ある男の野望 9

 

 









 

 

 

 

 

 

 

 再びホテルへ戻ると、やはり無人だったフロントを素通りし、昨夜幼馴染みが教えてくれた部屋へと迷わず足を向けた。エドワードはもう、その部屋に居るのだろうか。それとも、まだこのホテルのどこかで誰かに着物を着せているのだろうか・・・・あの小さな手で、魔法のように布や紐を操っているのだろうか。

 平面的な布とたった一本の帯だけで、瞬く間に美しい形をつくり上げてしまうエドワードの指が力強く繊細に淀みなく動く様を思い浮かべながら、エレベーターのドアの上で移動する表示ランプを目で追う。

 エドワードにまつわる何かを想うだけで、早鐘のようになるこの胸。人間の心臓はこんなにも早く鼓動を刻めるものなのかと、僕はまた新たな発見をした。

 昨夜エドワードに出会ってからというもの、僕は次々と新しい感情や事柄を体感させられている。今の自分がいつも通り計算と理性によってではなく、ただマグマのように噴出する熱い感情のみによって突き動かされているのだという実感。それは、途轍もない幸福感を僕の胸にもたらした。この幸せをくれた彼に、僕もまた幸せを返すことができたらいいのに・・・・・。そう心に思うことさえもが、僕の胸に甘く熱く心地良い痛みを湧きださせた。

 

 8階のフロアに降り立ち、迷うことなく801というプレートがある部屋のドアまで行けば、丁度のタイミングでドアの施錠が外れる音がした。恐らくあちこちに配置されているカメラの映像で僕の動きを逐一チェックしているだろうリン・ヤオの仕業に違いない。・・・ということは、彼はまだこの部屋に来ていないのだろうか。知らず強張っていた肩から力を抜きつつ部屋へと足を踏み入れ、明るめに調節されている間接照明をたよりに部屋をぐるりと見回す・・・・までもなかった。部屋の中心に据え付けられているベッドの上に、すぐに想い人の姿を見つけたからだ。

 

 「・・・・・・・・・・・・・・!?」

 

 そっと近づいて覗きこめば、彼はシャワーを浴びたのかびしょ濡れの髪のままホテルの薄っぺらいバスローブだけを身にまといぐったりと眠りこんでいた。布団を捲る余裕さえなかったのか、薄い羽毛の肌掛け布団の上にしどけなく横たわる身体はすっかり冷たくなっている大急ぎで空調の設定温度を上げ、彼の細いなりに綺麗に筋肉の付いた身体を抱きあげて布団の中に入れてあげる。体温を分けてあげようと彼の横に入ろうとしてから、ふと自分の服装を見下ろす。ゴワゴワしたスーツにネクタイ。スーツの胸ポケットには万年筆と名刺入れ、それにネクタイにはネクタイピンが付いている。ベルトのバックルだってある。これで彼を抱き締めるのは、あまりにも可哀想だ。慌ててホテルに備え付けてあるバスローブに着替えたが、それは僕の体格にはあまりにも小さすぎた。けれど構うものか。

 僕はそっと彼の横に滑り込みつつ未だ雫を滴らせそうな彼の髪の下にバスタオルを敷いて、その冷たくなった身体を抱き寄せた。

 

 嗚呼・・・・・・・なんて小さいんだろう!まるであつらえたように僕の腕の中に綺麗に収まってしまうしなやかな身体。鼻腔を満たす彼の香りに目眩がしそうだ。生れて初めて愛おしいと思える人に出会い、そしてその人をこの腕に抱く。僕は今、世界で一番幸福な男に違いない。

 伏せられたままの瞼に唇を寄せ、冷たい身体を更に深く抱きこみながら、これが自分の口から出たものなのかと疑うような甘い声で囁いた。

 

 「疲れてるんだね、エドワード。それにこんなに冷え切って・・・・可哀想に。僕が温めてあげるよ、可愛い人・・・・」

 

 彼の体温を腕に抱き、昨夜は一睡もしていないこともあり、僕はやがてやってきた睡魔に暫し身をまかせた。

 

 

 

 3時間ほど眠って、先に目を覚ましたのは僕だった。彼は相変わらず僕の腕の中で、何かの動物の子供のように眠っている。無意識にぬくもりを求めてか、身じろぎながら僕の胸に頬を摺り寄せてくる仕草に胸がキュンとなる。

 彼の吐息が僕の胸元にかかるこそばゆさ。初めて知る、その人の香り。そして感触・・・・・感じる全てが、僕の中にある不埒な情動に火を灯そうと働く。しかし、僕は細く深い深呼吸を繰り返してそれを散らした。そして心を落ち着かせる為にあるメロディーを口ずさむ。

 その歌詞の意味の解釈が様々な物議を巻き起こしているこの国の国家だが、僕は意味云々差し引いて、個人的にこの荘厳な旋律が気に入っているのだ。

 繰り返し歌ううち、やがて愛しい人が目を覚ました。

 さあ、あの不本意な状況での初対面をいかに挽回出来るか。彼に可能な限り良い印象を与え今後の付き合いへと発展させて行く為に、ここは非常に重要な局面だと、全ての神経を研ぎ澄ませた。

 

 しかし、程なくして僕は改めて彼の抱える心の危うさに気付いたのだった。

 彼は、人間の『欲』・・・・とりわけ『性的な欲』というものに対し、激しい嫌悪感を抱いている。人として本来当たり前に持つべきものを、そうと受け入れることが出来ずに無理やりふたをしたまま生きている。彼は純粋であることに固執するあまり、臆病で歪んだ、危うい人だった。

 リンが最初に彼の事を『わけあり』と言ったのは、これをさしていたのだと知る。早くも、僕の愛の行く手を阻む頑強な壁の出現だ。

 

 彼は他者から性的な接触を受けるとそれに過剰な拒絶反応を示し、たちまち精神が不安定になる。それはどうやら、例えこちらがそうと意図していなくとも、彼に性的な事柄を連想させるだけでもいけないようだった。

 それに気付いたことで、僕は『ああ、そうだったのか』とひどく納得した。

 

 『人の感情』という概念が熱を伴って自分の中に存在しなかった僕も、ここに至る経過は異なるが、ある意味彼と同類なのだ。当たり前に持つべきものを、自分の中から頑なに排除している彼と、生まれついて理解する心を持たなかった僕。それによって生じてしまう自分への失望や、周囲への負い目・・・・・そんな漠然とした苦しみに晒され続けた末に、とうとうもがくことすら諦めてしまっている。

 

 僕はきっと初めて会った瞬間、彼の瞳の奥に、自分と同じ失望の色を見つけたのだ。だからこそ、こんなにも強く彼に惹かれた。まるでこの世に生まれ出てくるときに置き忘れてきてしまった自分の半身であるかのように、本能的に彼と自分を同一のものととらえたのだ。

 僕も、そして彼も。自分で自分を幸せにする力を持たない。けれど、僕には彼を幸せにすることができる気がしたし、また彼ならば必ず僕に幸せをくれると確信出来た。

 まずは自分のこの手で、彼が心からの微笑をつむげるような道を、彼の目の前に創ってあげたい―――――。

 ところが、自分や誰かの為に何かをしたいと生まれて初めて思った僕にとって、彼の起爆装置に触れずにその心を解きほぐすという作業は気が遠くなるほど困難なもので・・・・・。


 結局その日僕に出来たのは情けないことに、プライベート用の携帯ナンバーを書いた名刺を彼の服のポケットにしのばせることだけだった。

 

 

 

 それからの僕の生活は一変した。趣味など一切持たない人間だから、これまでは手持ち無沙汰にボンヤリと時間を過ごすこともあったが、今はもうそんな無駄な時間は一秒たりともない。学校が終わればすぐさま帰宅し、父から言いつかっている書類の整理、プレス向けのコメント用に必要な資料の準備、他の秘書官らとの首相のスケジュール調整、その合間には諜報活動の真似事や不道徳的な裏工作・・・・等々を迅速にこなして、可能な限り空き時間を捻出した。そうして少しでも時間が出来れば、彼が『仕事中』ならあのホテルへ、そうでない時には彼の自宅の周辺をぶらりと歩き回ってみたりした。ただし、彼に見つからないようにこっそりと・・・。要するに、俗に言うストーカー行為だが、僕だって好き好んでこんな事をしている訳ではない。

 これまでどんな相手にも『好かれたい』という気持ちを持ったことのない僕は、誰かの愛を得るにはどうしたら良いのか、その方法が全く分からずにいた。『好かれたい』という求める気持ちが強ければ強い程『嫌われたくない』という恐怖心が同じだけ増すのだということも初めて学んだ。またそれに加え、リンから彼の抱える精神的な疾患について厳重な注意を受け、エドワードの過敏な反応の原因が根深いものだとも知り・・・・・・・・・・そう。つまり平たく言えば、僕は自分でも笑ってしまうほど怖気づいていたのだ。

 どんな相手だろうが巧妙に相手の気持ちを手玉にとって懐に入り込むなど、これまでわけなく出来ていたのに・・・・・彼を相手にする時だけ、僕はまるで年端のいかない無知で無力な子供のようだった。 

 遠巻きに彼の姿を見て、今日こそは、明日こそは、彼に話しかけよう。そうして鳴ることのない携帯電話をポケットの中で握り、今日も彼の一日が何事もなく終わったことに安堵し、明日もまた一日が彼にとって穏やかなものであるといいと願いつつ家路を辿る。

 

 そんな日々がふた月ほど続き、一分一秒ごとにつのっていく想いを持て余しながら、やがて僕は、果たしてこんな激しい気持ちをいっぱいに抱え込んだ自分が彼に近付いてしまってもいいのだろうか・・・と思うようになった。

 頑なに清廉であろうとする彼を、自分のこの手が傷つけてしまうのではないか。例えば何かきっかけを作り、友達のような顔をして近付くことはたやすい。でも、僕の胸の内にある感情は、どう取り繕うとも所詮突き詰めれば肉欲を伴うものだ。性的なもの一切から自らを切り離し、危ういバランスを保って怖々生きている彼に、その想いを一体どんなふうに打ち明けられるというのだろう。かといってこのまま彼を諦めることもできず、袋小路の中で終わることのない不毛な自問自答を繰り返していた。

 

 そんな時、本当に不意に、それは起きた。

 

 

 その日、この地方としては異常な積雪に見舞われた為に帰宅が困難となった人々が駅前に溢れ返った事態を受け、急きょ彼の両親が経営するホテルでは、系列のホテル全館でそうした一般客の受け入れを積極的に行った。常にない膨大な需要に駅前のカプセルホテルやビジネスホテルの供給では焼け石に水の状態だったから、帰宅する為の交通手段を絶たれ慣れない氷点下の夜の街で途方に暮れていた多くの人々にとって、その臨機応変かつ迅速な対応はこれ以上ない救いとなった。本来少人数で利用する事を想定している施設に、そもそものターゲットとする客層を無視して多くの人間を一度に受け入れてしまうことにより、多大な不利益をもたらすことだって十二分に考えられる。商いとは利益の追求を最優先するものである筈なのに、それを覚悟の上でこの英断を下したホテルの経営者の人格が如何に素晴らしいものなのかが伺い知れた。

 ニポン国の行政も、こうした柔軟でいき届いたサービスを見習わなくてはならないとつくづく感じたが、現首相の長男であり私設秘書であるこの僕からして、(勿論そんなことばかりではないが)対抗勢力の排除の為のデータ集めや、相手を陥れる為の裏工作に貴重な労力の大半を割いているのだった。この事に関して何の後ろめたさなど感じたことはこれまでなかったが、今初めて自らの姿を省みる必要があるのではという気持ちにさせられた。と同時に、自分の愛した人の両親がこんな素晴らしい人であった事に、素直に喜びを覚えた。

 

 

 リンに煙たがられながらも、諸々の用事で待機場所である事務所を出入りする彼の姿をそっと物陰から見守る。

 今日もまたいつものようにエドワードの様子を見る為にホテルへと足を運べば、いつになく人で溢れ返った騒がしいホテルのフロントのカウンターで、リンともうひとりのスタッフが配室業務や客の対応に追われていた。忙しそうな様子に声をかけるのも憚られたので、ふとこちらに気付いたリンに身振り手振りでエドワードの所在を尋ねると、リンは『あ!』という表情を作り、カウンターの内側にあるキーを叩いて何かを調べているらしかった。その様子が気にかかり、僕は侘びを入れながら群がる客の間をすり抜けてリンの傍へと近付いた。

 

 「リン、何かあった?」

 

 僕が尋ねる声にリンの早口な独り言が重なった。

 

 「ヤバイ。606は酒が入った男ばかりの6人連れダ・・・・っ!」

 

 言うなりカウンターを飛び越えて走り出すリンに、僕もすぐさま続いた。リンの取り乱しぶりをみれば、状況は大方予想がついた。恐らくリンは僕の顔を見た途端、クレーム処理かなにかの対応をしに行ったエドワードがその部屋から戻って来ないことに気付いたのだろう。

 ザワリと全身が粟立つ。

 

 2基あるエレベーターが両方ともふさがっていたから、脇の防火扉を開けて非常階段を駆け上がり、一気に6階までたどり着く。606のドアに飛びつくようにしてロックを解除したリンを横に突き飛ばして室内へと駆け込んだ。

 

 そこは、まるで戦場だった。

 

 全裸のエドワードが手にナイフのようなものを握り締め、ところどころから血を流して逃げ惑う男達に狙いを定めている。

 僕の目の前で酒瓶に足をとられた男がよろけると同時に、エドワードが人間離れした動きでナイフを振りかざして躍り掛かった。

 冗談ではない。こんなクズのような相手に、エドワードのその綺麗な手を汚させる訳にはいかない。

 思いのほかエドワードの身のこなしが俊敏だった為に腕を切りつけられつつ、どうにか彼を抑え込んだのだが、すっかり錯乱して自分を見失っていた彼は僕に腕を掴まれながらもまだ目の前の相手に襲いかかろうと激しく暴れた。僕の手の中で、掴んだ彼の腕や肩の関節がゴキッと鈍い音を立てる。このままでは彼自身が傷ついてしまうから、仕方無しに、鳩尾に必要最小限の力で当て身をいれて気絶させた。

 腕の中でぐったりとするエドワードの身体のあちこちには痛々しい擦過傷があり、僕が今当て身を入れた箇所には既に内出血の痕があった。その身体を部屋の隅の壁際にそっと横たえ、バスローブをかける。全裸だという事実が、今彼がどんな目にあわされていたのかを如実に物語っている。僕の目の奥でプチンと何かが切れる音がした。同時に抑え難く激しい感情が腹の底からマグマのように一気にせりあがって来る。

 この感情は一体何だ。

 

 「・・・・・・・・・っけてンじゃねぇぞ手前ら・・・・・ッ!」

 

 思いもよらない口汚い言葉が、自分の食いしばった歯の隙間から、まるで獣の唸り声のように零れるのを聞いた。

 

 それは、僕が生まれて初めて感じた『怒り』だった。

 今まで他人の生き死にに全く無関心であったこの僕が、心の底から殺意を覚えていた。

 

 どんな惨たらしいやり方で嬲り殺してやろうかと考えながら、男達を見下ろす。

 

 僕が余程尋常ならざる形相をしていたのか、男たちは皆ヒィと息を飲み、その内の一人が開け放したままのドアへと駆け出す。僕はそれに向かって拳を叩き付けた。しかし拳は勢い余って狙いが外れてしまい、その男の顔のすぐ脇の壁に大穴をあけただけに留まった。

 

 「運の良いヤツだな・・・・でも、次は無い・・・・!」

 

 舌打ちをしながら、小便を垂れ流して腰を抜かす男の髪を掴んで引きずり立たせたところで、リンが拍子抜けするほどのんびりした声で僕を諌めた。

 

 「ア〜ル〜、お前が殺人犯にでもなっちまっタラ、坊チャンは一生責任を感じて苦しむことニなるんじゃナイノオ〜?それよりもサ、もっと効果的且つコッチの鬱憤も晴らセル一石二鳥な報復があるんだケド、ド〜オ?」

 

 そこら辺に散らばっていた荷物の中から適当に取り上げた財布から抜き出した紙幣を、部屋の入り口脇に据え付けられている自販機に差し込み、「これホント出ないから余っちゃって困ってルンだよネェ」とリンが手にしたのは紫色のバイブだ。ただしそれは、大根程の太さをした異常なサイズだったが。それの他に、内線でスタッフに持って寄こさせたタバスコの大瓶や、細いプラスチックチューブ、マドラー様のもの・・・それに、デジカメと粘着テープ。瞬く間にずらりと並んだそれらを見て、これからリンがしようとしていることを何となく悟る。

 

 相変わらず飄々とした様子のリンだったが、視線を合わせたその目は笑っていない。彼なりに、僕を落ち着かせようと心を砕いてくれているのだろう。お陰で幾らか血の気が下がった僕は、連中の身元さえ押さえておけば、後日改めてエドワードに知れることなくお仕置きをすることも可能だから、この場では少し痛めつける程度にしておこうと考え直し、渋々ながら彼の提案に乗ることにした。

 

 「リン、付き合い18年目にして初めて君という人間の素晴らしさを思い知ったよ。」

 

 僕の言葉にリンは心底嬉しそうな顔を見せた。

 

「 それはドーモネ。」

 

 物心つく前から始終顔を合わせていたというのに、僕は今ほどリン・ヤオという人間が自分にとって近しい存在なのだと感じた時はなかった。その気持ちが自然に微笑みに取って代わり相手へと向けられれば、リンもまた同じように僕に笑みを向けてくる。

 

 そして―――――。

 

 その後、延々数時間に渡り、606号室は阿鼻叫喚の渦に包まれた。

 

 

 

 

 『一石二鳥の報復』をいざ始めてみれば、僕よりもむしろリンのほうが乗り気だった為に僕は殆どすることが無かった。連中が逃げ出さないようにと、ドア付近に移動させたソファに座り、タバスコを塗りたくった超特大バイブを肛門に挿入されて泣き叫ぶ男たちをデジカメで撮っているリンの楽しげな様子を眺めていたら、目を覚ましたらしいエドワードが掠れた声で僕の名を呼んだ。

 彼の声が初めて自分の名を紡ぐのを聞いた感動に背筋をゾクゾクさせながら、エドワードの身体が心配で飛びつくように駆け寄れば、彼は今しがた自分を暴行しようとしていた相手に同情の目を向けて僕とリンを止めようとする。

 

 なんという優しい心の持ち主なのだろうか、彼という人は――――!

 

 僕の胸は更なる感動で張り裂けそうになった。

 ひととおりの作業が完了して男共を解放した後、やはり例の発作を起こしたエドワードを胸に抱きしめながら、これで終わりにするつもりになりかけていた報復を後日秘密裏に完遂するべきかと改めて考える。

 これは益々こんな生温いお仕置きだけで済ませるわけには行かない。そう、例えばコカインを仕込んだジャケットを着せて飛行機でシン国に飛んで貰うのもいいかも知れない。あの国は麻薬法が世界一厳しい上に取り調べもぞんざいだから、簡単に300年くらいの懲役をポンと食らわせてくれることだろう。いや。それともいっそソノ筋の人間に依頼して、その肉体を困っている人の為に提供するという究極のボランティアをしてもらうのでも良い。いずれにせよ、この人をこんな目に合わせた人間にはこの世に生れてきた事を後悔するような目に合わせてやらなくてはならないと、僕は固く心に決めたのだった。

 

 

 その後まだ勤務時間を残していたリンからエドワードを家へ送り届ける役を託された僕は、移動したホテル内の事務所でエドワードが眠っている間に右腕に負った刃物傷の手当を済ませてしまうことにした。あの時錯乱状態にあったとはいえ、血のついたままの腕を晒していたらきっと彼は自分の所為だと気付いてしまうだろうから。ところが間の悪い事に、利き手ではない手でもたついている内に彼が目を覚ましてしまった。

 

 「お前・・・・・・ッ!?どっか切ったのか!?」

 

 たった今まで気を失っていた人とは思えない勢いで飛び起きると、何度も謝りながら部屋の隅のスチール製の物入れをあさってヨレヨレの電話帳を取り出し、『さっき電話で家の車を呼んでおいたから必要ない』と言う僕の言葉もまったく耳に入らない必死さでせわしなく頁をめくっている。タクシー会社の電話番号を探しているらしい。

 彼が眠っている間、乱れてしまっていたのを一度解き、丁寧に梳いて再び結わえてあげた彼の髪がはらりと肩から落ちて、白い項があらわになる。ドキリとすると同時に悪戯心も芽生えて、指先でちょいとつついてあげれば、まるで猫のような声をあげて飛び上がる様子がたまらなく可愛かった。

 首を押さえて上目遣いに恨めしそうな視線を送ってくる彼はいくらか打ち解けてくれているようだったから、やんわりと強引に車に乗せてしまうと、僕はこのまま一気に彼との距離を詰めるべく作戦を練った。彼の家に着いたら、そのまま無邪気な振りをして家に上がりこんでしまおうか。それともこのまま僕の家へと連れて行ってしまおうか。

 しかし予想外にも、彼の方から「少し家に寄って行かないか」と声をかけられる。むろんこれを辞退する理由など僕にあるはずがなかった。一も二もなくその誘いに乗り、彼の家に招き入れられてすっかり有頂天になっていた僕は、そのすぐ後に身を引き裂かれるような悲しい決別を迎えてしまう事になるとはまだ知らずにいたのだった。

 

 

 

 

 僕がこれまで感情を持たぬが故に何の抵抗も良心の呵責も覚えぬまま繰り返してきた、この身体を売るに等しい行為や相手の弱みにつけ込んで一方的に有利にすすめる取引・・・・・いわば恐喝のような行為等々。それらが今になって僕の行く手を遮った。性的な事柄一切を歪んだものとしてしかとらえることができない為、それらを自分の日常から完全に切り離す事で生きてきた彼。清廉であろうとするあまりに偏り、そして未成熟で純粋すぎた彼には、やはり、敵対派閥のグラマンを失脚させる為の証拠を得る交換条件として性行為を行ったという僕を受け入れる事が出来なかったのだ。

 

 一度は、自分に対して性的な意味を含めての好意を持つ僕を受け入れてくれる姿勢を見せた彼が、その一瞬後には再びその心を閉ざしてしまった。・・・・いや、それどころか、全身で僕を拒絶した。

 誰かを強く求める熱情。愛おしい、慈しんで大切に守りたい・・・という心。その人から与えられる全ての物に一喜一憂する苦しくも切なく甘い幸福感。そんな諸々の感情を生れて初めて彼から与えられた僕は、その同じ人から、絶望という名の感情を教えられた。

 次から次へと押し寄せては自分を翻弄する様々な感情の波に、僕の精神は崩壊寸前だった。執着しないだけ、憎悪という感情すら覚えた事のないこの僕が、この時は自分を頑なに拒絶した彼を壊してしまいたいとまで思ってしまった。強く望んでいたからこそ、その反動が大きかったのだ。

 

 僕がそう仕向けたとはいえ、まだ殆ど知りもしない相手を家族も誰もいない自分の家へと招き入れてしまう彼の無防備さを諌める為・・・・という言い訳を口にしながら、誰よりも愛すべき大切な存在を傷つけようとした。そこで彼が『発作』を起こさなければ、きっと僕は狂暴な衝動に支配されるまま彼を傷つけていたに違いなかった。

 

 誰よりも大切で、何よりも愛おしいと思える唯一の相手を・・・・。

 

 こんな僕に笑顔を向け、ぎこちないながらも優しさを示してくれた。誰もかれもを拒絶して受け入れずにいたのに、僕には頑なな心を開きかけてくれた。自分の中にある大きな障害を乗り越えようとしてくれた。

 そんな彼を、僕は更なる深淵へと追いやろうとしたのだ。

 

 僕の下で涙を流し、身体をこわばらせながら喘ぐように呼吸を繰り返す彼の姿を見て、悟った。

 こんな自分が、誰かを求める事など許されないのだ。ましてや、こんなにも穢れきった人間が、彼のように誰からも愛されるべき人を望む事など、端からあってはならないのだ・・・と。

 

 「ごめんね。これで分かったよ。僕は君にあげられるものを何も持たない。あるとすれば、それは苦しみだけだ」

 

 今更ながらこれ以上自分の情けない顔を見られたくなくて彼の両目を掌で覆い、震えてしまいそうな声でどうにか想いを伝えた。これだけは・・・・・・僕の行き先にあるのは、今までと同じく闇ばかりだけれど、どうかこの先にある彼の道が少しでも明るく温かいものであるように。

 

 「君は大丈夫だよ。いつかきっと心から愛し合える人に出会えば、今の苦しみも綺麗に解消されるから・・・・・だから、それまでどうか、こんなふうに誰かに傷つけられないように、ちゃんと自分で自分を守るんだよ?・・・・・・・さよなら、エド」

 

 決別の言葉を口にしながらも、その身体を抱き締めて全てを自分の物にしてしまいたいという猛烈な衝動に身を焼かれていた。少しでも触れてしまえば抑えが効かないことが分かっていたから、最後にシーツの上に散り乱れた彼の髪の先をひと房手に取り、思いの丈を込めて口づけた。

 感情を伴って流れる涙がこんなにも熱いものであったと初めて知る。

 

 彼の家を後にした僕の目に映る景色は、またしても以前と同じく色のない世界へと戻っていた。けれど、それを悲しいと思う感情すらもやがては薄れていくだろう。きっとこのまま痛みも何も感じない自分へと戻って行くだけだ。


 この先に横たわるだろう虚無ともいえる自分の行く手を漠然と思いながら、僕はこれまで何度も彼の様子をうかがう為に通った・・・・・おそらくもう二度と来る事はない道を駅へと辿った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





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