住んでいる母親が持ってくる見合いなどは、当然秋絵がその釣り書を一文字でも見ようとも思えないような相手ばかりだろうと、ためいきをつきながら一方的に話しつづける母親の言葉を遮ることすらできないでいる。
「だからね、本当にいい話なんだってば」
「はぁ」
「いいのね?」
「は?」
「いいわけね、この話を進めても!」
「……別に」
「わかった、こっちで勝手に進めておくから、日にちは追って連絡するから、ちゃんと小奇麗な格好してらっしゃいよ!!!」
最後の方は早口で何を言っているのかすらわからないまま、いつのまにか秋絵は見合いを承諾していたらしい。
母の甲高い声だけが耳に残り、ずるずるとクッションの上へと座り込む。
「……洋行なんて言うかな??」
ずっと前に、母親には恋人がいるのだと話した記憶がある。そのときの恋人と今の洋行は同一人物にもかかわらず、母親の方は勝手に彼女がシングルなのだと決め付けていた。それぐらい、最近の秋絵にとってはその口の端に彼の名前が登ることが少ないのだ。おまけに、休みのたびにかけている電話に簡単に捕まる秋絵は、母親にとってはこちらが世話をしなければ相手すら満足に見つけられない娘だと思われている可能性が高い。
そんなことをぼんやり考えながら、秋絵はのたくたと風呂に入る準備をする。
ユニットバスの中にお湯が溜まっていく様子を、ただなんとなく眺める。
適温より少し高いお湯を右手ですくいながら、このことをどう洋行に説明をするのかを考える。
もちろん、断ればいい。
断る事を前提のお見合いなど、相手に失礼だと、そう思いもするけれど、自分には洋行がいるのだと、そう強く言い聞かせられない自分もいる。
一方、心のどこかでお見合いの相手に期待している自分もいる。
「……私って何なんだろうね…」
秋絵の言葉は蛇口から勢いよく出てくるお湯の音にかき消され、どこかへと沈み込んでいく。
鬱屈だけが胸の中にたまっていきながら。
>>次へ>>戻る