36 | 安政3年7月29日 | 1856 | 先 | 村瀬 弥吉 | 本因坊秀和 | 持碁 | 戦いに次ぐ戦いの後の持碁 | A |
杉内九段の解説抜粋 本局は秀和37歳8段、弥吉19歳5段の時の作品である。秀策は秀和より9歳年下、弥吉は秀策よりさらに9歳年下である。 戦いに次ぐ戦いの連続であり、ついに持碁に終わった。若い弥吉の元気と、それを受けていなす秀和の老練さが好対照を織り成す。 弥吉は後の本因坊秀甫。秀和は数多くの名棋譜を残した。しかし、弥吉こそは秀和生涯の傑作、手塩にかけた愛弟子なのであった。 弥吉は天保9年(1838年)、江戸車坂下の大工の子として生まれた。本因坊道場とは目と鼻の先である。丈策、秀和に師事し、嘉永元年、11歳で入段、4年には本因坊の内弟子となり、塾頭も勤めている。嘉永7年(安政元年)3段、安政2年5段、文久元年6段、元冶元年には7段に昇段。万延元年には秀和の片諱を受け、名前を秀甫と改めている。秀甫は、後年本因坊家跡目問題で本因坊家を出て野に下ったが、明治12年方円社創設を機に碁界の大道に復帰している。 秀和・秀甫の対局は嘉永3年から明治4年まで50局あり、秀和・秀策局よりはるかに多い。成績は秀和から見て、黒番2勝、白番16勝19敗5持碁、3打掛、2子局3敗、3子局1敗となっている。 弥吉の家は貧乏であったが、修業の環境には恵まれていた。師秀和の一挙手一投足を弥吉は血肉とし、兄弟子秀策から多くのものを吸収し、ついに秀策と並び称されるまでに成長した。 後世の我々はこの3秀(秀和・秀策・秀甫)から、碁の最も根源的なものを学ぶ。秀和・秀策、秀和・秀甫、秀策・秀甫の遺譜100局は、囲碁制度史のうえのみならず、手段の上から見ても、江戸囲碁史の実績であり、また、近代碁への萌芽を含む端緒でもあった。 smile_aceコメント 3秀という言葉は始めて知った。日本囲碁大系16秀甫(林海峰九段著)を見るのが楽しみになった。 |
smile_aceがまず棋譜を見て感じたことを左の碁盤の下の余白に表示してみました。>(前進)や<(後退)で動かして下さい。 そして、 「日本囲碁大系 第14巻 秀和 解説 杉内雅男」 を参考に変化図も加えて 鑑賞ファィル を作ってみました。 左の碁盤では変化図を表示することが出来ないので、変化図や解説者の解説を見る為に、出来るだけPocketGobanで鑑賞ファィルを見ることをお薦めします。 smile_aceの感想は解説者の解説を見る前と見た後にあり、どちらか分かる様にしています。 両方見ると、smile_aceの棋力が分かるかも知れません。 「***smile_ace感想」は解説者の解説を見る前の感想です。 「***smile_aceコメント」は解説者の解説を見た後の感想です。 ご意見、ご質問等を是非 smile_aceの囲碁のページ メッセージボード に残して下さい。必ず返事をします。 |
37 | 安政4年11月17日 御城碁 | 1857 | 先二 | 二子番 林 有美 | 本因坊秀和 | 黒5目 | 序盤での機略のヨセの一手 | A |
杉内九段の解説抜粋 林有美は、天保3年(1832年)生まれ、13歳で12世林門入に入門する。技量優秀で、安政3年、柏栄跡目5段となり、25歳の時に御城碁に初出仕した。万延元年には6段に昇進、将来を嘱望されていたが、文久2年31歳で夭折した。 秀(3年年上)は有美の成長を恐れていたという。有美の技量については、安政3年の御城碁(本局の前年)を伝えた岸本佐一郎の書簡に「有美は存外の出来」とある。(smile_aceコメント:意外と強いという意味だろうと思う) |
smile_aceがまず棋譜を見て感じたことを左の碁盤の下の余白に表示してみました。>(前進)や<(後退)で動かして下さい。 そして、 「日本囲碁大系 第14巻 秀和 解説 杉内雅男」 を参考に変化図も加えて 鑑賞ファィル を作ってみました。 左の碁盤では変化図を表示することが出来ないので、変化図や解説者の解説を見る為に、出来るだけPocketGobanで鑑賞ファィルを見ることをお薦めします。 smile_aceの感想は解説者の解説を見る前と見た後にあり、どちらか分かる様にしています。 両方見ると、smile_aceの棋力が分かるかも知れません。 「***smile_ace感想」は解説者の解説を見る前の感想です。 「***smile_aceコメント」は解説者の解説を見た後の感想です。 ご意見、ご質問等を是非 smile_aceの囲碁のページ メッセージボード に残して下さい。必ず返事をします。 |
38 | 安政5年3月15日 | 1858 | 先 | 村瀬 弥吉 | 本因坊秀和 | 白2目 | 大振替りの2目勝ち | A |
安政5年は秀和が碁所運動を興す前年で、秀和39歳8段、弥吉21歳5段。 本局は出入り60目以上のコウ争いを、妥当なコウダテで振替り、結局2目(以下正しく打つと持碁の可能性もあったらしい)となったという興味ある碁です。 |
smile_aceがまず棋譜を見て感じたことを左の碁盤の下の余白に表示してみました。>(前進)や<(後退)で動かして下さい。 そして、 「日本囲碁大系 第14巻 秀和 解説 杉内雅男」 を参考に変化図も加えて 鑑賞ファィル (ファィル形式sgf)を作ってみました。 左の碁盤では変化図を表示することが出来ないので、変化図や解説者の解説を見る為に、出来るだけPocketGobanで鑑賞ファィルを見ることをお薦めします。 smile_aceの感想は解説者の解説を見る前と見た後にあり、どちらか分かる様にしています。 両方見ると、smile_aceの棋力が分かるかも知れません。 「***smile_ace感想」は解説者の解説を見る前の感想です。 「***smile_aceコメント」は解説者の解説を見た後の感想です。 ご意見、ご質問等を是非 smile_aceの囲碁のページ メッセージボード に残して下さい。必ず返事をします。 |
39 | 安政5年11月17日 御城碁 | 1858 | 先 | 井上 因碩 | 本因坊秀和 | 白6目 | 松本因碩との楽勝の御城碁 | B |
黒は幻庵因碩と思いきや、旧名松本錦四郎、俗に松本因碩と呼ばれる因碩で、幻庵より2代あとの因碩とのことである。 白6目勝ちという結果が分かっているからとは言え、黒の打ち方にいろいろ疑問を感じた。 松本因碩は秀和の碁所願いに限らず、何事にも反対したらしい。座隠談叢には次の様に説明されている。「因碩は林家の門下として、元美が丈和の詐術にかかって、丈和の碁所願いに加印したこと、幻庵因碩が丈和に陥れられたことを知悉し、事ある時に異議を唱うることに決心し、もって棋道研鑽の基とした。」 |
smile_aceがまず棋譜を見て感じたことを左の碁盤の下の余白に表示してみました。>(前進)や<(後退)で動かして下さい。 そして、 「古典名局選集 堅塁秀和 解説 福井正明」 を参考に変化図も加えて 鑑賞ファィル を作ってみました。 左の碁盤では変化図を表示することが出来ないので、変化図や解説者の解説を見る為に、出来るだけPocketGobanで鑑賞ファィルを見ることをお薦めします。 smile_aceの感想は解説者の解説を見る前と見た後にあり、どちらか分かる様にしています。 両方見ると、smile_aceの棋力が分かるかも知れません。 「***smile_ace感想」は解説者の解説を見る前の感想です。 「***smile_aceコメント」は解説者の解説を見た後の感想です。 ご意見、ご質問等を是非 smile_aceの囲碁のページ メッセージボード に残して下さい。必ず返事をします。 |
40 | 安政7年3月 | 1860 | 二子 | 葛野亀三郎 | 本因坊秀和 | 黒2目 | 丈和の息子との2子局 | B |
福井九段の解説抜粋 葛野亀三郎は後の中川亀三郎、方円者2代目社長、秀和の師丈和の第3子で、秀和より17歳下となる。兄は後に12世井上因碩となる同和、姉は秀策の妻花である。11歳で父を亡くし、13歳の時義兄の秀策に付き添われて秀和に入門した。1857年秀策の帰郷に同行して各地の強豪と打つほか、秀策にも2子で何局か教わっている。 方円社3代目社長厳崎健造によれば、亀三郎は「秀策の亡くなった時分から急に強くなり、手のつけられない腕力家になった。秀策が乗り移ったとか言われるほどで、父丈和の棋風に似てきた。」と言われている。 亀三郎は明治12年に村瀬秀甫たちと「方円社」を設立し、副社長、秀甫が死去した時には、本因坊継承の意思が無いことを表明して、2代目方円社社長に就任している。 |
smile_aceがまず棋譜を見て感じたことを左の碁盤の下の余白に表示してみました。>(前進)や<(後退)で動かして下さい。 そして、 「古典名局選集 堅塁秀和 解説 福井正明」 を参考に変化図も加えて 鑑賞ファィル を作ってみました。 左の碁盤では変化図を表示することが出来ないので、変化図や解説者の解説を見る為に、出来るだけPocketGobanで鑑賞ファィルを見ることをお薦めします。 smile_aceの感想は解説者の解説を見る前と見た後にあり、どちらか分かる様にしています。 両方見ると、smile_aceの棋力が分かるかも知れません。 「***smile_ace感想」は解説者の解説を見る前の感想です。 「***smile_aceコメント」は解説者の解説を見た後の感想です。 ご意見、ご質問等を是非 smile_aceの囲碁のページ メッセージボード に残して下さい。必ず返事をします。 |