深紅の大輪の花を抱え、跪いて許しをこう。
物語の中でしか見ない光景に、レナは戸惑い、そして保護者的立場であるディリは静かに眉間に皺を寄せた。
「あの」
「どうか、あなたの側に一生いさせてください」
カルは、熱っぽい目でレナを見上げ、レナはただただ戸惑った。
もともと、カルはディリの友人であり同僚である。
めでたく二人とも王子付き近衛騎士として再配属され、二人は新しい職場に馴染むべく忙しくしている最中だ。
そんな中でも、彼の妹ディエは頻繁に、兄のカルもできるだけ時間をとっては、この屋敷へと訪れていた。
相変わらず学校にも行かず、短時間の他出すらままならないレナにとって、彼らの訪問は唯一の気晴らしとなっている。
奥方がレナを娘と思っている時間は、それを演じ、それ以外は、そうなったときに真っ先に側にいけるよう屋敷内に引きこもっている日々だ。年頃の娘としては本来なら耐え難い扱いだろう。
だが、戦争孤児であった彼女は、ヴァレス家に恩義を感じこそすれ、己の扱いに不満を思ったことはない。むしろカルとディエの兄妹の方が、ディリに不信を覚え、また、レナに対する理不尽な扱いに憤っている程だ。
そのカルが、いつになく真剣な口調で、常には問わない訪問の許可を求めたときから、ディリは嫌な予感を抱えていた。
それが、あっけなくも大当たりし、彼は口を挟めないものの、その表情は内心の不機嫌を雄弁に表している。
そのディリと、カルを交互に見比べ、ようやくわが身に起こった出来事を理解したレナは、咄嗟に拒絶の言葉を口にする。
「いえ、だめです、そんな、私は」
「あなたでなければ駄目なのです」
レナは、美しかった容色がますます匂いたつように際立ち始めた。
年頃になれば、娘はみなそれなりの魅力を振りまくものだが、彼女のそれは、それとはまた段違いに強い。それと共に、使用人の彼女へのあたりは、ますます強く、常に居心地が悪そうにしている彼女を見かけることが多い。
「ふん、どうせ上っ面だけだろ?容姿なんていつかは衰える」
ディリは、かばいもせず、みないふり、などという卑怯なまねをしているにも拘わらず、レナが手を離れることをよしとはしていない。彼は尊大な態度で、カルに身を引くことを促す。
「中身だって、大好きさ、もちろん。そんなことも知らなかったのか?おまえ」
だが、軽口をたたきながら、カルは一歩も引かない態度を貫いている。
「学もない」
「それは、おまえが学校にも行かさなかったからだろう?」
ひと時も屋敷を離れられないレナは、当然学校に通ったこともない。最低限の読み書きは教わったものの、学がない、といわれて否定する材料はない。
「出自だってわからんし」
「それは、俺だって似たようなもんだ。しょせんローレンシウムのほとんどは農家の子供なんだから」
偉大な農業国であるローレンシウムは、国民のほとんどが農業に従事している。
それを僅かな貴族たちが搾取し、自分たちの華やかな生活を支えているのだが、そのことを自覚している貴族は少ない。
ヴァレス家の長子であるディリは、騎士として最前線で苦労したため、他の貴族よりはましだが、だからといってそれを実感できているわけではない。虚飾を剥げば、このような本音が簡単に引きずり出せるほどに。
「所詮、こいつは捨て子だ」
「わかってる。だから、いいかげん俺にくれ。俺がちゃんと学校に行かせて、嫁さんにして、幸せにするから」
「お前のうちだって貴族だろう!」
「うちに反対するものはいないね、いや、むしろ両手を挙げて賛成してるんじゃねーの?ディエは俺の尻ひっぱたいて送り出してくれたぐらいだし」
「俺の母親が死んでもいいのか?」
ディリは、言葉につまり、咄嗟に実母の命を盾にする。
「いつだ?」
だが、カルから返された意外な言葉に、意味がわからず再び黙り込む。
「いつになったらお前の母親は死ぬんだ、って聞いているんだ」
思いもつかないカルの問いに、レナもディリも絶句する。
「何年レナをこの屋敷に閉じ込めている?」
数えるまでもなく、理不尽なほどの年数がたってしまったことに、ディリは言い訳の言葉さえ思いつかない。
年頃で、最も華やかだと言われる年代の少女に、一日中屋敷にひきこもっていろ。まさしく貴族様のような要求をしてしまっている自分に気がついているからだ。
「だから、後何年閉じ込めておきたいんだ?後何年こんな生活を続けさせるつもりなんだ?」
「いや、でも」
「レナが年をとって、結婚相手も望めなくなっても、おまえは彼女をここに閉じ込めておく気か?」
「それは」
「そうなったらお前が責任をとるのか?」
「それは、おそらく・・・・・・」
「どうやって?今だってなんの責任もはたしていないのにか?」
カルは友人であるディリの胸倉を掴む。
レナは受け取った花束を抱え、ただうろたえている。
「笑わせるな」
手が離されると同時に、親友から突き放された言葉がもたらされる。
カルは、何の反論もできずにいるディリに、一瞥をくれた後、退出していった。
残されたディリは、無言で突っ立ったままだ。
放心し、考えることすら放棄した彼に、コゼレア付きの侍女から声がかかる。
「奥様が」
その言葉に、ディリとレナはようやく、動き出すことができ、慌てて寝室へと向かう。
何度目かの危篤の知らせに、ディリは、寝台に横たわる母の顔を見下ろす。
青白く、何の化粧も施していない皺の目立つ顔は、年より随分と彼女を老けてみせている。
もはや美貌の残り香すら感じさせず、そこには生ける屍が静かに横になっているだけだ。
病名がつかず、ただ心の病による衰弱、は、医者や魔術師ですら治すことはできずに、後は神頼みだ。
この国で信仰する大地の女神を拒絶し、神を心底厭っているディリは、祈ることもせず、ただ弱っていく実母を見ていることしかできない。
寝室から侍女たちを引き上げさせ、レナすら部屋の隅へと控えさせてディリは、弱い息をしているだけの母親の顔を直視する。
無意識に、彼は右手を彼女の喉にあてる。
折れそうなほど細く、皺のよった首筋は、脆さを露呈している。
彼は瞬間、力を込める。
苦しそうな息遣いが耳に届き、慌てて手を緩める。
彼は幾度とそれを繰り返し、振り切るようにして、寝台から離れた。
次の日、ディリは侍女からコゼレアが亡くなったことを聞いた。
心のどこかで安堵した自分を、ひどく後悔した。