誰のためにバラは咲く?/第1話

 ユリの一日は水汲みで始まる。
前の国では当たり前のように整備されていた水道設備、といったものが存在しないこの国では、井戸から水がめへ必要な分量を貯める仕事は、とても重要かつきつい仕事である。それが終われば、膨大な量の洗濯におわれ、休むまもなく食後の後片付けや掃除などの仕事にかからなければならない。
ここのところ比較的暇な職場ばかりを渡り歩いてきたユリにとって、当初は少々戸惑いがあったものの、ここよりはるかに酷い労働条件を幾度となく潜り抜けてきた経験から、数日後にはすっかり体が慣れてしまった。
慣れてしまえば、ただ仕事をこなせばよい今の職場は、条件としてはそう悪いものでもなく、似た様なはした仕事をする仲間たちともすぐ打ち解け、それなりに快適に過ごしていた。

「かわった目」
「そう?」

この国は、体格が比較的大柄で、大地の色の髪と目を持つ人間が主流であり、鎖国にも似た閉鎖的な国交を執り行っているおかげで、ユリは非常に悪目立ちしている。
そもそも、経済的な問題で多少の物流は交わされているものの、人的交流はさっぱり、といったこの国で、明らかによそ者であるユリが目立たないはずはない。

「兄弟で私だけちょっと変わっていたみたい、まあ、この髪じゃあ仕方がないけどね」

ここでのユリの設定は、容姿が異質であったために捨てられた孤児、といったものだ。
閉鎖的で、未だに迷信俗説の類が跋扈するこの国では、子供を捨てるとてもありふれた理由である。

「んーー、でも、きれい」

同僚の彼女、エスは、生まれつきなのか育った環境のせいなのか、所謂あまり頭が良くない。二つ以上のことを言われれば、二つとも覚えられず、たった一つの命令でも、複雑なものは理解しない。
ただ、ユリが接してみれば、その心根は誰よりも優しく、物言いの仕方さえ気をつければ、彼女は忠実にその命令に従うことがわかった。
ユリがここへ来る以前は、理解しきれない同僚たちからの陰湿ないじめにも似た振る舞いがあったようだが、間に立つようにユリが彼女へ仕事を与えた結果、今は周囲ともなじみ、ユリ共々仲良くやっている。
仲良くやっていないのは、ユリたちとは違う、もう少しここの主に関わる仕事をしている召使たちだ。
そもそもここの屋敷の主は、とある伯爵である、ということだ。
おはした仕事をしているから知らないのではなく、ただの一度もこの屋敷に足を踏み入れていないせいでユリが知らないだけである。
では、この人数の使用人が誰のために働いているのかというと、その伯爵の妻、という人物ただ一人のために、これだけの使用人が存在しているのである。
そのおかげで端の方に潜りこめたのだが、偉い人というのはよくわからない、といった感想を抱いている。
その主人、というものが曲者で、気鬱の病といった名目でこの別荘に静養に来たはいいが、わがままで乱暴なふるまいが過ぎるとして、気のきいた使用人たちから順番に、次々とやめ続けている。
ユリの前の主は、確かにわがままを言っていた。
だが、それが本心からのものでも、まして物理的に他人を傷つけるものでは決してなかった。
言ってみれば子供の戯言。
しかし、ここの主のわがままは、ユリのどちらかというと楽観的な性格からしても陰湿且つ執拗であり、おまけに苛烈である。
茶が温いと言いながら、平気でその中身を使用人にぶちまける。機嫌がさらに悪いときなどは、割れた茶器を拾おうとした手を踏みつけ、けがをさせる。
当然、欠片で傷ついた手は、当分使い物にならず、それでも平然として用事をいいつける。
ついには耐えられなくなってやめていき、その次のものも、同様の目にあいやめていく毎日だ。
ここのところは、朝食を全てひっくり返す程度で済んではいるが、いつけが人がでるとも知れない日々は、人の心に余裕をなくさせるには十分であり、ここの使用人たちは毎日びくつきながらも、神経を尖らせて生活している。
当然、その鬱憤はさらに弱いところへ吐き出される。
それがユリたち重労働を行なっている下女、下男となるのも、悪循環としては自然な流れである。
最も、悪意に疎いエスと、ユリに関して言えば、あまりにいじめがいがないせいなのか、早々にその輪からはずされている。

「いいかげんにして欲しいよ、まったく」

あかぎれのある手をさすりながら、同僚がぼやく。下女たちは、日の当たらない隅の部屋へ四人から五人の割合で寝泊りしている。ユリは、エスとその他二名の下女たちと同じ部屋で、一日の仕事が終わり、こうやって他愛もないことを話し合うことを唯一の楽しみにしている。
今日も主の世話係から、全く何もないところで叱責された同僚が、布団を引き寄せながら愚痴を垂れ流す。
それを黙って聞き流すのがユリで、にこにことわけもわからず聞いているのがエスである。
あまり話し相手として、最適とは言いがたいが、それでも話さずにはいられない、といった風情で、彼女は話し続ける。

「いいかげん戻ってくれないのかね、あの人も」

主のことをあの人呼ばわり、というのも褒められたものではないが、これぐらいの毒吐きがなくては、やっていられない状況だ。

「でも帰っちゃたら、仕事がなくなっちゃうしなぁ」

主がいなければ、少なくともこの下女の仕事はいらなくなる。
ほんの数人、屋敷を管理する人間がいればよい。

「まあ、それもそうなんだけどさ」

結局のところ、ユリにしてもエスにしても、愚痴を言っている同僚にしても、ここがなくなってしまえば、とりたてて行くあてがないのだ。
いやみを言われるし、八つ当たりはされるけれども、とりあえず二食があって眠る場所がある。
それ以上の贅沢は望めない立場だ。

「最近はなんか機嫌がいいみたいだから、八つ当たりも減ったんだけどなぁ」
「ああ、そうみたい、旦那様がくるとかこないとか」
「そういうこと。でも、いまさらってかんじじゃない?」

各々言いたいことを言い合いながら、早々に眠りにつく。
明日も、彼女たちの朝は早いのだから。


5.6.2009
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