06・もう一つの不安 |
「学生に確認をとりました、呼び出しはあなたですね?」 「・・・それが何?お礼でも言いに来たの?」 思いのほか、あっさりと自分のやった事を認めた彼女は、完全に開き直っている。 どうして、私が元彼女と会えた事で彼女に感謝しなくてはいけないのかは理解できないけれど。 「何がなさりたいのですか?」 「よりを戻して欲しいって、言ったでしょ?彼女ならあなたにふさわしいと思うの」 「は?広岡さんと今更ですか?」 「そう、彼女も後悔していたみたいだし、いい機会でしょ?」 「いい機会も何も、彼女は既婚者でしょう」 わけがわからない問答を繰り返す。彼女の言っている意味が本当にわからない。 広岡さんは今も幸せそうで、私に見せた笑顔は本物に違いないのに。 個人の居室を与えられていない彼女は、同じ学科の助手の方々と同じ部屋へ入っている。幸い、彼女の他に人はなく、大量の書類を挟んで彼女と対峙できている。 「広岡さんは、現在妊娠中ですし、そんな気は全くないといいますか・・・、どこからそんな妄想が出てきたのですか?」 「妊娠って!」 「ご存知なかったのですか?だいぶふっくらされていましたよ」 待望の第2子を授かったのだと、嬉しそうに微笑んだ彼女は、見たこともないほど柔らかな表情をしていた。あの人が今後悔をしていて不幸だと言うのなら、世界中のあらゆる人が不幸な人間になるのではないか、と思われるほどに。 「それに、何度も繰り返しますが、私にはきちんと恋人がいますし、余計な詮索を無用に願います」 「恋人って、馬鹿な女子大の子でしょう、全くつりあわないじゃない!!!それにしても彼女が妊娠って・・・」 後半は広岡さんのことなのだろう、呟くように繰り返している。結婚している女性なら、別にあってもおかしくないことなのに、彼女は誰も讒言を受けてそんなことを思ってしまったのか。 「馬鹿って・・・、あなたも偏差値でしか判断できない人間なのですか」 前にも千春さんの前に現れた男は、そんなことを言っていた記憶がする。同級生と後輩がこういった価値観をもっているとなると、本気で情けなくなってくる。 「偏差値でしかって、どうみたってアホっぽい子じゃない!一ノ瀬君だけは見た目じゃなく中身で判断していると思っていたのに」 目の前が暗くなるほどの怒りを覚えたのは久しぶりの事。それでも拳を握ってなんとか落ち着かせる。 「中身で判断していますよ、いいかげん千春さんを蔑むのはやめてください」 彼女の目を見据え、ゆっくりと息を吐きながら忠告をする。 「結局一ノ瀬君も若くて可愛い子がいいんだ」 「別に、千春さんが若くて可愛いから選んだわけではありません。あなたは千春さんの何を知っているというのですか」 一目惚れに近いスタートだったけれど、今では彼女の全てに愛情を持っているのに、それを丸ごと否定されたようで再び手に力を込めてしまう。 「それがなくなったら、何が残るわけ?あの子に」 このままずっと一緒に年を取れたなら、そう思える相手だというのに、何の権利があって彼女はそれすらも否定するのか。 「何がしたいんですか?私がどうしたら満足なんですか?人を自分勝手な理想に当てはめないで下さい」 彼女はこちらを一瞥すると、机の上の書類に視線を落とす。 「一ノ瀬君ならきちんと相手を見て選ぶと思ったのに。結局アクセサリーになるような女の子がいいんだ・・・」 「千春さんをそのように扱った記憶はありません。いいかげんに想像で語るのはやめてください」 「だって・・・。もういい!結局一ノ瀬君も頭のいい女は嫌いってことでしょ?自分よりいい大学出てる女は生意気だって思ってるんでしょう?もういいわよ、私が一ノ瀬君を買い被っていたってことだから」 一方的に捲くし立てられる。彼女の言葉は同級生の女性達が少なからず溢していた言葉にも重なるのだけれど、彼女達は必ず自分自身の人をみる目のなさも合わせて落ち込んでいた。清水さんが今まで何を言われてきたのかは、男の身である自分が丸ごと共感できるものではない。それでも何かに傷付いてきたのではないかということぐらいは、いくら朴念仁の私でもわかる。 それが、千春さんを侮辱していいということにはならないけれど。 「買い被りでもなんでも結構です。もう下手な小細工はしないでください。それに、私の前で千春さんを侮辱しないでください。今後は仕事場にプライベートを持ち込まないでいただきたい、いいですね」 こちらの言葉を全て拒否するかのように頑なに耳を塞いでいるような彼女に告げる。 清水さんが何をしたかったのかわからないけれども、彼女が何かに傷付いているということだけは感じ取れた。だけど、それを知ったところで、彼女の傷を癒せるのは私ではない。 早く、彼女自身がそれに気がついてくれることだけを願うしかない。 清水さんが何かに怯えているように、私自身も千春さんのことを思うと不安になることの方が多い。だから、彼女の「釣り合わない」という一言は思いのほかどこか、自分の深い部分に突き刺さるものとなった。それは私のセリフだと、弱音を漏らしそうになるほどに。 千春さんはまだ若い。人生経験が足りないといっても差し支えない。だからこそ不安なのだ。年齢差だとか、環境の違いだとか、どうしてもお互いを理解しきれない部分が浮かび上がる。 なにより、これから先の可能性全てをもぎ取ってしまってもいいものなのかと、それも私の我侭で。 彼女に自分は相応しくないのかもしれない。 それでも、私は彼女を手放せないのだから。 我侭な自分に嫌気がさしながらも、それでも、やはり千春さんが好きなのだと。 |