ある男の野望 10

 

 

 

 







 エドワードという存在を失ってから、僕の素行は荒れた。
 といっても、通常の『作業』をこなす場面では至って普通だ。大学へ行き、それが終わると私設秘書としての業務をこなし、時には父について様々な会合に顔を出し、教え込まれた柔和な笑顔で腹に一物も二物も抱える油断のならない魑魅魍魎相手に駆け引きをする。
 しかし、これまで続けていた諜報行為の真似ごとのようなものを行う時だけは、自分でも明確な理由を見いだせないまま相手を手酷く痛めつける方法ばかりを選ぶ様になった。
 間接的に、直接的に、僕の手により失脚して表舞台から永遠に姿を消した者。築き上げた莫大な財産を失った者、あるいは家族という絆を失った者。そんな人間が次から次へと数を増やし、今では切れない程だ。
 かつては他者を欺き踏み台にして栄華を極め、甘い汁を独り占めしていたその代償といえば聞こえは良いが、僕は必要以上に重い代価を彼らに支払わせた。当然恨みを買う事も多く、父がその尻拭いに四苦八苦しているのを知っていたけれど、それに対して持つべき罪の意識を微塵も感じることができない自分の心が憎かった。
 エドワードと出逢う前の僕ならば、こんな苦しみに苛まれることもなかった。今の僕は、罪悪感というものすら理解できずにいたあの頃とはもう違うのだ。
 その痛みを一度は理解して知っているのに、何故今の自分はその痛みを感じられなくなってしまったのだろうか。 苦しい。痛みを感じられないことが、苦しかった。
 エドワードと出逢わずにいれば、こんなどうする事も出来ない苦しみに身を焼くこともなかったろうに・・・。でも。
 僕がエドワードと出逢わなければ良かったと思うことは、一度としてなかった。
 あの日からいつでも彼は僕の胸の中にいた。時折、大切にしまい込んでいた宝物をそっと取り出すように思い出す彼の笑顔の記憶が、この凍った心をほんのつかの間ではあったけれど優しくあたためた。ただそれだけが、僕の幸せだった。拠り所だった。






「お前ナァ、アルフォンス。その内誰かに消されるゾ?自暴自棄になるノモその辺で止めておくンだな。痛々しクテ見てられないヨ」

 数年前突然ぶらりと日本を出て世界のあちこちを回っていた幼馴染が、僕が一人で暮らす部屋へと突然朝一番で訪ねてきた。相変わらずマイペースな友人だ。
 彼は武者修行と称する旅の間にも度々僕に連絡を寄こしていたのだが、やはり直接顔を合わせるとその口から出てくるのは聞きあきた説教ばかりだった。
 上手に笑顔を張り付けて神妙に頷いて見せた僕の内心など、彼には当然のごとくお見通しで、リン・ヤオは眉間の皺を深くして重苦しいため息をついた。
 僕の為に苦労をかけている父にも、そしてやはり僕を心配して胸を傷めている目の前の友人にも、何の感慨も湧きださない自分の心に失望した。それでも僕は、笑顔で「ごめんね。ありがとう、リン」と機械的に感謝の言葉を口にした。

「――――――――!」

「・・・・・・・リン?どうした?」

 いつもは笑っているように見える細い目を見開いた友人を不審に思い問えば、彼は突然僕の胸倉を掴みあげて揺さぶった。

「ちょ・・・・何するんだ。どうしたんだ・・・」

「ナンデッ・・・・そんなロボットみたいな表情しやがって・・・・・畜生・・・・バカヤロウ!お前、お前ッ!自分が今、涙流してるって事にも気付いてないんダゾ!?」

「え・・・・・・・・・」

 言われて頬に手をやれば、覚えのない水滴が指を濡らした。


 哀しいなんて気持ちはどこにもないのに、どうしてこんなものが出ているのか分からない。

「なんだろう・・・?あ、ごめんよ、リン。驚かせてしまったね」

 この意味不明の分泌物によって目の前の友人が精神的にダメージを受けてしまったようなので、とりあえず申し訳なさそうな笑顔を作って詫びてみると、彼はなお頬を紅潮させて大声をあげた。

「ナンデッ!そんなぶっ壊れチマってンだよアル!?ドウシテ坊ちゃんからあっさり手を引いたンだ!?お前なら、お前にだっタラ坊ちゃんを任せられルト思ったから、ボクはお前が坊ちゃんニ近づく事を許したンだぞ!?」

「うん。ごめん。これは、本当に君には申し訳ない事をしたと思っ・・・」

「黙レッ!!」

 容赦ないリンの平手打ちは僕の予測の範疇にはなく、まともに受けてしまった為に口の中が切れた。
 血の味が気持ち悪いと思いながら、とりあえず興奮してソファから立ち上がった友人の肩に手をかけたものの、一体どんな言葉を選べば彼を宥めることができるのか、僕にはまったく分からなかった。けれど、目の前にいる友人が、どれだけ僕とそしてエドワードの事を大切に思い心配してくれているのかは知っていた。だから、取り繕う訳ではなく心に浮かんだ言葉をそのまま口にした。そうすることがきっと、今の自分でも理解できない自身の状態を彼に伝えられるのではと考えたのだ。

「・・・・・・ごめん、リン。怒らないでくれ。僕はどうして君がそんなに悲しそうな顔をして怒ってるのか、分からないんだ。分からなくて・・・・ゴメン」

「アル・・・・・・ッ」

 僕の思惑がどう転んだのかは分からないが、リンは僕の言葉にまた表情を変え、今度はぐしゃぐしゃに顔を歪めて涙を流し始めた。僕は困惑した。
 いったいどうしたら、この友人をいつもの状態に戻してやれるのだろうか。

「あ、リン。お腹空いてるんじゃない?いつものトコでケータリング頼もうか。君が好きなフカヒレの姿煮が美味しいトコ。それとも松花堂弁当食べたいってずっと前に言ってたから、それにする?」

 食欲魔人の異名を持つ友人の機嫌を手っ取り早く取る為にそんな提案をすれば、彼はゴシゴシと顔を拭って立ち上がるとさっさと玄関へと歩いて行ってしまった。

「リン?もう帰るのか?久しぶりなんだから少しはゆっくり・・・」

「アル、お前今日の予定ハ?夕方とかここに居るカ?」

 引きとめようと後を追えば、相変わらずの薄汚れたバッシュに足を突っ込みながら背中ごしに寄こされる問いに、反射的に頷いた。

「また夕方来る?今日は予定もないし、これから午前中の講義に一コマ出たら真っすぐ帰ってくるよ」

「ン、じゃ、また後でナ」

 慌ただしく閉ったドアに目をやりながら、壁にもたれた僕の口から無意識にため息がこぼれた。

 ――――消耗する。
 人と心を通わせるやり取りは、今の僕には分からない事ばかりで、それが自分にとって大切な相手であればあるほど、きっとその相手を悲しませたり傷つけたりしてしまうのだ。それなのに、その相手が受けた痛みがどんなものであるのか、またはどれだけの苦しみを伴うものなのか・・・・・自分は理解できない。それが辛い。堪らなく。

「・・・・あぁ・・・早く、誰にも迷惑をかけることなく、この命が消えてなくなってしまえばいいのに・・・・・・」

 これは、以前の自分ならば考えもしなかった事だ。
 ただ機械のように日々を送り、あの様々な色彩に帯びた感情がくれる痛みとそして喜びを知らなかった頃の自分ならば。

「エド・・・・・・・」

 あの笑顔を思い出し、自分がここでこうしている間にもどこかできっと幸せを見つけて彼らしく輝いて生きていてくれるだろう事を思い浮かべ、願い、そうしてようやっとざわついた心を落ち着かせる。
 ふと時計を見ればもう部屋を出なければならない時間で、急いで教科書や書きかけのルーズリーフの束をまとめて出かける支度をした。
 麻のジャケットを掴んでから、忘れそうになっていた携帯電話を拾いあげる。
 かなり流行遅れの、厚みのある携帯電話。自分でも似合わないと思うパールの入ったサーモンピンクのボディをそっと指先で撫でた。
 これはエドワードと出逢ってすぐ後、彼専用にしようと慌てて買ったものだった。とにかく急いでいたから機種や色なんてどうでも良くて、ただ「一番早く手に入るものを」と店員に言ったらこれを出されたのだ。こんなものを買ったところで、彼にナンバーを教える事ができるのかも、また教える事が出来たとしても彼が連絡をくれる可能性さえあるかどうかも分からなかったのに。
 このナンバーを教えたのはエドワードと、彼と直接繋がりのあるリンだけだ。でもリンはいつも、僕がもうひとつ持つプライベート用の携帯にしかかけてはこない。だから、これまでこの携帯が鳴ったのは間違い電話の時だけだ。
 おそらく・・・・・・いや、ほぼ確実に、エドワードからの着信が入ることはないだろう。でも、僕はこれを後生大事に肌身離さず持ち続けていた。ただこれだけが、僕に残された、僕と彼とを繋ぐものだったから。
 鳴らなくてもいい。不意に鳴る事があっても、今ではもうそれが間違い電話だと分かりきっているから、なんらこの胸が騒ぐこともない。けれど・・・・それでも。
 僕が彼と出逢い、そしてかけがえのないあまりにも多くのものを与えて貰えたあの僥倖が夢ではなかったのだと覚えていられる様に、これからも僕はこの自分に似つかわしくないデザインの携帯電話を手放すことはないだろう。


 ・・・・・・そして、その日の夕方、その携帯電話がリビングのガラステーブルの上で着信音を響かせた。





 持ちかえった課題のレポートに取りかかっていた僕は、あまりにもしつこく鳴り続ける音に仕方なく通話ボタンを押した。
 どうせいつもの間違い電話なのに、何故自分は律義にも応えてしまうのだろうと思いながら、案の定無言の相手にそっけなく言った。

「もしもし?どなたです?御用がないのでしたら切らせてもらいますが」

 相手からの声がないから、そのまま通話を終えようとした時だ。

『ア・・ッ!アル・・・・・・』

 少し掠れた、男性にしてはやや高めのトーンが聞こえた途端、心臓を鷲掴みにされるような痛みを覚えた。そしてこれまでどんよりと僕の周囲を覆っていた膜が魔法のように消え去り、暗色だけで形作られていた世界が一瞬にして色鮮やかなものへと変化した。

 まさか・・・・・・まさか・・・・・・・まさか・・・・・!!!

 しかし、自分が彼の声を聞き間違える筈がない。
 それに、彼と出逢った瞬間から周囲の全てがモノクロから鮮やかな色彩を持ったものに変貌するこの現象を、僕が 忘れることはあり得ない。
 違えようもない。この声の主は、僕が愛し求めてやまないエドワードのものだった。

「・・・・・・・・・エド・・・・・?」

 情けなくも、ようやっと怖々彼の名を問う事しかできない僕に、彼の変らぬ声が少し遠慮がちに応えてくる。心臓が膨れ上がって、その勢いで肋骨を突き破って飛び出してしまいそうだ。死んでしまったらどうしようとうろたえる。
 つい今まで、自分など早く消えてなくなってしまえばいいと思っていたのに、この変わり身の早さはどうだ。

 彼が自分の意思ではなく、リンに言われて電話をしてくれた事など、僕にとってはどうでも良い。ただ、彼の声を聞けた。
 それだけで、いじましくも僕は人としての感情を取り戻し、どうやってもできなかった心からの笑みを浮かべる事が出来た。
 でも、決して忘れてはならない戒めが、この胸には存在していた。

 僕が彼にかかわるのは今この時だけで、彼から電話を貰うのはこれが最初で最後だと自分に言い聞かせた。これ以上踏み込んで、また三年前のあの日のように、彼を傷つけてしまったあの同じ過ちを犯すことは何としてでも避けねばならない。

 ともすれば『会いたい』と口をついて出てしまいそうになるのを堪えていると、エドワードが言った。口先だけではなく、心底僕を心配していると分かる声で。

『アル・・・・リンから聞いた。あんまり無茶やるな。リンが心配してるぜ?お前にはお前なりの信念があってのことだろうけど、でも、俺もお前が心配なんだよ。だから・・・・』

 ―――――信念。

 感情も欲求も持たない機械のような人間が、そんな大それたものを持つ訳がないのに。

「・・・・・・・・信念・・・・・・・そんなご大層なもの、これまで一度だって持ったことなんてないよ、エド。僕はただ、機械のようにOSとデータを詰め込まれてその通りに動いていただけだ。僕がしている事に、僕自身の意思が反映されていたことなんてないんだ・・・・情けないだろ・・?」

 こんな僕に人並みの心があると思って貰えた事が嬉しく、また同時にそんなあたりまえな物すら持たない自分が無意味に費やしてきた年月の薄っぺらさを思うとあまりにも自分が滑稽に感じられ、思わず笑い声だか嗚咽だか分からない音が喉からこぼれ出た。そしてきっとエドワードの声を聞くのもこれが最後なのだと思い、それならばせめて彼に感謝の気持ちだけでも伝えておきたいと言葉を紡いだ。

「僕は昔からこうだ。自分の意思がどこにあるのかすら分からないまま生きてる・・・・・こんなの、生きてるって言えるのかな。でも、あの日・・・エドに会った日、今まで一度も感じた事がない気持ちになったよ。僕はね・・・・・・・」

 そこまで言いかけたところで、インターホンの耳障りな音が先ほどから延々と鳴り響いている事に気付いた。
 このマンションは頑強なセキュリティシステムを売りにしているだけあって、部屋主の意向に沿わない人間はエントランスより中には入れない仕組みになっている。来訪者がインターホンを押すには、まずエントランスにある二重のガラス扉で仕切られた部屋を通らなければならず、さらにそこには専任の警備員が24時間常駐している。だがしかし、聞こえている電子音はエントランスからのものではなく、この部屋の外のインターホンを押した時にするものだったから、つまり今外に居る人間はそういった関門をすべてパスできたという事だ。
 外部の人間が、住人にエントランスからの入り口のロックを外してもらう事なくそれより中に入るには、あらかじめ定めた暗証番号を知らなければならない。僕がそれを教えているのは父と母、姉のオリヴィエ、そしてもうひとり、リン・ヤオだけだ。
 だから当然のように何ら疑うことなく、インターホンを押している相手がリン・ヤオだと思った僕は、一度エドワードとの会話を中断してドアを開けた。
 ところが、僕のその判断は、誤りだった。


 解錠したドアは、此方がドアノブに手をかけるかかけないかのところで勝手に外から開かれ、そこには不気味に青い顔をした若い女が立っていた。その女は僕とエドワードとの初めての邂逅の場に『取引』の為に居合わせたのだったが、何故か一度寝ただけで僕の恋人になったのだと勘違いしてその後もしつこく僕に付きまとい、それをあしらうのに随分と面倒な思いをさせられていた。

 どのような手段でこの女がここまで入り込む事が出来たのか。訝しむ僕に、女の両手に握られた物が鈍く光り、此方に向けて真っすぐ刺し込まれた。

「アアアアアア――――――ッ!!!」

 女が獣じみた異常な声を上げると同時に腹部に熱を感じる。
 まずいと思いながらも、僕はどこか冷静にこの状況を捕えていた。

 ・・・・・内臓を深くやられた。これは、もしかして死ぬかも・・・・・・?

 反射的に腹部を押さえた手は生温かいもので濡れ、それがボタボタと音をたてながら足元のタイルを汚した。目の前が急激に暗くなり、瞬く間に力を失っていく身体をどうする事も出来ずにその場で崩れ落ちる。

 これが・・・・・自分の最期なのか。

 そう思えば、皮肉にも深い安堵に包まれた。
 これでようやく、苦行から解放される・・・・・・むしろ有難い。 

 ただ、この命を終わらせたからといっても、僕の細胞のひとかけらすら目の前の相手にやるつもりはない。
こんな女には、たとえ破片でも僕をやるものか。自分の全ては、あの人の・・・・エドワードのものだ。エドワードだけのものだ。

 もう薄くしか開けていられない瞼の隙間から、手から離れて床を転がった携帯電話を見る。
 
 拾いたい。もう一度最後に、エドワードの声を聞きたい。しかし、それはかなわなかった。

 どこか遠くで僕の名を叫ぶエドワードの声を聞いた気がしたけれど、僕の意識はそのまま闇に引きずられるようにして・・・・消えた。

 ―――――エド・・・・・・・僕は君を、愛していたよ。







                 ********************







 ふと眼を開けると、ぼんやりと白い明かりが見えた。ここは、どこだろう。随分と長い間、眠っていた気がする。
今まで僕の居た世界は温かく柔らかな皮膜で覆われていて、眠りながらも自分がずっと何者かに大切に慈しみ育まれていた事を覚えている。
 もしかすると、ここは天国という場所なのだろうか。
 あるいはこれは既に来世というもので、自分は今別の人間として生まれた瞬間なのかも・・・。

 ふと、まだはっきりしない視界の隅に動くものをとらえた。

「・・・・・・・・・・・・」

 白磁で作られたオブジェのようなものと、それを飾る金色に光るもの。
 やがてそれは人の形をとり、此方に近づいてくる。
 その人の形をしたものは、白く滑らかな線を持つ身体に何も纏っておらず、光の筋のような金の髪を長く垂らしている様は奇跡のように美しかった。

 天国というものは、本当にあったんだ・・・・・天使って、本当にいたんだなぁ。

 うっとりと魅入りながら、その天使の顔がエドワードと同じものであることに思い至る。天国とか地獄というものは、やはり物理的なものとは切り離された精神世界なのだろう。だからきっと目の前に現れる天使は、自分にとって一番望ましい姿をしているのかも。
 それにしても、よくもあれだけの非道な所業を重ねたこの僕を天国に招き入れてくれたものだ。神という存在は余程のお人よしらしい。
 折角だからこの際だ。その御厚意に甘えて、この天使をエドと呼ぶ事にする。
 息を吸い込むだけで重苦しい痛みを訴える喉から、年寄りのようにしわがれた声を絞り出して呼び掛けた。

「・・・・・・・・・・・ド・・・・・?」

 その自分の声が頭蓋を震わせる感覚が呼び水となり、僕の意識は急速に浮上した。それと同時に全身の感覚も取り戻す。見えない何かに上から圧迫されているような重さを感じる身体は、ほんの僅か力を入れるだけであちこちに鈍い痛みを生んだ。
 ――――これは現実だ。僕はどうやら、死ななかったらしい。とするとここは、病院だろうか。いやそれよりも、エド・・・・・エドワードが目の前に居るのはどういう訳だろう。どれだけ長い間逢いたいと願い続けていたか知れないその人が、今、僕の目の前に居る・・・!
 霞む視界に何度も瞬きを繰り返しながら見た彼は、ようやく僕に目を向けた。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 何も表情を動かさない彼に、僕は呼吸のし方さえ忘れていたようなままならない身体を必死に使い、再び言葉を絞り出した。

「・・・・・・・・あ・・・・・キレイ・・・・だ・・・・・・エド・・・・・」

「――――――――ッアル・・・・・・・・!」

 目を見開いた彼は、あの僕の大好きな声で僕の名を叫ぶと、 僕のすぐ横に駆け寄り飛び付いてきた。

「・・・やあ・・・・・久しぶり・・・・・・だね・・・・エド?」

「・・・・・・・・・・ル・・・・・ッ・・・・!」

 エドワードは涙で濡れた頬を擦り寄せながら両手で僕の頭を抱き締めてくれた。そして、何度も何度も、僕の名を呼んでくれた。

 もう二度と逢う事は叶わないと思った人にもう一度出逢えたこの喜びを、一体誰に・・・・何に感謝すればいいのだろう。
 からからに干からびてひび割れ、もう永遠に取り戻す事は出来ない筈だった僕の心。それがまるで生まれた時から当たり前に持っていたものの様に、今はこの身体の中にある。

 エドワードの涙が僕の頬や首筋を濡らしていく感覚に、目眩がするほどの幸福感を味わう。これは、愛する人が僕を想って流す涙だ。乾いてしまう前に、全て自分の皮膚から吸収してしまいたい。
 このまま目から溶けだしてしまうのではと心配になるほど泣きじゃくるエドワードは、僕の記憶の中に居る彼よりも少しだけ大人び、更に美しさを増していた。

「すごい・・・・・・久しぶり・・・・だね・・・・?元気そうだ・・・・・それに、すごく綺麗・・・・・」

「綺麗とか言うなッ馬鹿!」

「フ・・・・だって・・・・・まるで天使みたい、だよ・・・・・裸で・・・」

「あ・・!ウワ・・・!ち、違・・・っ!これは今丁度シャワーを浴びて・・・・」

 何も纏っていない事を僕に言われてようやく気付いた彼が慌ててタオルを引き寄せるのを、僕は止めた。
 もっと、このままの彼を見ていたかった。彼の体温を感じたかったから。
 両腕を広げた僕に、他人との接触が苦手な筈の彼は、意外にもごく自然な動作で身を寄せてきた。
 ただ純粋にその肌と温度を感じたい気持ちでそっと彼の裸の身体に掌で触れたけれど、彼が身体を強張らせる様子は全くない。それどころか力を抜いた身体がさらに密着してきて、彼の吐息が僕のおとがいにかかる。彼の唇まで、 あともう少しで触れられそうな距離だ。
 
 一度はあきらめた彼という人を、再び取り戻す事ができた。絶望し、自暴自棄になり、この命がいつ潰えてもかまわないと思っていたあの長く深い苦しみは、今この瞬間の為にあったのだ。

「あの電話から・・・どれくらい、経ってるのかな・・・・でも、あれは夢じゃないよね?僕とエドは、まだ繋がってるんだよね・・・・・・?僕はまだ・・・君を諦めなくても、いいんだよね?」

 僕の言葉を聞きながら、彼は黙って涙を流し続けていた。

「僕は・・・・・君がいないと駄目だ・・・・君が居ないと、自分が今、楽しいのか悲しいのかすら分からなくなる。世界から色が消えて、自分の中が全部空っぽになって・・・・・君に教えてもらった筈の感情も全部忘れてしまうんだ・・・・・・・ねぇ、泣かないで・・・・」

 彼の手触りの良い髪をかきあげ、あらわれた額に口づければ、それだけで僕の意図を正しく読んで濡れた顔を此方に向ける。
 今なら、まるで奇跡のように互いの言わんとする事が分かる僕たちだった。

「『愛してる』ってこういう気持ちを言うんだ・・・・・・・やっと分かった・・・・僕はエドを愛していたんだね、ずっと・・・・・・エドも僕を愛してくれてるんでしょう?そうだよね?」

「分かんね・・・・・でも、お前がそう言うなら、もしかしてそうなんじゃね?」

 それでもあえて確認せずにはいられない僕に、彼はわざとそっけなく返してくる。けれどその頬は真っ赤に染まり、決して逸らされない目が彼の胸の内を真っすぐ僕に伝えてくれた。

 嬉しい、嬉しい、嬉しい。どうしたらいいんだろう。こんな途方もない幸せが、この世にあるのか。

 僕たちは自然に、本当に自然に、互いの唇を寄せあい・・・・・キスを、した。






 もうそれから、僕はずっとずっと有頂天だった。もしこの身体を自由に動かせたなら、きっと小さな子供のように笑い声を上げながらそこら中を飛んで跳ねて走り回って周囲の顰蹙を買ったに違いない。

 これまでは意識しなければ作れなかった微笑みが、今は気をつけていないとだらしなく表面に出てきてしまい、度々リンに指摘されては普通の表情をどうにか取り繕い・・・・・それを繰り返すという、僕にあるまじき状態だった。
 自分でさえ驚くこの変化に周囲は更に衝撃を受けたようで、皆がいつでも僕の顔を注視するものだから、尚更だらしない顔はできないと自分を戒めるのだけれど・・・・・。

「アル、また顔が弛んデルぞ。こっちまでつられテ締まりのない顔になっちマウ。いい加減に・・・・・シロヨ!」

 言いながらも爆笑するリンにポーズだけのヘッドロックをかけられてまた笑ってしまう僕を、父や母や姉、そしてエドワードが嬉しそうに見る。

 今ならば分かる。
 僕がどれだけ周囲の人たちに大切にされ、温かな心で守られていたのかが。そして、僕はそんな彼らに何かを返すどころか、ただ苦しませる事しかできずにいたのだ。人として生きる事を許される心のつくりをしていなかったこれまでの自分は、関わってきた全ての人の心をどれだけおろそかにしていたのか。取り返しのつかない事も沢山した。あがないきれる事だとは思わない。けれど、ほんのわずかでも返し、償っていかなければならない。

 そんな決意をしているところで、またしても状況は一転した。
 僕の意識と人間性の回復にすっかり舞い上がった両親が、勇み足で僕とエドワードの将来について言及したのだ。
 エドワードは、僕自身が彼と関わってそう感じてもいるし、また彼を良く知るリンの口からも聞いているけれど、実に真面目で常識的な人で、古風で保守的な物の考え方をする。その彼にいきなり何の前置きもなく振るべき話題ではなかったのだが、悪い事にこの僕までもがプロポーズという言葉を口にしてしまった。
 しまったと思った時にはもう遅く、エドワードは先ほどまでの柔らかな微笑みを引っ込め、顔をこわばらせながらそろそろと後ずさった。
 彼はまだ、僕が既に両親からエドワードと生涯共に生きるという承諾を得ている事を知らない。だから当然、その後に来るだろう僕の両親からの拒絶の言葉を想像したに違いない。

 僕の必死の呼びかけにも振りかえることなく、エドワードは病室を飛び出していってしまった。
 どこまでも真面目で、頑固で、自分の信念を絶対に曲げない彼の事だ。今逃がしてしまえば、彼が再び僕の許に戻ることは難しいだろう。

「リン!手を貸して、エドを追いかける」

「無茶ダ、アルフォンス!ボクが行くからアルは大人し・・・・・・く・・・・?」

「止めるな。君は黙って僕に手を貸せばいいんだ。さもなくば・・・・・分かっているね?」

 ベッドから起きあがろうとした僕を制したリンだったが、言いかけた言葉が尻すぼみになり、その顔面からも血の気が引いている。
 その友人の様子に首を傾げれば、母が言った。

「アルフォンス、およしなさい。それがお友達にものをお願いする態度なの?リン君が怯えているじゃないの。あなたの睨みは血に飢えた人食い熊すら撃退する威力があるのよ。ふふ・・・・でも、そんなとこ、私にソックリね」

「ト、トリシャさん・・・・・古傷が痛みます・・・・・」

 過去の何かを思い出したように懐かしげに微笑む母の横で、やはり過去の何かを思い出したらしい父が、身を震わせた。


 



 怯えながらも渋るリンを、脅したりお願いしたり強請ったりしながら、病院の駐車場に待機していた父がいつも乗るセンチュリーまで車椅子を押させた。それまで黙って後をついてきていた父と母も、僕が運転手を引きずり降ろして自分がそこに座りハンドルを握るのを見て必死に止めたが、聞こえぬふりで車を走らせた。僕から逃げるエドワード連れ戻すのに、専任運転手の法定速度を遵守するタラタラした運転では間に合う訳がない。

 無茶にもギリギリで後部座席に飛び乗ってきたリンと父と母にはうんざりしたが、降りる様に説得する時間さえ惜しく仕方なしにそのまま街中を爆走した。

 トロトロ走る前を行く邪魔な車や、歩行者や自転車など、すべてクラクションで蹴散らしつつ、上空から獲物を探す鷹のようにエドワードの探査をぬかりなく行っている僕に、父が珍しく神妙な口調で言った。

「アアアアアアアルフォンス。きっ・・・ききききき聞きなさいッ」

「・・・・父さん、落ちついて一度深呼吸をなさったらどうですか」

 僕の冷めた声での忠告を素直に聞いて、父はスーハースーハーと深呼吸をしたあと、おもむろに口を開いた。

「いいかね。お前がエドワード君の事をどれだけ必要としているのかは良く分った。そして、この半年以上もの間いつ目覚めるとも知れない眠ったままのお前の世話を献身的にしてくれていた姿を見て、彼もまたお前を何より大事に思ってくれているだろう事も良く分った。だが、同性での婚姻を認めている国があるとはいえ、まだまだ我が国では周囲の理解を得られずに辛い思いをすることも多かろう。私たちはお前の親だ。だから、お前がエドワード君と共に生きる事で幸せになれるのならば反対などしない。だが、それは同時にエドワード君の人生も巻き込むという事なのだぞ。・・・・あんなに心優しく、真っすぐな子はいない。」

「ええ、それにとっても綺麗で可愛いわ。私があの子の横顔にウットリ見惚れてるのに気付くと、頬を赤らめたりなんかして・・・・ああ!なんて可愛いの!そしてあの可愛い声で『アルフォンスのお母さん』なんて遠慮がちに私を呼ぶのよ~ッ!ああ駄目ぇぇぇ~!私ドキドキキュンキュンしちゃってもう・・・もう・・・・!」

 途中から割って入ったはいいが見事に話の論点を捻じ曲げて突っ走る母を放置して、父は続けた。

「ともかく、だ。あんなに良い子を、お前は辛い道に引っ張り込もうとしてるのだぞ。私も母さんも、お前が彼の人生に干渉するのには賛成しかねる。お前には幸せになって欲しいが、我々は同時に彼にも幸せになってもらいたいのだ」

「何があっても、僕がエドワードを守ってみせます。ようやく分かったんだ。僕に彼がいなければいけないのと同じに、彼にとっても僕がいなければならないという事を・・・・!」

 僕がどうあってもエドワードと共に生きていくという考えを曲げないと悟ったらしい父は、一度考え込むように口を噤んだ。そして暫く黙り込んだ後、こんな事を言って来た。

「ならば、ひとつ賭けをしようじゃないか」

「どんなです?・・・・チッ、行儀の悪い・・・」

 前方に大きく車道にはみ出し、周囲の迷惑も考えず横並びに走る数台の自転車にクラクションを鳴らせば、チンピラのような服装をしたまだ中学生くらいだろう連中の一人がうるさそうに振り向いた。

「生意気な。優しくしつけし直してやろうか・・・・?」

 フロントガラス越しにニッコリしてやれば、途端に顔面蒼白になったその一人が慌てて歩道に逃げ込んだ。と、残りの連中も何事かと此方を振り向き僕と目があった途端、散り散りに脇へと避難した。

「それで良し。・・・・・で、賭けとはどんな?」

「・・・あ、ああ。そう、賭け・・・・・賭けだ」

 バックミラー越しに怯えるように僕を見ていた父だったが、気を取り直して提案した賭けとは、こんなものだった。

 まだ僕の両親から僕との関係を否定されていると思いこんでいるエドワードが、例え認めて貰えなくとも僕との未来を選んでくれるならば僕の勝ち。すなわち僕がエドワードと共に生きる事を承諾する。
 しかし、もしエドワードが僕の手を取らなかった時には、僕は彼を独占する権利を永遠に失い、今後彼と逢う時には必ず父もしくは母を同伴させなければならない。
 ・・・・・そんなにまでして、エドワードが僕一人のものになるのを阻止したいのか。
 僕が眠り続けていた間、すっかりエドワードの事が気に入ってしまった両親は、僕やエドワードの幸せと言いながらも、結局は僕にエドワードを独占させたくないだけなのだ。

「エドワードのたとえ髪一本、爪の垢だろうが全て僕のものですよ。あなたたちには、絶ッッッッッッ対にあげません」

「ナニィィィィ!?コ・・・ッコノッ、親不孝者が!」
「酷いわッ!横暴よアルフォンス!父さんはどうでもいいから、母さんにはちょっとくらい分けてくれたっていいでしょう?」
「お前ッ!?裏切ったな!協定違反だぞ!」
「お黙りなさい。こうなったら夫婦も協定もないわ」
「ヒィ・・・・ト、トリシャさん・・・・その物騒な目は止めてクダサイ・・・!」
「ボクの横で夫婦喧嘩しないでクダサイヨ~~~~」

 騒がしい後部座席に構うことなく、僕は更にアクセルを踏み込んだ。






 延々と車を走らせ、時にはエドワードが行きそうな場所をリンに探してもらったり、彼の住むアパートにも行った。けれど彼を探し出せぬまま、とうとう日が暮れてしまった。
 彼は実家の家業を嫌うが故に、こうして親からの援助を絶ってまで都心に出て独り立ちしようとしているのだ。だから、こんな時だとはいえ実家に帰っているとは考えにくい。もしかすると、どこかで事故にでも遭っているのだろうか。それとも、僕の考えが及ばないどこか遠くへ行ってしまったのだろうか。
 不安要素ばかりが頭の中を駆け巡り、途方に暮れた。
 ところが、一度病院に戻るべきかと逡巡しながら隣町との境に流れる川にかかった橋を通りがかった時、視界の隅に人影を見たような気がした。注視すれば、ほとんど明かりのない暗い土手の上にほっそりした人のシルエットが確かにある。
 後から考えれば、車を走らせながら遠い場所に、それも殆ど真っ暗と言っていい場所に居た彼を見つけられたのは奇跡としか言いようがなかった。

 ――――今彼を逃がしたら、最後だ。

 直感的にそう感じた。
 一度そうだと思い、自らの進むべき方向を決めてしまった彼の頑なさを僕は知っている。
心から狂おしい程に何かを求めるのはこれが初めてで、そしてきっとこれ以上に求めるものなどこれからだって他にない。なりふりなど構っている場合ではなく、彼を取り戻すのに必要とあらば土下座をして、その膝に取りすがって涙を流して懇願だってしてみせる。
 破壊する勢いでハンドルを切り、アクセルを踏み込む。車両の進入を拒む小癪な鉄柱をなぎ倒し、縁石ブロックを無理矢理乗り上げ、草で覆われた土手の急斜面を猛スピードで突き進み、ヘッドライトに照らされた人影をこの目で確認した瞬間、僕の胸は熱いもので一杯になった。
 ・・・しかし、何故かその僕の口から飛び出した言葉はガラの悪い怒号だった。

「エド待てこの野郎――――ッ!!」

 その声に、後部座席の両親が息を飲む気配がした。当然だろう。この僕自身でさえ、自分のこんな怒鳴り声なんて初めて聞くのだから。

 土手の上を走って逃げるエドワードの前に回り込み、前輪を軸にターンしながら車を急停車させると、開けた運転席のドアから伸ばした両手で力任せに彼を引きずりこんだ。我ながら、よくぞこんな力があるものだと感心する。

「ウワ・・・・・ッ!お・・・・お前・・・・信じらんねぇ!何やってんだよ!?つーか・・・なんでいきなり車運転できんだよ!?それもセンチュリーがボコボコじゃねぇかアホ!まさかここまで来るのに人とか轢いてねぇだろうなアルフォンスッ!?」

「そんなこと知るか!エドがいないなら、他の人間なんて何人死んだって構うもんか!そんなことより、僕から逃げたね?お陰でいきなり初日から最高のリハビリをさせて貰ったよ・・・・許さない、エド。連れ帰ったらこのまま鎖に繋いで、絶対に一生逃がしてなんかやらない」

 これまで僕は、感情を表したり言葉を言う時には『こうするべきだ』と必ず意識していた。逆に、意識しなければきっと黙って立ち尽くすだけの人形だったろう。けれどエドワードに出逢ってからというもの、そんな事を考える必要など全くなくなった。
 彼を前にした僕は、まるで赤ん坊がミルクを強請る様に、母の手を求める様に、ごく自然に自分の中に望みが際限なく生まれ、それを求めて感情が揺さぶられ、自分でコントロールすることさえできない程だったから。

「あ・・・・アル・・・・・・ンウ・・・・・・ッ!」

 僕の下で唇を塞がれたエドワードがもがいても、唇を更に深く合わせて絶対に離すものかと滅茶苦茶なキスをした。色気もムードもあったものじゃない。
 今の僕は、まるで生まれたばかりの赤ん坊と同じだった。
 欲しいものを全身で求め、手を伸ばし、泣き叫び、縋りつく。求めるものはエドワード、ただそれだけ。

 エドワードの指先が僕の腕から肩、そして背中に辿りつき、まるであやす様に動く頃になってからようやく彼の苦しそうな呼吸に気付いた僕は、一度唇を離して、今度は啄ばむようなキスを繰り返した。

 彼の柔らかな唇の感触や近過ぎるあまり肌で感じる吐息・・・・そんなものたちに、三年前一方的で滅茶苦茶だった初めて交わしたキス―――とはたして言えるのもかどうかも定かではないけれど―――を記憶の奥から呼び起され、僕はまたしても気持ちを高ぶらせてしまった。

 あの日、一度は手にしたと思えた彼という人を、その喜びを噛みしめる間もなく失った事。その出来事がどれだけ僕を深い絶望へと追いやったかしれない。そしてまた、それによって半ば自暴自棄になった僕がしでかした行為が、どれだけエドワードに更なる苦しみを与えてしまったのかも・・・・。

 けれど。
 今度こそ、本当に本当に、エドワードは僕の腕の中に居てくれる。つかまえた。絶対に二度と放さない。だからもう、次はない。
 一生放してあげる事は出来ないけど、その代わりに誰よりも何よりも、彼を大切にしよう。大切に・・・・・したい。

 だから、お願いだから、僕から離れていかないで欲しい・・・・!
 居なくなっては駄目だ。嫌だよ!君がいなければ僕はもう呼吸の仕方さえ分からなくなってしまう―――!それは、死ぬよりも苦しいよ。

 ひとたび膨れ上がった感情は完全に僕の手を離れ、暴走した。
目が焼けるように熱くなったと思えば、瞬く間に視界がぼやけて、そこから「これが涙なのか」という程のおびただしい量の液体が溢れてはエドワードの顔に落ちて濡らす。
 喉もとからは抑えきれない嗚咽がせり上がり、口は勝手に幼子が駄々をこねる様なセリフを紡ぎだした。

「だって・・・・エドがいなくなるから!君が居なかったら僕はダメだって言ったじゃないか・・・それなのに・・・・なんで?もう僕は、エドがいないと生きていけないんだよ?それが分かっていてエドは、その僕を捨てるの?僕がどうなってもエドは何とも思わないんだろ?やっぱり愛しているのは僕の方だけだったんだよね?」


 僕は、完全に壊れてしまった。

 エドワード、エドワード、エドワード・・・・!

 バラバラになってしまった僕を、もう一度始めから正しく組み立てて。君の手で――――。







「分かったよ!認めてやるよ!ああそうだよ、俺はお前を愛しちゃってるよ、悪いか!?もう金輪際離れてなんかやらねぇぞ!後悔したって知らねぇからな!!」

 グズグズと泣き崩れ、子供のようになってしまった僕にぶつけられた彼の言葉が、僕をとりまく世界と僕とを隔てる扉を開ける最後の鍵だった。

 まるで、自分を構成する細胞全てがバラバラに分解されたようだ。
 全ての感覚があやふやでありながら、それでいてこれまで感じた事のない細かな痛みや心地よさを恐ろしい精度で全身が拾い上げていく。つい昨日、長い眠りから目覚めた時もそうだった。
 あまりにも無知で愚かで、感情というものを知らなかった自分が、新しい生を与えられて生み出される感覚・・・・とでも言うのだろうか。

 ふと、意識を失っていた間にずっと自分を取り巻いていた感覚を思い出した。
 母親の胎内に守られ育まれる、まだ人としての形を成さない命の芽。僕はまさに、それだった。
 その身を削りながらも僕を慈しみ育て、やがてこの世へと生み出してくれたのは、他でもないエドワード・・・・この人なのだ。

 血肉ではなく、精神的に僕を産み直してくれた人。大切にすべき人達を傷つけ苦しめる事しかできなかった僕を、作り変えてくれた人。
 僕の創造主である彼が、その僕を愛していると言ってくれた。そして、もう離れないと不器用なキスをくれた。これ以上の幸福があるだろうか――――!



「・・・・・エド、愛してる・・・・愛してます。死ぬまで僕と一緒に居て下さい。ううん、死んでも同じお墓に入ろう。いや・・・骨壷も一緒がいいな」

 これから先、たとえ一時でも彼から離れて生きるつもりはなく、死んだその後も一緒にいる気満々の、ただの馬鹿な一人の男になり下がった僕が吐いた子供のような我儘にも、エドワードは彼らしからぬ甘い囁きで返してくれた。

「墓はなんとかなるかも知れねぇけど、骨壷はいくらなんでも無理じゃねぇの?」

 ――――ここが土手の上に乗り上げた車の中でなければ。この筋力の衰えた身体でなければ。きっと僕はありとあらゆる甘い愛の言葉を駆使して彼を蕩かせ、まんまとコトになだれ込んだに違いない。
 歯噛みしつつも同時に胸を満たす幸福感に酔いしれていたところで、リンの無粋な声が僕たちを現実へと引き戻した。

「ああああああ~~聞いてられないヨ~耳が腐りそうダヨ~~~!くっついた途端に馬鹿ップルモード全開ダヨ~~~!!」

 リンの存在に全く気付いていなかったエドワードは叫び声を上げ、羞恥に頬ばかりか首筋までも真っ赤に染め上げた。その姿にまたいけないものをもよおして、彼をシートに抑えつけてしまいたくなるのをグっと堪える。
 これまで欲求を持たなかった僕はすなわち何かに耐えるという経験も殆どなかったから、これは中々に辛い作業だ。
 
 すっかり忘れていたリンと両親の存在、そして父と交わした賭けの一件を思い出したところで何やら喚きだした面々を一喝のもとに黙らせ、病院へと戻るべく車を走らせる。
 先刻僕の流した涙が演技だと解釈されてしまったようだが、結果は上々だからあえて訂正はしなかった。どの道エドワードを自分の許に繋ぎとめておくためならば、きっと僕はどんな非道な所業も躊躇うことなくしたに違いないのだ。

 僕の心はこれ以上なく満たされていて、行く手にある自分と彼の歩む道に希望を見出すばかりでなんの心積もりもしていなかった。
 僕を容赦なく翻弄する欲望という名の嵐は、もうすぐそこまで迫っていたというのに。








 これを言うと大抵の相手から不興を買うので、『そうだろう?』とわざわざ確認するようにいやらしく聞かれたとしてもそれとなく誤魔化していたけれども、僕は異常な程女性から好意を寄せられる性質だ。此方から誘わずとも引く手数多。濡れ手で粟。たまに気まぐれで甘い言葉の一つでも囁いてやれば、例外なく誰もが簡単に足を開いた。
 だから、年相応人並みの性的欲求を持ってはいても、それを持て余した経験が全くない。



 生まれて初めて誰かを愛するという心を持ち、求め、そして想いを通わせ合えたのだ。本当ならすぐにでも身体を繋げてしまいたいところだ。けれどエドワードは以前よりも改善している様子だとはいえ、他人との性的な接触に本能的な恐怖心を持っている。そこに来て自分の欲求に対する抑制力の脆弱さに、迂闊にも初めて思い至った僕は大いにうろたえた。
 彼を抱きしめてその肌に触れて、余すところなくキスをして僕の印を刻み、深く繋がりたい。一つになりたい。僕の身体全てを使って、初めて知るだろう人から与えられる快感を彼に教えてあげたい。
 けれど、踏んだ場数は少なくとも男同士の性交が受ける側にかなりの苦痛をもたらす事を僕は知っていた。本来の用途に背いて無理に行うのだから、余程上手くやらなければ快感を与えてやる事が困難なのは当然だ。更に僕自身、長期間意識不明でいた為に極度に筋力が落ちていて、彼の心と体に負担をかけずにそれらを行うにはあまりにも無理があった。
 だから今日はキスをして、抱き合って、愛の言葉を存分に囁き合うだけにとどめ、大人しく眠りに就くのがきっと一番正しいのだ。

 それなのに・・・・・ああ、何故なんだ。
 この不自由な筈の身体は、僕の意思をまったく無視して動いてしまう。

 両親とリンの暴力的ともいえるスキンシップから彼を救い出したまではいい。その後車椅子の膝に彼を横抱きにしたまま部屋へと戻った後の僕の行動は、どうにも言い訳出来るものではなかった。
 部屋の扉にしっかりと施錠をし、入浴を手伝ってもらうという口実で彼を一糸纏わぬ姿にし、またリハビリなどと言う見え透いた名目で彼の身体を洗い清めつつ存分にその感触を堪能し、更には警戒心をまったく抱かせないまま上手い事二人湯に浸かり、とうとう彼は僕の広げた脚の間にすっぽりと包まれ、無防備な項を晒している。
 背を向けているエドワードは気付いていない。その彼の滑らかな臀部に触れそうな程近くにある僕の性器が、奔流の出口を求めて恐ろしいまでに張りつめ、虎視眈々と『その瞬間』を窺っている事を。
 それでも僕はまだかろうじて残っていた理性を振りしぼり、マグマのように滾る欲望を鎮めようと脳内でニポン国憲法前文の暗唱を始めた。

 ニポン国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し・・・・・

 幼い頃文字書き計算と同時に覚えたこの文言は、今ではもう肌になじみ過ぎて眠っていても言えるほどで、国歌同様、僕の精神を落ち着かせるのに大いに役立ってきたものだ。

 ――――よし。いいぞ、その調子だ。

 荒くなった呼吸が幾分落ち着いてきたところで、しかし僕はまたしても注意を怠った。

 タイルの目地を辿っていた目線を、油断した瞬間目の前にあるエドワードの白い項へと移してしまったのだ。
 陶器のような白く美しい肌にはりつく濡れた金の髪・・・・・・・そしてその隙間に、あってはならないものを見つけてしまう。
 言いよどむ彼から無理やり事の顛末を聞きだした僕は、彼の危機にも意識を取り戻さず眠りこけていた自分自身の不甲斐なさに怒りを覚えた。

 彼の腕っ節と、そして姉とセントラル病院の患者だという女性のお陰で危ういところを免れたということだったが、後で改めてその不届き者の素性を姉から聞き出し脳内の抹殺者リスト筆頭にその名を書きつけなければならないだろう。

 折角静まった筈の衝動がそれによって再燃してしまい、今度は第一章第一条から暗唱を始めるも、まったく意味をなさなかった。

「そんな時に助けて上げられなかったなんて・・・・・ゴメン」

 口ではそんな殊勝な事を言いながら、僕の両腕はエドワードの引きしまった腰やなだらかな隆起を持つ胸に伸ばされ引き寄せていた。てっきりそこで激しい拒絶にあうのではと覚悟したが、エドワードは大人しく僕の腕の中に居た。僕の中で耳障りな警鐘がけたたましく鳴り響く。

 どうしたらいい。自分を抑えられない・・・・・!
 エドワード、僕の腕を振り払ってくれ。殴っても良い。僕から逃げて・・・・!!

 逃げて欲しいと願いながらも、僕の心と体はてんでバラバラに動く。
 鬱血の痕を唇でなぞり、甘く噛んだ後、わざときつめに吸い上げ色鮮やかな印を上塗りすると、内股の柔らかい 部分を撫でていた手で彼の性器に触れた。
 ほんの僅かではあったけれどそれが熱を持ち硬く張りつめていた事が、更に僕の欲望を加速させてしまう。

「あ・・・・あ・・・・あ・・・・っ!?何・・・?何して・・・・・・・ッ!?」

「エド・・・・・いい?それとも、ダメ?怖い?君が嫌ならしない。」

 止めてあげる事が出来る確証もないのに、そんな言葉を吐く僕の口。いいからエド、その肘を僕の鳩尾に入れるだけで君は逃げる事ができるんだ。
 こうなってはもう、あまりにも情けないけれど、エドワードに殴り飛ばして貰うのを待つしかない僕だ。来るべき衝撃を待ちつつ、彼の綺麗な性器を愛撫していると、エドワードの口からとんでもないセリフが飛び出して僕の心臓を貫いた。

「アル・・・ッアル・・・俺・・・・・・お前と、すんの?・・・・セックス、すんの・・・?今?」

 あからさまに快感を滲ませた声で、それも舌足らずな口調でそんな事を言われてしまい、僕は酸欠で死にそうになった。こめかみに走る血管がドクドクと音を立てて、今にも破裂して血を噴き出させてしまいそうな程だ。
 彼が無意識に押さえていた手ごと、性器と胸への愛撫を再開させながら、たまらず白い貝殻のような耳の後ろに吸いついた。
 途端に魚のように身を跳ねさせ、甘い声を上げるエドワードの身体を更に強く引き寄せる。それなのにまだ彼は僕の腕の中から逃げていかない。
 何故なんだろう。あんなに人と触れ合う事を怯えていた筈なのに、僕の知らない三年の間、そんなにまで彼は変わったのだろうか。一体何が、誰が、彼を変えたのか・・・・。知らない事がもどかしくてたまらない。

 僕の手に重ねてくる彼の手の動きに、拒絶する様子は感じられなかった。恐れるというよりも、普通に恥じらっているだけのような印象を受けるのは、僕の勝手な思い込みだろうか。

「怖い?僕はまだこんな状態だし、今日は最後までしない・・・・・・その意味、分かる?」

「・・・・・・・・触るだけって・・・・コト・・・・?」

 彼の真意を確かめ、そして未知の経験に戸惑う彼から少しでも不安を取り去ってあげられたらという想いから、あえて遠まわしでなく直接的な言葉を僕は選んだ。

「このままエドのペニスを擦ってイかせたい。出来ればエドにも僕のを同じようにしてもらいたいな。・・・・で、少しだけ後ろに指を入れさせて。分かるでしょう?男同士が何処を使ってするのか。初めてだし出来るだけ時間をかけて慣らしておかないと、僕のを挿入する時エドが辛いと思うんだ」

 もし叶うならば。彼の肌にもっと触れていたい。愛したい。今は無理に繋がる事なんて出来なくてもいいから・・・・せめて。愛し合うもの同士が熱を与えあう行為のほんの一部でもいい。彼と共に体感したかった。

 僕の無茶な願いは到底聞き届けられないと思っていた。
 でも、暫く動きを止め考え込むようにしていたエドワードの手が僕の頭の後ろに伸ばされた。

「・・・・・・・・!?」

 僕の頭を引き寄せながら此方の胸に背を預けると、伸びあがる様にしてエドワードは僕の下唇の脇に小さなキスをくれた。


 まるで・・・・・・・時間が止まったように感じた。

     






              *****************************





 目覚めると、そこはエドワードの腕の中だった。体を丸める様にして眠る僕を、その僕よりも小さく華奢なエドワードが大事そうに抱え込んでいた。
 規則正しい寝息に、彼がまだぐっすりと眠っているのだと分かる。注意深く身体を動かして腕から抜けだし、今度は逆にその身体を腕の中に抱き込んだ。
 無意識にぬくもりを求めてか、エドワードが更に身を摺り寄せまるで子猫のように顎の下に潜り込んで来るのがどうしようもなく愛おしい。


 昨夜の結果だけを言うならば、僕とエドワードはいわゆる挿入行為までには及ばなかった。
 ただひたすら数え切れないほど何度も何度もキスをして、互いの性器を触り、少しだけエドワードの中を指で愛撫し、彼の身体のあちこちに僕の所有印を刻んだ。
 性行為自体が初めてだったエドワードは幾度にも渡る吐精に息も絶え絶えで、二度目の絶頂を迎える間際の僕の腕の中で先に気を失ってしまったから、僕は抱きしめた愛しい人の温もりと香りを貰って自分で自分を慰めた。
 けれど、これまでしたどんな性行為でもまったく得られなかった幸福感が、僕を隅々まで満たしてくれた。これは、エドワードが僕に与えてくれたものだ。他の誰でもない、エドワードだけが僕に与えることができるものだ。



 ようやく東の空が白々として、その薄明るい光が病院の味気ないカーテン越しに部屋を頼りなく照らす。
 鳥の声と、どこか遠くからバイクのエンジン音が聞こえる。
 そして腕の中には、かけがえのない人。

 エドワードと出逢ってから、僕の薄っぺらな人生は激しく上昇下降を繰り返した。そして、きっとこれからも事ある度に、僕は幼子のように怯えたり、うろたえたり、泣いたり叫んだり怒ったり・・・・・そして、笑ったりするんだろう。
 この行く手に伸びるのは、もはや今までのような幸せも不幸せも存在しなかった平坦で色のない明暗のみの単純な道ではない。考えもつかない苦しみと、抱えきれないほどの喜びに満ちた、鮮やかな色彩で彩られた道が幾通りもある世界が広がっている。
 そのまだ見ぬ世界に踏み込む恐れを持たない訳ではない。
 でも、彼と手に手を取り共に歩んでいけるのならば、どんな苦しみもやがては幸せに繋げる事が出来ると、僕は何の根拠もなく確信していた。

 腕の中で、エドワードが身動ぎを始める。そろそろ目を覚ますようだ。
 目覚めた彼は、一体どんな表情を僕に見せてくれるんだろう。

 恥ずかしがる?それとも、僕を抱きかかえていた筈の自分が逆に僕に抱き込まれているのを知って怒るかな?
 でも僕は、どんな顔の君にも、蕩ける様なキスをするよ。
 そしてそれは、今だけじゃない。これから生涯共に生きていく間ずっとずっと、何があろうと目覚めた時傍に居るだろう君の頬に、額に、唇に、いつでも変わらぬ気持ちで心からのキスを贈ろう。

 君に出逢う事が出来て、僕は幸せという至上の宝物を貰った。どうもありがとう。そして、永遠に愛しているよ・・・・・と。








 

 

 

       終わりました~!な・・・・長かった・・・・長過ぎた・・・・il||li_○/ ̄|_il||li 嗚呼・・・・どうもありがとうございました。

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