ある男の野望 8

 







 

 

 僕の生きてきた世界は、まるでモノクロだった。

 

 僕は、どんなに『美しいと言われている』ものを見ても美しいと心から感動する事がなかったし、人の優しさに触れてもそれに喜びを感じたり心を温かくしたりする事もなかった。

 喜び、悲しみ、怒り・・・・・・そんな人として本来あたりまえに持つべき感情全てがごっそりと抜け落ちたまま、僕は生きてきた。

 両親や姉はそんな僕を見ては、自分達が僕をこのような人間にしてしまったのだと勝手に自責の念に責め苛まれているようだったが、それはまったくの見当違いだ。この世に生まれついた時から染色体の悪戯によって身体のどこかが欠損している人がいるのと同じように、僕は単に、人間としてあるべき心の造りを持たずに生まれて来てしまった・・・・ただ、それだけのことなのだ。

 両親や姉、そして酔狂にもこんな僕と幼い頃から延々と付き合いを切らさずにいる唯一友人と呼べるリンも、僕のこの状態が決して生れついてのものではなく何か原因があってこうなっているのだと言い張って譲らない。きっと彼らは、先天性のものであればこの性質が修正不可能であると認めるざるをえなくなってしまうと恐れているのだろう。

 しかし残念な事に、これこそが僕という人間が持って生まれた性質なのだ。

 

 それでも幸い周囲には、僕を気にかけ逐一事細かに『人として抱くべき感情』や『本来生じる筈である心の機微』について教えてくれる人が複数いたから、理屈として人の持つべき感情のひととおりについては習得することができていたし、それらしい感情表現を取り繕う事も不自然なくできるようになっていた。

 悲しみに肩を落とす人を見れば気の毒そうな表情を作り、必要とあらば優しく慰めもする。まるでその感情を持っているかのように装いつつも、いつでも僕の心の中は何の動揺もなければ感慨もなく、空っぽだった。


 それにしても疑問に思うのは、こんな自分が何故人としてこの世に生を受けてしまったのかという事だ。

 あるべきはずの感情を何一つ持てない自分がこの世に生きている事に、一体どんな意味があるのだろうか。


 嬉しいというのは、どんな気持ちなのだろう。

 悲しいというのは、どんな気持ちなのだろう。

 分からないことが・・・・・・苦しかった。

 

 感情が無ければ意思など生まれる筈もなく、何の希望も持たずにただ目の前に積まれた課題を機械的にこなす日々が延々と続いていく。もし前世というものがあるのなら、そこであがないきれなかった罪を今生で清算しているのかと考えもした。

 

 

 

 僕の家は代々政治に関与する職に就く人間が多く、父にしてもこの国の現首相だ。

 僕は幼い頃から『遊ぶ』という行為に全く関心を示さなかったからほぼ全ての時間を『学ぶ』作業に費やして育った為、知識だけは異常に豊富だった。やがて父はそんな僕に私設秘書としての役職を与え、公私関係なく頻繁に連れ歩くようになった。恐らく彼は、様々な場所や人に触れることが僕の感情を呼び覚ますきっかけになればと考えたのだろう。しかし皮肉にも、それは本来の思惑とはまったく逆の結果をもたらした。

 周囲の人間達は、現首相の息子である僕が当然父と同じく政界に入りいずれそれなりの地位を手に入れることはほぼ間違いないだろうと踏み、こぞって僕に近付いて来ては取り入ろうと躍起になった。

 いくら優秀だとはいえ、所詮はまだ選挙権さえ持たない未成年だ。今の内に懐に入り込んでしまえば後々甘い汁が吸えるだろう・・・・と。人間の考えることは、まるで示し合わせたかのように皆同じだった。

 しかし、僕にはどんな甘言も御世辞も通用しなかった。当然だ。僕には感情が無いのだから、彼らが僕の虚栄心やプライドを満たそうと投げかけてくる言葉のどれもがことごとく無意味なのだ。

 何とかして自分の娘と僕を接近させたがる金融担当大臣や、滑稽なほど媚びへつらってはしつこく接触してくる国土交通省の政務官。最近新人議員だけで発足した党の若い党首などは、事あるごとにニポン国の将来のありかたについて熱く語り、額に脂汗を浮かべながら僕を洗脳しようとそれは必死だった。

 僕はそんな彼らの言動を隙なく観察して分析をし、彼らの思惑と弱点を見つけてはその情報をせっせと自分の頭の中に溜め込み、後々必要に応じてそれらを取引の材料に使った。父の知らぬところで不穏な企みがあるのを知れば、自分の中にある膨大なデータの中から使えるネタを取り出して、水面下でその人間を確実に潰した。その時一切手加減はしなかったし、手段も選ばなかった。法に触れない範囲であれば何でもしたし、たとえそれを犯す行為にあたったとしても露見する可能性が無いと判断すれば何ら躊躇せずに手を下した。感情を理解しない僕は、倫理や道徳といった観念もほぼ持たないに等しかったのだ。

 やがてそんな僕の行動を知った両親や姉は僕を諌めたが、まるで何かの中毒症患者のように僕はその行動を繰り返した。とにかくその時の僕は、自分でもそれを止めることすら出来なくなっていた。

 後になってその頃の自分を振り返れば、それは人の感情というものをどうやったら自分の中に芽生えさせることができるのだろうか・・・・と、自分なりに必死に手探りで追い求めていた故の行動だったのだと理解出来るのだが、その時の僕はまだ闇のさなかにいて、僅かな光明の片鱗すら見つけられずにただ虚しく足掻くのみだったのだ。

 

 とにかく、そうして僕が17年という年歳月を費やしてようやっと学び得た唯一の感情は、『虚しさ』だった。

 

 

 やがて諦観の境地ともいえる域に至り、ただでさえ人とは違う僕の精神が更に尋常ならざるものへと形を変えていくと思われた頃、何の前触れもなく『その時』はやってきた。

 

 

 その日の事は、よく覚えている。

 この時期としては観測史上稀に見る記録的な寒さだと朝からテレビやラジオで繰り返し言っていたその日は、『成人の日』だった。

 僕はその日またしても裏取引を交わしていて、その代価を払う為にある女と会う約束をしていた。高校が休みの日でもこなさなくてはならない仕事があった為、昼間は父の執務室の隣にある秘書官室で書類を整理して過ごし、夕方になって出掛ける頃には外気はまるで氷のように冷たくなっていた。

 出掛ける際の足に大抵使っている運転手付きの車から目的地の近くで降り、待ち合わせの場所まで路面の所々を薄く覆う氷を踏みしめながら歩く僕の胸の内は、相変わらず実に暗澹としたものだった。

 

 その日の『仕事』は、毎度の如く現政権を覆そうと企む人物を陥れる為の工作に使う材料を受け取りながら、その代料を支払う事。――――――――受け取る物は、現首相である父と同一の党に所属しながらも敵対する派閥の盟主である議員が、明らかに『児童』と見受けられる少年を度々自宅の離れに呼び寄せて淫行に耽る様子を写した画像のデータだ。そしてその代価は、その家の家政婦という立場にありながらその証拠を持ち出してきた女を抱く事だった。

 その女は引き渡しの日を殊更『成人の日』にする事に固執していたから、僕としても取引がし易かった。

 取引の際には、自分の欲しい札を相手においそれと悟らせるものではない。これは鉄則以前のあまりにも当たり前の事であり、この事が逆に女の尋常ならざる入れ込みようを窺わせた。・・・そう。その女は、できるだけ綺麗に自分を飾った状態で僕に抱かれたかったのだ。しかし当然のことながら、それに僕が特別な感情を持つことはなかった。例え身持ちの固い女性が僕に想いを寄せた挙句その操を差し出そうとも、それが僕の中で何かしらの重さや意味を生じさせることは決してない。如何にこれまで他者の心の機微や情動についてのパターンを覚え込んでいたところで、基本的な感情すら根幹から理解出来ていない僕に、誰かを恋焦がれるなどといった非合理的な心情など理解できよう筈もないのだ。しかしながら身体的には至って健康である以上、当然のことながら雄としての本能に基づく欲望はしっかりとあって、しかもその肉体的な欲求は本来であれば精神の影響を多少なりとも受けるものであるのに、僕の内にあるそれは感情から綺麗に切り離された状態で存在していた。つまり、例えどんな状況であろうがどんな相手であろうが、自分さえその気になりさえすればその対象を抱くことなど、精神的な枷を持たない僕にとっては容易いことだった。罪悪感や後ろめたさなどといった感情を理解する為の回路が、僕の脳内には存在しないのだから。

 

 

 

 数日前に薄暗い路地裏で『商談』を交わした時とは打って変わり、細部にまで念の入った化粧に美しく結い上げた髪。恐らく袖を通して外に出るのは今日が初めてに違いない真新しい振袖。この日の為に精一杯の装いをしたのであろうその女を伴い僕が真っ直ぐに足を向けたのは、繁華街の片隅にある所謂『ラブホテル街』と言われるエリアだ。これまでの経験から判断するに、恐らくこの女もまずは食事や酒を楽しんでから・・・と望んでいたに違いない。いかにもな外装のホテルの建物のドアをくぐった時に、横目に見た顔がそう言っていた。しかし、交換条件の項目にない事をわざわざしてやる義理もない。僕は適当な部屋を選び、仕草だけは思いやりに満ちた様子でその女を『取引の場』へとエスコートした。

 

 部屋に着き、取引をする段になってから女が往生際悪く渋るものだから、その女のせがむまま適当に甘い言葉を返して目的の物をようやく受け取り、当初の約束どおりに女を抱いた。行為の最中、自慰の方が余程マシな高揚を得られるとは思ったが、約束は果たさねばならない。どうにかやり果せた後、図々しくも今後の約束を取り付けようと擦りよってくる女に辟易した僕は、一刻も早くこの女に着物を着せてこの不快な状況から解放されようとフロントに着付け師を依頼した。

 そうして行為の名残が漂う陰鬱な部屋へとやってきたその着付け師こそが、僕の全ての感情を呼び覚ます為の鍵を持つ唯一の人だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 一番初めに目についたのは、薄暗いダウンライトの光さえ強く弾くほどに艶やかな金の髪だった。長く伸ばした髪を耳の後ろで無造作に束ね、これまた全く飾り気のない黒いパンツを履いたその腰の細さに目を奪われる。その人物が女性だとばかり思っていたから、シャワーを終え戻ってきた連れにかける声が予想に反してずっと低かった事に違和感を覚えて目を上げ、そこで初めて彼の顔を見た。

 

 その時の気持ちをどう表現したらいいのか、僕は未だ分からない。

 音でもなく、感触でもなく、かといって目に見えるものでもない。しかし、母親の胎内から外界へと生み出された瞬間の記憶というものがもし存在するならば、それはきっとこんな感覚なのではないだろうか・・・と感じた。

 自分を包み込んでいた全ての膜が取り払われ、自分自身の皮膚で直に空気に触れる感覚。それまでは雑音でしかなかった音がいちいち感情を刺激して、ただの情報でしかなかった言葉は彼の唇からこぼれ出すたびに脳髄を甘く震わせた。

 僕は一瞬にして、それまで決して抜け出ることの出来なかったモノクロの世界に別れを告げることになったのだ。

 

 今まで自分を取り囲んでいた世界は、こんなにも色彩に満ち溢れていたのか・・・・・!彼の存在ひとつそこにあるだけで、全ての物が『ただの物』ではなく何かしらの意味を持ち、その輪郭をくっきりと浮かび上がらせ、鮮やかな色彩を放ち、僕の感覚を否応なく刺激する。その中にあって、彼はとりわけ鮮やかに輝いていた。ひとたび目を向けてしまえば逸らす事などとても出来なかった。

 そして此方を見向きもしない彼とどうにかして目を合わせたいと思った僕は、目線を上げる事なく熱心に帯をたたむ華奢な白いコットンシャツの彼に声をかけた。

 生れて初めて『緊張する』という感覚を知ったばかりの僕だから、挙動が怪しくならないように平静を装うのが精いっぱいで、実はこの時彼にどんな言葉をかけたのか、ハッキリとは覚えていない。しかし僕の言葉に顔を上げた彼と目を合わせた途端、僕は全身で理解した。

 

 これが『恋』なのか―――――――と。

 

 流れるような淀みない動きで布や紐を操り形作るようすは、まるで魔法のようだった。彼が動く度に背中でサラサラと音もなく揺れる金の髪に一々胸を高鳴らせ、その指先がきびきびと動き、ひとつの動作を終える度に込みあげる溜め息を噛み殺し、姿勢の良い凛々しい後ろ姿の細腰に腕を伸ばしてしまいそうになる衝動に耐えた。

 

 彼は一体なんなのだ?まだまともに言葉すら交わしていないというのに、彼という存在に僕の感覚全てが否応なく引き寄せられてしまい、抗う術など無い。蜘蛛の糸にかかった獲物のように捕らわれ、ただ翻弄されるだけの頼りない身でありながら、僕の胸の内は溶融炉よりも熱かった。そこでは、決して熔けることはないと思っていた僕の感情をせき止めていた扉が、熔かされている。

 

 何かを欲しいと思う。
 捕らわれたように惹きつけられる。
 『自分』という存在を彼に認めて欲しい。

 見つめ合いたい。

 その人の全てを、余すことなくこの腕の中におさめてしまいたい。


 そして。

 

 自分の力で、その人の内から微笑みを引き出してあげたい。あたためてあげたい。慈しみたい。

 

 

 初めて体感するそれら諸々の感情を、僕の優秀であるはずの頭脳はまったく処理することができなかった。暴走する感情を抑えられぬまま、これまで教え込まれていた『人間の心の機微』のついてのデータからあれこれ照らし合わせつつ、どうにか彼の関心を引く事は出来ないか・・・・と必死になった。

 しかし僕が必死になればなるほど彼に警戒心をいだかせてしまったようで、努力の甲斐もなくあっさりと逃げられてしまった。

 

 後ろでは、一度関係を持っただけで勝手に恋人気取りになっている馬鹿な女が金切り声をあげていたが、僕はそれを適当にいなしつつ呼んだタクシーにその女を押し込むとすぐさま取って返し、無人のフロント脇にある呼出しボタンを押した。

 

 「ハイ〜お待たせいたしま・・・・・・・・・って!アルフォンス!こんなトコで何やってんノ!?またロクでもない取り引きをしてるノカ?もうヤメロってあんだけ言ってるのに・・・・!」

 

 出てきたホテルのスタッフは、何という偶然か僕の幼馴染みである、ニポン国に駐在しているシン国大使の長男リン・ヤオだった。

 

 リンは両親や姉と同じように、いつでも僕の『ロクでもない』行いにいちいち反応しては煩く忠告してくるのだが、今もまたこんな場所だというのにただでさえ吊りあがり気味の目尻を更に吊り上げて小言を言い始めた。

 ところが僕はそれどころではなかった。リンの言葉を全く無視してその胸元を掴み上げると一方的に問い質した。

 

 「リン!ここで働いてる着付け師の子、何ていう名前なの!?今日は何時までここに居る!?」

 

 「は!?ア・・・・アルフォンス・・・・・?一体どうしたンダ?」

 

 リンはまるであっけに取られたように呆然と僕の顔を見ている。それもそうだ。僕がこんなに慌てたことは生まれて初めてで、自分でも驚いているのだから。

 いつもであれば冷静に事の経緯を説明するところだが、この時の僕にはそんな余裕はこれっぽっちもなかった。掴みあげたリンの襟をガクガクと揺さぶりながら質問を繰り返した。

 

 「あの背の小さい、綺麗な長い金髪の子だよ!同じ職場に居るんだから知ってるだろう?その子を僕に紹介して欲しいんだよ、リン!」

 

 「チョ・・・・待て。落ち着けヨ、アルフォンス。まるでお前じゃないみたいダゾ?どういうコトなのか説明シロよ」

 

 中々欲しい答えをくれないリンにじれた僕は、出来るだけ簡潔にハッキリと説明した。

 

 「さっきあの子に会って一目惚れした。僕はあの子と一生を添い遂げたい。だから一刻も早くあの子に会ってプロポーズをしたいんだ。だからあの子の名前と居場所をすぐに教えろ!!」

 

 「えええええええええええええ〜〜〜〜〜〜〜〜っ!?マ・・・ッ待て、待て、待て!!いきなり初対面でプロポーズなんて・・・・いや、大体坊チャンは綺麗だけど男だし!」

 

 「男だってのはもう知ってる!リンはあの子を『坊ちゃん』って呼んでるの?名前はッ!?」

 

 「エドワードだよ。ここのオーナーの息子なンダ・・・・いや、だからアルフォンス!坊チャンはちょっと訳アリで・・・・」

 

 「お願いだ・・・・・リン」

 

 どうやら何か特別な事情があるらしく、彼に接触させたくない素振りを見せたリンに、僕は自然に頭を下げた。途端にこの友人が絶句し息を飲む音が聞こえる。自分でもこんなことをしてしまう自分自身に驚いていたが、とにかく今はそんな瑣末な事柄に構っている暇はない。僕は畳み掛けるように続けて言いながらリンに取り縋った。

 

 「彼は・・・・特別なんだ。逢ってすぐにそれが分かったんだよ!大事にする。彼を傷つけたりなんて誓ってしない。だから、僕があの子に近づけるよう、きっかけをくれ・・・・頼む・・・・!」

 

 「アルフォンス・・・・・」

 

 間近には、何故か僅かに涙ぐんでいるリンの表情があった。彼は黙ったまま僕を見据え、暫し考え込んでいたようだった。しかしやがてスンと鼻を啜ると、カウンターの内側にある操作盤らしき端末のキーを叩いてから、『801』と告げた。その言葉にすぐ脇の壁にある部屋の番号と写真が並ぶパネルを見れば、『801』の部屋の表示のライトが落とされていた。

 

 「坊チャンはまだ仕事中で、仕事が終わルのは朝ダ。その頃にはきっと家に帰るスタミナも残ってない筈だカラ、僕がこの部屋で坊チャンが仮眠するように仕向けル。・・・・但し!!」

 

 細い目を見開いたリンは、今度は逆に僕の襟元を掴みあげて念を押した。

 

 「坊チャンに性的な接触をスルのは断じて許さないヨ!?坊チャンはそういった事一切に激しい拒絶反応を起こす・・・・お前だって坊チャンに発作を起こサセて苦しませたくないダロ?イイカ?絶対、坊チャンに手は出すナ!!怖がらせるナ!お前がそんなヤツではないって信じてるケド、万が一のことがあれば、ボクはお前を一生許さナイ。いいか?シッカリと肝に銘ジロ!」

 

 リンの口から思いがけず飛び出した『発作』という単語に戸惑いを覚えながら、それについて深く掘り下げて考える余裕を持たない僕だったが、その表情で、この友人がどれだけ彼を大事に思っているのか・・・・・そして、この男にそんな風に思われるだけの価値がエドワードにはあるのだという事を知る。僕は自分の襟元を掴んでいるリンの手をぎゅっと握り、神妙に頷いた。

 

 「約束する。僕は彼を大切にする。本当だ・・・・・・リン、ありがとう。恩に着る!」

 

 その僕の言葉にまたしても涙を滲ませるリンの腕を軽く叩くと、急ぎ足でホテルから飛び出した。一度自宅に戻り、明日こなす予定の仕事を全て片付けておこうと考えたからだ。平日だから学校は平常どおりにあるが、そんなものはどうでもいい。とにかく、リンが僕の為に作ってくれたこの機会をどれだけ有効に使えるかどうかに僕の命運がかかっているのだ。

 

 押さえきれない胸の高鳴りを抱えながら、今までになく高揚した気分で僕は夜の街を足早に歩いた。

 

 

 

 

 静まり返った公邸の自分用にあてがわれた部屋へ戻ると、持ち込んであった明日の仕事の書類を処理しながら、今日生まれて初めて心で体感した様々な刺激を思い出し、それらを頭の中でじっくりと反芻する。

 

 彼を見た瞬間、声を聞いた瞬間、あの金色の瞳と視線を交わした瞬間・・・・・・・。心臓の位置がハッキリと認識できる、そんな不思議な感覚を味わいながらも、心を満たすのは得も言われぬ幸福感だった。

 

 暗闇でしかなかった僕の人生という名の道は、彼という光に照らされるだけで幸福に満ち溢れた素晴らしいものへと一瞬にして塗り替えられてしまった。

 

 僕は初めて、自分をこの世に生み出してくれた両親に感謝した。

 

 昨日までの僕ならば絶対に思いもしなかったであろう筈の言葉が、今はこの胸の内を満たしている。

 

 僕はもう気付いた。この身の内にはしっかりと人並みの感情が存在していたのだという事に。ただ僕は、何故かその扉を開くための鍵だけを置き去りにしたままこの世に生れてきてしまっただけだったのだ・・・・と。

 例えば、エドワードという人の存在は、僕にとってドミノ倒しの最初の地点に置かれる牌と同じだ。彼と出逢う事で、僕の感情をせき止めていた全ての扉の鍵が開かれたのだ。僕という人間は、彼と共にあることでしか 自我を目覚めさせられないのだと、恐らく生まれる前から決められていた。

 もし前世というものが存在するならば、僕と彼は一人の人間か、でなければ血肉を分け合い固い絆で結ばれた者同士であったに違いない。

 ―――――――――もう僕は、彼なしにはこの先の人生を歩むことなどできない。そう確信していた。

 

 エドワードの小柄ながら均整のとれたすらりとした美しい姿や男性にしては少し高めの擦れた甘く魅力的な声を思い出すたび、僕とした事が書類の文字を拾っていた筈の思考を停止させてしまうから、全てを片付けるまでに思いの外時間を費やしてしまった。結局、身支度を整え部屋を出る頃には、家族揃ってとる決まりである朝食の時間をとっくに過ぎていた。

 

 

 

 

 「おや珍しい。今頃起きてきたのかアルフォンス。皆はもう殆ど済んでしまったよ」

 

 愛読している経済雑誌を片手にコーヒーを飲んでいた父は、いつもであれば必ず食事が始まる前にテーブルに着いているはずの僕の姿を認めると、さも驚いた様子で目を丸くした。その隣で食後のフルーツをつついていた母は、僕が体調を崩したと思っているのか心配そうに気分はどうかと聞いてくる。間もなく家を出る時間である筈の姉はコーヒーを飲干しながら、やはり此方の様子を窺うように目線を送ってきた。

 

 「おはようございます。遅くなりました。身体は大丈夫です、心配しないで。」

 

 テーブルのいつもの席に座ると、すぐに家政婦が温めなおした朝食のトレイを持ってやってくる。それに礼を言い、家政婦がダイニングを出て扉を閉めるのを見届けた後、僕はなんの前置きもなく言った。

 

 「実は昨日、好きな人が出来ました。自分の伴侶は、彼以外には考えられない。ですからもしこの先縁談が来ても、全てお断りして下さい」

 

 父の手から離れたカップがまだ残っていたコーヒーをテーブルクロスに染み込ませながらコロコロと転がり、今しも母の口に入るところだった桃がボタリとテーブルに落ちた。姉だけは何も取り落とさなかったが、いつものポーカーフェイスはどこへやら、あんぐりと口を開けたまま言葉を失っているようだった。

 そのまま数秒待ってみたが、家族の誰からもリアクションが得られない為、僕はそのまま朝食に手をつけた。

 

 「ま・・・・・・・っままままままま待ちなさいアルフォンス!すっ、好きな人だって?お前にか!?しかも昨日?それでいきなり伴侶だと?そして、かっ、かっ、かっ、彼と言ったのか?」

 

 一国の首相でありながら動揺すると昔の癖である吃音が出てしまう父に、僕は冷ややかな目を向けた。

 

 「父さん、度々言っているでしょう。言葉を発する前には必ずゆっくりと呼吸をしてから落ちついて第一声を・・・・と。ニポン国の首相ともあろうものが、あまりにも威厳が無さ過ぎです。」

 

 両手をバタバタさせて今度は母のコーヒーカップを転がしてしまうほど取り乱している父よりも、幾分か母は落ちついていた。

 

 「アルフォンス。その肝心な相手の方にはあなたの気持ちを伝えてあるの?」

 

 「今日これから伝えるつもりです」

 

 自分の中にある決意をそのまま口にする僕に、母がそれ以上何かを言うことはなかったが、今度はそれまで黙っていた姉がぽつりと言った。

 

 「そうか・・・・・お前の中にようやっと『野望』が生まれたのだな」

 

 『希望』ではなく、『野望』

 

 幸せの何たるかさえ理解しない僕にとって『希望』とは、常人にとっての『野望』に等しい・・・・・そういう意味なのだろう。

 時間が来たのか、そのまま席を立ち部屋を出て行こうとする姉が一度扉の前で立ち止まり、僕を振り返る。

 

 僕ほどではないが殆ど見せたことのない笑みを向けてくる彼女に、僕もまた心からの笑みを浮かべて見せた。

 

 「ええ。自分の全てをかけて、彼をこの世の誰よりも幸せにするのです。こんなに大きな『野望』もありません。」

 

 そう言う僕の視界の隅では、今度はティーポットが転がり、黒檀製の重厚な椅子が倒れて耳を覆いたくなるような騒音を響かせた。

 

 「みみみみみみみみ見たかお前ッ!?あの『手段』としてしか笑顔を見せなかったアルフォンスがッ・・・・わ・・・わ・・笑ったぞ!?何て事だ!せっ、せせせせせせせせ赤飯を炊けぇ――――――ッ!!」

 

 「ええあなたっ!今夜はお祝いですわねっ!」

 

 常日頃から感情表現が派手な両親だが、今日は格別だった。狂喜乱舞とは、まさしくこのありさまを表す言葉だろう。

朝食を口に運びながら文字通り躍りあがって喜ぶ両親の姿を眺めていると、胸に温かいものが湧き上がるのを感じる。何故かは分からないが、僕はすんなりとそれが今まで散々教え諭されてきた『喜び』という感情なのだと知る。

 

 常識や倫理の枠を踏み越える事に躊躇いのない僕でも、世の常識と照らし合わせて、自分の両親が自分のこの宣言を肯定する事はまずないと考えていた。けれど彼らは単純に、僕が人間らしい感情を目覚めさせたことだけを心底喜んでくれているのだ。世間体や名誉、損得など一切抜きで、ただひたすら僕の幸せだけを。だからその言葉は、無意識と言って良いほど自然に僕の口から零れ出た。

 

 「お父さん、お母さん。あなた方が僕を産んで下さったことに、心から感謝します。どうもありがとうございます。」

 

 するとまたしても父と母はまるで蝋人形のように動きを止めるから、ついそれに興味深く見入ってしまったのだが・・・・。

 その直後、本能的に危険を察知して身を翻した僕のすぐ脇のカーペットの上で、体当たりをしかけてきた両親が折り重なるようにして倒れていた。

 

 「急に何をするんです?危ないじゃないですか」

 

 丁度終えた食事の皿を脇にずらしつつ冷めかけた紅茶のカップを手にする僕を、両親は恨めしげに見上げてきた。

 

 「何故そこで避けるのだ!?ここは親子三人で熱い抱擁を交わす、実に感動的な涙を誘うクライマックスシーンを展開するところではないか!?」

 

 「ええ、その通りよアルフォンス!いい?もう一度私たちがここで踏み切るところから始めるから、あなたはしっかりダイブする両親を受け止めるのよッ!」

 

 これまでそうしてきたように『人としてとるべき対応』を熱く語る両親の相手をする時間はとてもなかったから、僕は彼らを適当にいなしてその場を離れることにした。

 

 「・・・・・・・・コントの練習でしたら、どうぞお二人だけでなさって下さい。僕はもう出なければならない時間ですので。」

 

 足早に廊下を歩く僕の気持ちは、ただひたすらにエドワードその人だけに向かっていた。

 


 さあ。愛しい人のもとへ、これから自分は向かうのだ。


 ネクタイを締める手が、僅かに震えた。

 

 

 

 



 

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