「喜和さーーん、喜和さんはおらんか」
「あら、大旦那様」と、ばあやが呟く。どうやらここの屋敷の主の登場らしい。それにしては声の質が軽いのが気になるが。
喜和さんは、牡丹の方へ目を向け、困ったような顔をする。どうやってこの状況を説明しようか考えあぐねているのだろう。見た目は普通の女の子である彼女が縛り上げられている図といのは、どうかんがえてもこちら側が悪者である。だからといって、この子はいたずら妖怪だから退治しました、なんて訴えたところで病院かカウンセリングに連れて行かれるのが関の山。とりあえず事を隠蔽しようとばあやさんが障子を閉めようとする。この部屋は障子を開け放してあるため、廊下どころか庭まで丸見えだ。当然廊下を行く人の目からもこの部屋の中身は丸見えなのだ。
だけど、ばあやさんの健闘むなしく、大旦那様とやらは我々の部屋へと到着してしまった。
案の定牡丹の姿を見て仰天している。それはそうだろう、着物の美少女が縛られている姿は非現実的ともいえる。だけど、大旦那様の一言で、我々の予想を遥かに上回る非常識な事態に陥ってしまうこととなる、さすがにエリックさんの血縁だ、とは後で思ったことだけど。
「ぼたんちゃん、誰がこんなにひどいことを!」
「「「「はぁ?」」」」
皆の声が一斉に重なる。
ぼたんはふて腐れているのか、かわいい頬を少しだけ膨らませている。
「ジェームスちゃん、私このお家出て行かなくちゃいけないみたい」
「「「「ジェームスちゃん?」」」」
再び声が重なる。
「誰がそんなふざけたことを!そんなやつはおじさんが逆に追い出してやる!!」
牡丹がすいと私の方を指差す。私はとりあえずその指先をエリックさんに向けてみた。
点々点と、指す方向へと視線を這わせていた老人は、エリックさんを見るや否やどこからもちだしたのかスリッパで頭を思い切りはたく有様。
あまりのことに止められなかったというのか、止める気はまるでなかった私と姉は、それぞれ守るべき物を背中に隠し傍観者と決め込む事にした。
「いくらわしの孫とは言え、ぼたんちゃんに悪さをするやつは許しておけん!勘当だ!出て行け!」
出て行けって、行方を探していたんじゃないのですか?
「そんな、大旦那様、あれほどお探しだったじゃないですか!」
「それとこれとは別。ぼたんちゃんをいじめるやつは誰であろうとも許さないし」
「許さないし、じゃなくって、じい様、その子のこと知ってたんですか?」
「もちろん、だって友達だもーーーん」
その言葉にエリックさんだけじゃなく、その場にいた者全員がっくりとうな垂れてしまった。このシルバーグレイの上品な老人から、このように非常識な言葉を繰り出されるとは思いもしなかった。
「それに!病気じゃなかったんですか?」
「そうでございます、最近はお昼間から床に伏せていることが多かったじゃありませんか」
老人は少しだけばつの悪そうな顔をして、子どものようにそっぽをむいてしまった。
「たぶん、夜中遊んでたんじゃないんですか?牡丹は夜行性だし」
「遊んでたぁ?」
「大旦那様、本当でございますか」
なおもそっぽをむいたままの老人は、形成が不利になったとみて、何事もなかったかのように立ち去ろうとする。
「じい様、つまりはただの寝不足ということですか?」
チェックメイトの声が聞こえる。あまりにばかばかしい原因と結果に一同言葉を失ってしまった。
「ほらほら、佐紀さんに似ていると思わない?」
「そうでございますかねぇ…。何分随分前の事でございますし」
祖母の家からくっついていったというばあやがまじまじと牡丹の顔を見る。
牡丹は目の前に置かれた和菓子に機嫌がよくなったのか、黙々とそれらを口へと運んでいる。
こいつも人間の食べ物を食べるタイプなのか、と、妙なところに感心をする。
「そう言われれば、でございますが、大奥様の子どもの頃に少し…」
「でしょでしょ、やっぱりなぁ、ばあやならわかってくれると思ったんだ」
口調の軽いこの老人は、やっぱりというか当然と言うかエリックさんの祖父だった。言い訳がましい説明によると、ふらりとこの家へと現れた牡丹は、亡き愛しの妻、つまりエリックさんの祖母にそっくりなのだそうな。着物の美少女が突然現れる不自然さも気にせず、あっという間に牡丹のとりこになった彼は、夜な夜な彼女とカルタやお手玉、おはじきなどをやって遊んでいたらしいのだ。牡丹にしてもこんなに自分を歓迎してくれて、しかも毎日遊び相手になってくれる人間がいる家などはじめてのことらしく、この家に住み込むことに決めたらしい。それでも、僅かに残った理性で、彼女の存在が露見することを恐れた彼は、彼女の存在を隠すべく、つまり夜更かしの原因を追求する事を恐れ、調子が悪くて寝込むという体裁を整えたというアホな話。
牡丹の方はそんな彼の涙ぐましい努力なんてこれっぽっちも気にせず、たまに昼間に起きてはいたずらをし、ふらりと部屋を出て行っては人間を脅かすを繰り返していたらしい。根がいたずらすることを基本とした彼女は、あたりまえのようにそれをしないと生きていけないとかいけるとか…。
「大旦那さまの耳にはいれまいとがんばってまいりましたのに」
まさか情報を入れまいとした本人が、大元凶だなんて思いもよらなかったばあやが溜息をつく。
「だから、ぼたんのせいでお手伝いさんがやめていくのに気がつかなかったのね」
上等な茶葉で入れたであろう緑茶をすすりながら、姉がつっこむ。
廉はあっというまに初対面の祖父に慣れ、膝の上でにこにこ笑顔を振り撒いている。やっぱり君は大物になる、うん。
牡丹の存在をあっけなく受け止めるだけの許容範囲がある彼は、姉や廉の存在などあたりまえのように受け入れてくれた。むしろそのアタリの度量の広さは、孫などよりも数段上だ。年長者の余裕なのか、もって生まれた資質なのかは、言わぬが花だろうけれど。
今は、隣に牡丹、膝に廉と両手に花の状態で相好を崩している有様だ。
「これで片付いたから、とりあえずあんたは会社に戻ったら?」
「そうでございますよ、ぼっちゃま。突然会社まで辞められて!」
エリックさんはじい様の経営する会社に見習いとして勤めていたらしい、それを何もかも捨てて姉さんをとった。と言えば聞こえはいいが、つまるところ敵前逃亡だな。
「そうそう、わしも引退したいことだし」
「でも…」
自分から出て行ったことに拘っているのか、エリックさんはなかなか良い返事をしない。そんなに意地をはっていたら、大切な物を失うかもしれないのに、と余計な心配をしながら彼の横顔を見つめる。
「わしはぼたんちゃんと遊んでくらす。おまえは身を粉にして会社ため家族のためにはたらく。うん、なんていいアイデア!」
エリックさんが戻りやすいようにわざとおどけて言ってみせる。やはりこの人は懐が深い。
「……わかりました」
そうして、エリックさんは礼儀正しくその場で正座をしながら頭を下げた。今まで心配させたこと、勝手に結婚したこと、それらの全てに対する謝罪の意味をこめて。姉もいつのまにかきちんと座りなおし、エリックさんのややうしろで同じように頭を下げる。
エリックさんのじい様は、とてもとても優しい顔で微笑んだ、もういいのだよと、優しく二人を諭しながら。
「それじゃあ、ここからすぐ近くだから、ちょくちょく寄ってね」
「うん」
伊豆から帰ってきた私たちは、今までとかわりないように過ごした。
今日、姉夫婦と廉君はここを出て行く。
それでも、今まで賑やかだった食卓が、一気に寂しくなるのかと思うと、涙腺が切れそうになる。
「エリックさんも料理がお上手になりましたし、もう大丈夫ですから」
琥珀はお気に入りの料理本といくつかのメモを渡している。きっとエリックさんの好きな献立のレシピが記されているものだろう。姉に料理は期待できないので。
「ありがとう、琥珀君も、翠ちゃんも」
暑苦しいぐらい思いの篭った握手をされる、エリックさんの感情表現には時々びっくりさせられたけど、今はなんとなくそれが寂しい。
彼女達の姿が見えなくなるまで手を振る。もう何も、本当になにも見えなくなってから、ふわりと私の体が暖かい物に包み込まれた。
「琥珀もいつかは出て行くのか?あんな風に」
もう誰もいない道路を指差しながら訊ねる。
「出て行きませんよ。翠さんが嫌だといっても絶対に出て行きません」
「それじゃあ、私にとりついたみたいじゃないか」
くすりと琥珀が笑う。
「そうですね、僕は翠さんにとりついています」
なんだか琥珀の顔を照れくさくてまともにみることができない。
「じゃあ、ずっとそばにいてくれ」
「ええ、約束します。ずっとあなたの側に」
姉さん達がいなくなった寂しさが吹き飛ぶほど照れくさく、わざとぶっきらぼうに琥珀の側を離れる。琥珀は黙って、私の後ろについてくる。
「翠さん、晩御飯何にします?」
いつもの琥珀の声。
「そうだな、肉じゃががいい」
「はい、わかりました。肉じゃがにしましょう」
「うん」
「そうだ、今日は一緒に買い物に行きませんか?久しぶりに」
見上げた琥珀の顔はいつも私に見せてくれる優しい顔で、思わず差し出された手をとる。
私のものではない琥珀の掌の感触に安心感を覚える。
これからも一緒に。
ずっと一緒に。