ある男の野望 6
運良く直ぐにつかまえた空車のタクシーの運転手は、これまた運の良い事にとびきりの人情家だった。血相を変えて車に飛び乗るなり『友人が死にそうだ』と言えば、一発で免停を喰らうようなとんでもないスピードでプロのドライビングテクを披露してくれたから、俺は救急車よりも先にアルフォンスの住むマンションに到着できた。 思った通りの高級マンションのエントランスドアの脇にある操作盤にリン・ヤオから聞いた暗証ナンバーを打ち込む。ドアが開くなり悠長にエレベーターなど待っていられず階段を駆け上がった。 アルフォンスの部屋はすぐに分かった。何故なら、開け放したドアのすぐ脇に髪をふり乱した女が茫然と座り込んでいたからだ。 その女の震える両手には、どこの家庭にもあるような一般的なサイズの包丁が握られていた。 それを見た瞬間、どういう訳か、急に自分の五感にフィルターが掛けられたような不思議な錯覚を俺は覚えた。と同時に、奇妙に脳が冴えていく。 俺はまず返り血にまみれた茫然自失の女の手から包丁を取り上げ、次に血だまりの中でうずくまるように倒れているアルフォンスの首に指を当てた。ところが指先だけは痙攣を起こしたように震えていて、まったく脈をみる事ができない。ただ、刺された腹部から大量に出血した所為で恐ろしく体温が低下しているのが分かったから、土足のまま室内へ入り適当な布や毛布をかき集め、それで腹部を圧迫し毛布に包んだ重たい身体を腕に抱きこんだ。 救急車は、一体いつになれば到着するのだろうか。 冷たくなりかけている頬に自分の頬を押しつけながら、大声でアルフォンスを呼び続ける。 「アル!アル!俺の声、分かるだろ?聞こえるだろ?死ぬな!そっちには俺はいねぇぞ!!お前言っただろ、自分は俺のモンだって!じゃあ寝てる場合かよ!?とっとと起きて、俺のモンになれよ!!オイッ起きろ!目を覚ませ!アル、アル、アル―――――!!」 俺の様子に、ようやく自分のしでかした事の重大さを実感したらしいオンナが啜り泣きを始めたが、俺はそれにも怒鳴り散らした。 「馬鹿野郎!泣いてどうにかなんのかよ?お前も泣く元気があるなら、今コイツに全力で侘びろ!そんで、戻って来いって言え!喉が裂けて血が出るくらい大声で叫べ!!」 俺の勢いに気圧された女は一気に毒気が抜けた様子で目を瞬かせると、慌ててアルフォンスを抱えている俺のすぐ横に跪き、大声でゴメンナサイ、ゴメンナサイと叫び続けた。初めてこの腕に抱いたアルフォンスの身体はまるで人形のようにだらりとして、ただ冷たく重かった。まるで、魂が抜け出てしまった後の肉体のようだと思ってしまう自分の叱咤し、歯を食いしばった。
逝くな、アルフォンス!俺はまだ、お前に言わなければならない事を何一つ言っていないんだ。だから・・・・・逝くな・・・・!! 到着した救急車はアルフォンスの姉であるホーエンハイム医師が医院長を務める病院の所有するものだったらしく、白いボディに赤いラインの入った車体の側面にはセントラル総合病院の文字があった。ストレッチャーと数人の看護師と救急救命医を従えて現れたホーエンハイム医師は、現場の状況を一通り見まわしただけでおよその事を悟ったのだろう。「この馬鹿者が!これを自業自得というんだ愚か者!!」と意識のない瀕死のアルフォンスに怒鳴り散らした。 搬送中アルフォンスが2度心肺停止の状態になり、救急車の狭い車内は始終バタバタと慌ただしかった。医者でもない俺は邪魔にならないようにアルフォンスの足元にうずくまり、まるで血が通っていないような冷たい素足に僅かでも熱を与えられたら・・・と、頬を寄せていた。 救命救急は専門外のホーエンハイム医師もあれこれと役割をこなしていたが、ひととおり事態が落ち着くと後を任せて俺の横に座り込む。 こんな時、実際に人間が出来ることなど殆どないのだと思い知らされ自分の無力さに愕然としていた俺だが、ホーエンハイム医師もまた俺と同じような想いを抱いていたらしく、力ない笑いを浮かべて溜め息を零した。 救急車のサイレンと断続的に響く人工呼吸器の音に気が狂いそうだった俺は、わざとさばさばした口調でアルフォンスを刺したあの女はどうしたのかと聞いた。ホーエンハイム医師も同じく何かを話す事で落ち着きを取り戻そうと考えたらしく、事の顛末を始めからかいつまんで説明してくれた。 俺はすっかり忘れていたが、あの女は3年前俺がアルフォンスと初めて会った時にホテルの部屋に一緒にいた女だったようだ。敵対する人間を陥れる為の証拠品を持ち出す事と引き換えに、アルフォンスに身体の関係を要求したというあの女だ。当然のことながら写真を持ち出した事はすぐにばれて解雇されたが、女は元々アルフォンスに猛烈な想いを抱いており、その後もしつこく付き纏い続けていたという。 こんなとんでもない事態になってしまったが、元を糺せばアルフォンスの行動に事件の発端があることもあり、内々に処理をする事にした民民自由党党首付きのブレインの意向により、この件で警察が動くことはないらしい。 しかし、ホーエンハイム医師が言うには、アルフォンスは3年程前からまるで箍が外れたようになりふり構わず『仕事』をこなすようになり、他にも複数の相手と度々似たような手口で裏取引をしていて、このように執拗に追いかけまわされたり、または脅迫を受けたりといった事がひとつやふたつではないのだと困り果てたように話した。 リン・ヤオが俺に言っていたのはこの事だったのだ・・・・と、合点がいく。 例え思いあがりでもいい。 俺が何かしらの影響をアルフォンスに与え、その結果こいつがこんな状況に追い込まれているのだとすれば、今こそ3年前のあの日にこの手を拒んでしまった自分の過ちを改めなくてはいけない。 物のように横たわり、呼吸すら機械の力に頼っているか弱い命をようやっと紡いでいるアルフォンスの姿に目をやる。 もしこのままこいつが目を覚まさなければ、俺も眠って二度と目の覚めない世界へと行こう・・・・そう思った。 アルフォンスと共に過ごした時間の少なさを思えば、ごく自然にそう考える自分が不思議だったが、その時俺は、心の底から真実そう思ったのだ。 アルフォンスが運び込まれた病院の手術室のドアの横にある固い椅子で、俺は永遠と思われるほど長い一夜を明かした。 アルフォンスの父親は現在外国で開催されている首脳会議に参加しており母親もまたそれに同行していた為、ヤツの身内として手術室の外でまんじりともせず待機していたのは俺とリン・ヤオの二人だけだった。 時間の感覚はなかったが、長い廊下の向こうにある小さな窓から見える空の色で、今が明け方頃だという事だけは分かる。 手術室のドアの上にある手術中の表示灯の灯りが音もなく消えたのは、そんな時だった。 固唾を飲んで見守る俺とリン・ヤオの目の先で開いたドアの隙間からあらわれたホーエンハイム医師は、憔悴しきった様子で俺の前まで歩いてくると、すっかり乱れてしまった長い金髪を無造作に後ろで束ねた頭を深々と頭を下げた。 「エドワード君、ありがとう。君にはどんな言葉をもってしても、この感謝の気持ちは言い尽くせない。本当にありがとう・・・」 そう言いながらも固い表情を崩さないホーエンハイム医師・・・・アルフォンスの姉に、俺の心臓がドクドクと嫌な音を立てはじめた。 「俺は何もしてないです。それより、アルの容体は・・・・・・・」 俺の言葉に目線を床に落とした彼女は、抑揚のない声で答えた。 「・・・・・・・・・・生命の危機はひとまず脱したが、この先意識を取り戻すかどうかは・・・・正直、難しいかも知れない。そもそもエドワード君の処置がなければ、病院に辿りつくまでに生きながらえていたかどうかも怪しいのだ」 「・・・・・・・・・・」 衝撃的な出来事に直面した人間が『目の前が暗くなる』という表現を使うが、これが単なる比喩ではないのだと俺はこの時実感した。 「坊ちゃんッ!?」 後頭部と背中に衝撃があり、そのまま後ろから肩を支えられた状態で我に返る。どうやら倒れかかった所を、たまたま後ろにいたリン・ヤオに助けられたようだった。 「アルフォンスに・・・・会っても・・・・・・?」 リン・ヤオに支えられたまま聞けば、彼女はそこでようやく顔を歪ませ、痛々しい笑みを俺に向けて頷いた。 「多分、弟にとってそれが一番治癒の助けになるだろう。私からも是非お願いしたい。どうか、ヤツのそばにいてやってくれ」 このやり取りが後の自分が歩む道を大きく左右するきっかけになるとは思わないまま、俺はアルフォンスのいる集中治療室へと足を踏み入れた。 「アル、今日はスゲー良い天気だぞ。折角だから、窓開けような?・・・ほら、風が気持ちいいだろ?」 言いながら窓を開ければ初夏のすがすがしい風がカーテンを揺らしながら部屋の中へと吹き込んで、ベッドに横たわったアルフォンスの前髪を優しく撫でていく。 あの事件から3カ月が経過していた。 セントラル総合病院の中にあるアルフォンスに特別にあてがわれた個室を生活の拠点とし、俺はここから大学に通いアルバイトに出かけ、それ以外の時間はほぼここで過ごしている。 夜はアルフォンスの姉(今ではリンに倣って、『オリヴィエ姉さん』と呼んでいる)のはからいでこの部屋に運び込んでもらったベッドで眠り、朝と夜にはこの病院専属の栄養士の指導で作られた摂食障害の患者用の処方食を賄われ・・・・・要するに、この俺も入院患者並みの扱いだった訳だが、オリヴィエ姉さんはもとよりアルフォンスの両親までもが俺にアルフォンスの傍についてその世話をする事を強く望んでくれたこともあり、眠り姫のように眠り続けているアルフォンスの身の回りの世話は殆ど俺が一手にやらせて貰っていた。 静脈からの栄養剤の点滴だけではもたないから、喉の下部分を切開し、そこから挿し込んだチューブで栄養を流し込むのだが、やはり肉が落ちてしまうのはどうしようもなく、やつれてしまったアルフォンスの頬に唇を寄せては小さなキスをいくつも落とす。これはいつしか、俺の日課になっていた。 唇でアルフォンスの体温や肌の感触を確かめつつ、撫でさするように慈しむ。添えた手を髪に伸ばし、優しく優しく梳いてやる。自ら動かす事のない手を握り、そこに頬を寄せ、唇を寄せ、早く目覚めるようにと強く念じる。 言いながらその意思を持たない掌を自分の首筋に充て・・・・・・ゆっくりと下ろし、胸元へと持っていく。そう・・・・まるで、アルフォンスの掌に愛撫されているような感覚に、俺は目を閉じて感じ入る。 「目を覚まして、とっとと体力を取り戻して・・・・・俺を抱けよ、アル。お前が眠ったままだったら、俺は一生セックスしねぇまま死ぬんだぜ?ふ・・・・ハハハッそれもいいか・・・・?」 あれほど性的なものから逃げ続けていたこの俺は、皮肉な事に、意識のないアルフォンスと共に過ごすようになってから途端に『触れて欲しい』『触れたい』『愛し合いたい』という猛烈な欲求を目覚めさせていた。 卒論を書きながら、もう今では一日おき程度しかない講義を受けに大学へと足を運ぶだけになっていたから、あとはバイトと洗濯をしにアパートに戻る以外、俺はほぼ全ての時間をアルフォンスの傍らで過ごした。 オリヴィエ姉さんの配慮と面倒見の良い病院のスタッフのお陰ですっかり心身ともに健康体になっていたから、時には病院内のあちこちから力仕事やちょっとした雑務を頼まれることもあった。 これが日常となりつつあったそんな頃、俺は彼女と出逢った。 彼女は艶やかで癖のない黒髪のショートヘアが似合う、他人の容貌にはあまり頓着しない筈の俺でさえも綺麗だと思う人だった。 出会いは実にありふれていて、このセントラル病院へ定期的に訪れていた彼女が会計窓口に置き忘れた携帯電話を、殆どこの病院のスタッフのようになっていた俺が後を追って届けた事が発端だった。 その後病院のホールで何度も顔を合わせる内に自然と互いの事を話すようになり、間もなく俺は彼女が置かれている状況を知った。 彼女は自衛官で噂によれば相当責任の重い地位に就いているらしく、これまで結婚もせずに仕事だけを恋人にして暮らしてきたという。しかし乳癌に蝕まれ、担当の医師からも入院を強く勧められながら今なお自分の役職を全うしようと通院で治療をしているという事だった。また、彼女は『まるで男のような名前だから』とファーストネームで呼ばれることにあまり良い顔をしなかったから、周囲の人間も俺も彼女をマスタングさんと呼んでいた。 マスタングさんは、乳房にできた癌を長期間放置していた結果、肺への転移を食い止める為に脇のリンパごと切除する手術を受けていた。その手術前、豊満な乳房の片方を失うことを彼女は十二分に承知していた。しかしいざ取り去ってみれば、それは想像以上に『女性』としての彼女のアイデンティティを脅かしたのだ。 その変化は如実に表れた。 次第に彼女の身につける服装から色が失われ、気温に関係なく全身を覆って身体の線を隠す様な洒落っ気のない服装ばかりをするようになる。表情も暗くなり、やがて愛想笑いさえ見る事ができなくなった。 そんな時、俺はふと思った。 彼女の黒髪と象牙色の肌には、どんなにか和装が映えることだろうか・・・・・と。そして、和装は必ずと言って良いほど着用前に『体型の補正』をするものだ。これならば、失われた部分を不自然なくカバーし彼女本来の美しさを存分に生かすことが出来るのではないか・・・・と。不意に思い立ってしまった俺は、不躾にも彼女に『着付けの練習用のモデルになってはくれないか』と頼み込んだ。 始めの内は何事かと戸惑いの表情を見せていたが、元々着物に興味がありながら多忙の為それを楽しむことも出来なかったという彼女だったから、すぐに俺の話に乗ってきてくれた。 最初は病院の一室を借りて、マスタングさんと、彼女と同じ病で乳房を失った女性数人を集めて、如何に補正によって美しく和装を楽しむか・・・・という小さな会を試験的に開いただけだった。しかしそれが口コミで広がり、やがてこのセントラル病院を訪れる女性患者から注目を集め始めた。これがまたオリヴィエ姉さんにも好評で、彼女の希望により今では週に3度セントラル病院の一室で、この病院の患者とその家族であれば無償で参加できる着付け教室を開くまでになっていた。 大学と、アルバイト。それに加えて一日おきにある着付け教室。そしてアルフォンスの身の回りの世話。忙しくも充実した日々にいつしか俺は、これまで感じた事がなかった『生き甲斐』というものを見出すようになっていた。 このままアルフォンスと共に、好きな着物に関わって細々とでも生きていけるなら・・・・と。 しかし現実は、そんな夢物語など赦してくれるほど甘ったるくはないのだ。
オリヴィエ姉さんは、自分の勤務終了の時間がそう遅くならない限りは必ず帰宅前にこの病室を訪れ、アルフォンスの様子を見る事を習慣にしていた。大抵はアルフォンスの顔を見てから俺と一言二言言葉を交わし、決して長居する事無く帰って行くのが常だった。 ところが夏も終わり秋にさしかかろうかというある日の夜。 緩めに空調をきかせ灯りを落とした部屋で、いつものように夜の間だけアルフォンスのすぐ近くまで移動させたベッドに横になり本の頁をめくっていたら、思いがけず扉をノックする音が聞こえた。 手元の携帯で時刻を確認すれば、とうに午前0時を回っている。 立ち上がって扉を開けると、暗い廊下にいつになく疲れた様子のオリヴィエ姉さんが立っていた。 「やあエド。遅くにすまん。今日は急患が多くてね。人手が足りなくて他部門の手助けをしている内に、とうとうこんな時間になってしまった・・・・少し、いいだろうか?」 いつものようにアルフォンスの寝顔を覗きこみ、『全く不甲斐ない弟だ』とこれまたいつものように溜め息を吐いた彼女だったが、今日は部屋を出る素振りを見せず、手に持っていた小さなステンレス製のボトルを持ち上げて、真夜中のティータイムにしようと俺を誘ってきた。 手許のスタンドライトだけを灯した暗い部屋の中で、程良い温かさのハーブティーを口に含みながら、俺は姉さんのまるで一人語りのような話に耳を傾けていた。 「確か3年ほど前だったか・・・・・ウチの不肖の弟から過呼吸の発作を度々起こす友人についての相談を受けた事があってね。アイツは、他者を思いやる素振りをみせることが巧みではあっても、その実心底誰かを大事に思ったりしないし何にも執着しないのだ。それが弟の持って生まれた性質で変える事の出来ない心の構造なのか、それとも特殊な育てられ方をしたせいなのか・・・・それは分からない。ただ弟が、人としてあたりまえの事が出来ない自分に失望して苦しんでいるのが、長年傍で見続けていた私にはよく分かっていた。だから、その時の弟の変化にはとても驚いた。打算抜きで、その相手を心から大切にしたいと思っている弟の姿を見て・・・・・私はね・・・・本当に嬉しかったのだ。だからエドワード、君はアルフォンスにとって二つの意味で恩人なんだよ。アイツを心の欠けた人間にしてしまったと自分を責めていた両親も、アルフォンスの変化を感じ取りこの上なく喜んでいた・・・・」 いつになく雄弁なオリヴィエ姉さんの話を聞きながら、少しずつカップの中味を口に含み味わい、嚥下する。温かい液体とハーブの香りがゆったりと眠気を誘うが、俺の頭の中はアルフォンスのことで一杯だった。同じようにマグカップを一口煽った彼女はさらに続けた。 「アルフォンスがこのような状態になって、もう半年近く経つ・・・・・なぁ、エドワード。君にすっかり頼りきっている私と両親だが、私たちは君の将来について先日話し合ったのだよ。」 そう切り出されて、これまで薄々『いつくるか』と思っていた時がとうとう来たのだと唇を噛んだ。 親友という関係には程遠く、友人と呼べるまでの長い付き合いでもない。ましてや男の俺が恋人だと言い張るなど出来る訳もない。もしどんな関係なのかと問われ、それに正直に答えるのならば、ホテルを利用した客とそこの家族従業員で、それもたったの二度会っただけ・・・・・・・ただそれだけの間柄だと言う以外にないのだ。そう、対外的にいえばただそれだけが、俺とアルフォンス・ホーエンハイムとの間にある全てだった。今更ながらにそんな事を実感して、まるで氷水でも浴びせられたような気持ちになる。何の見返りも求めないとは言え、素性も良く分からない関係性の薄い俺がアルフォンスの世話を長い期間するのは、社会的に見れば確かに不自然なのだった。 女で、アルフォンスの婚約者でもあったなら、きっと何の障害もなく立てるだろうこの位置は、本来ならば俺には望んでもおいそれと手に入れられるものではないのだ。 「エドワード。君は既に就職が決まっているとは言えまだ学生の身だし、何より若く、未来がある。身を削って意識のない弟の世話をしてくれている君にこんな言い方は酷いと思うが・・・・・・互いの為に、あえてハッキリ言おう。」 いつでも単刀直入な切り出し方をする彼女にあるまじきその遠回しな前置きで、俺には彼女とそしてアルフォンスの両親が何を言いたいのかを察した。が、黙ってその先を聞いた。 「アルフォンスが目覚める可能性は、医学的に同じような症例の過去のデータから見てもほぼ絶望的なのだ、エド。愛する息子をこんな状態へと追いやってしまった自責の念に苦しむ上、更に将来有望な若者の前途までをも奪ってしまう罪に・・・・・・父と母は苦しんでいる。すまない・・・・・・すまない、エドワード・・・・!君には何と言って詫びればいいのか・・・・しかし哀しいことながら我々が生身でいる以上どこかで線引きをして、『生きて』いる人間の事情を優先させるしかないのだ・・・・だからもうこれ以上は・・・君も、諦めて欲しい・・・」 耳の後ろからほつれた髪を一筋垂らした頭を俺に向かって下げた彼女は、これまでになく神妙に、そして哀しげに言葉尻を震わせていた。 彼女の苦しみは痛いほどに理解できた。アルフォンスの両親の苦しみも、だ。 また、俺を傷つけないように言葉を選んではいるが、その奥のもうひとつの真意が言外に存在しているように感じた。 恐らく彼女と両親は、俺のあまりにも度を超した献身的な様子に、アルフォンスと俺の間に通うものの種類がただの友情ではないと悟ったのかも知れない。そして意識のない状態の我が子を俺の手に委ねる事を躊躇し始めたのだとも考えられた。 ここで俺が首を縦に振れば、きっと明日からでも金で雇われたヘルパーがアルフォンスの世話を完璧に、但し機械的にこなすだろう。そして俺は元の生活に戻り、卒業の日を待ちながら論文を仕上げ、バイトに精を出し、ごくあたりまえの学生並の日々を送るに違いない。 そうすれば当然、この先アルフォンスとの接点は無くなる。 今、俺がこの手を放してしまえば、今度こそ俺とアルフォンスを繋いでいた細い細い糸は千切れて交わることはない。もう二度と、だ。 これまで俺は、アルフォンスが目覚める事だけを信じて祈りながら過ごしてきた。けれどその一方、次第に周囲の人々の表情から希望の色が消えてゆくにつれ、はたして自分はアルフォンスへの好意や『純粋な執着』だけで今の生活を続けていたのだろうか・・・・・という疑問が頭を擡げ始めてもいた。 もしかすると俺は、3年前アルフォンスと最後に会ったあの日に自分がしてしまった事への償いをしているのではないか。そうして、自分を責め苛んでいた重荷から逃れる解放感とアルフォンスへの好意を混同させ、取り違えているのではないか。眠り続けているアルフォンスの意志の無い掌を自分の肌を滑らせることは出来ても、いざ眠りから覚めたアルフォンスが『その意図』をもって触れてくる掌を俺は受け入れられるのだろうか。 ―――――――――――――――分からなかった・・・・。 自分がアルフォンスという人間に寄せている心の正体は、いったい何なのだろう。負目や義務感からなのか、それとも本当に心の奥深くの部分からアルフォンスという人間を欲して愛しいと思っているのか。そもそもアルフォンスの気持ちだって、あの3年前と同じだとは限らないのだ。俺は電話越しに少し言葉を交わしただけでアルフォンスの気持ちに変化がないのだと勝手に思い込んだけれど、直接本人と会って話した訳ではないのだから。 ただ。 一度だけでいいのだ。その青い瞼がひらき、あの深い琥珀色の瞳を見る事さえできれば全ての答えが分かると強く感じた。その瞳に、あの日と変わらぬ熱と優しさの色を一瞬でも見つけることさえできれば、俺は喜んでこの一生全てを眠り続けるだけのアルフォンスに捧げるだろう。それだけは誓って言える。 らしくなくためらいがちに視線を合わせてくるオリヴィエ姉さんを見返す俺もまた、同じく迷いの中にいた。俺は自分の想いだけで独りよがりな行動をして、周囲を巻き込んでいるのではないか。もしアルフォンスに意識があるならば、俺がこんな事をして喜んでくれるのだろうか?それとも・・・・・。もう二度とは関わりたくないと思っていたかも知れない俺に四六時中貼りつかれ、あまつさえ意識のない身体の世話までされて、苦痛に思うだろうか。 それでも・・・・・俺は、今すぐアルフォンスの許から去るという答えを選べなかった。だから、ようやっとこれだけの言葉を口にした。 「オリヴィエ姉さん。俺がこんな生活を続けていられる期間は、あと半年もないんだ。だから・・・・冬が終わるまでは、アルフォンスと一緒にいさせて欲しい。お願いします」 頭を下げる俺に、オリビヴィエ姉さんからの返答はすぐに返ってこなかった。 が、少ししてから大きく息を吐く音がすると、下げたままだった俺の頭に温かい掌がぽんぽんと触れてきた。 「・・・・・・・・ああ・・・・強くなったのだな・・・・エドワード・・・」 これまでの、ある意味緊迫した空気をまったく無視するような緩んだ声が聞こえて顔をあげれば、既に声の主は扉へ向かって歩き始めている背中を此方に見せるのみだった。 「今夜は冷えそうだ。暖かくして休みなさい。」 結局最後まで此方に顔を向けてくる事はなったオエリヴィエ姉さんは、その一言だけを残して扉を閉じた。
これまでは漠然と、いつまでもアルフォンスとこんなふうに暮らしていけるのでは・・・・などと考えていた俺に、突然突きつけられたほぼ五ヶ月という期限。これにより俺の中に焦りが生まれたことは確かだ。 もしこのままアルフォンスが目を覚まさずにいれば、俺からアクションを起こさない限り俺たちの距離は離れてしまう一方なのだ。春からは大手の法律事務所で厳しい業務に就く事になるから、そうなってしまうとアルフォンスの許へ来られるのはせいぜい良くて週に1,2度だ。それもほんの30分かそこら顔を見る程度で帰宅せざるをえないだろう・・・・・。 そこまで考えて、ぞっとした。そんな程度ではとても耐えられないと思っている自分が、恐ろしくなった。 いつの間に俺はこんなにもアルフォンスに執着し依存するようになっていたのだろうか。これまで生きてきた中で、多分初めて抱いたこの感情の正体が分からないだけに、こんな得体の知れないモノを身体の中に飼っている俺がアルフォンスの傍にいるのは許されることなのだろうかと、なにやら後ろめたい気持ちになったりもする。 とにかく、それからの俺は毎日のように暇さえあれば、どうすれば今後もアルフォンスとずっと一緒にいられるのだろうかと方法を探り、それと同じだけ自分にアルフォンスの傍にいる資格があるのだろうか・・・と思い悩んだ。 そんなある日の出来事だった。 アルバイトやちょっとした雑用など様々な用事を済ませて病院へと戻ってきた俺は、夕方からの着付け教室で使う大きな衣装鞄を引きずりながら閑散とした病院のホールを横切ろうとしたのだが、そこで耳に慣れた声を聞き足を止めて振り向いた。 そこには痩せ型の身体に白衣を着込み黒く長い髪を後ろでひとつに束ねた男と、マスタングさんの姿があった。遠巻きに見ただけで穏やかでない雰囲気であることが分かり、俺はそのままふたりの方へと近づいていった。 「・・・・・そんな頑ななところがまた実に素敵だ・・・・・・答えは何も今すぐでなくていいのです。考えておいては頂けませんか?私ならきっと貴女に素晴らしいボディを取り戻して差しあげられるのですよ。必ず・・・・です」 「だから何度も言っているだろう、この皮被り野郎。私は今の身体で十分満足しているし、今後もそういった再建手術には興味なぞ持たん。」 「失敬な・・・どうして見もしないで私を包茎だと決め付けるんです?」 「そういうネットリべちょっとした話し方をするナルシスト系には包茎が多いのだ。私の勘では9割の確率でお前は真性包茎だ!」 あの独特の口調でとんでもないセリフを口にするマスタングさんに、俺は思わず顔を赤らめた。 「やぁ、エドワード遅かったではないか。もう皆集まっているぞ。急ぎたまえ」 『皮被り野郎』を放置したまま『教室』へと俺の袖を引いて連れて行こうとするマスタングさんに合わせて足を進めたが、突然後ろから強い力で羽交い絞めにされ、瞬く間に壁に身体を押し付けられた。何しろ俺は両手に重たい衣装鞄をぶら下げていたし、その中身は祖母の形見の品も沢山入っていたから武器にするわけにもいかず遅れを取ってしまったのだ。 「ほお・・・・これはまた美しい・・・・花のような・・・とはまさにアナタのような人を言うのでしょうね。」 「何しやがるテメェ!放しやがれ!」 壁を背にしたまま捉えられた顎を上に持ち上げられるという屈辱的な体勢に一瞬で沸点へと達した俺は、気障ったらしいいけ好かない笑みを浮かべている長髪の男を睨み上げた。白衣の胸には首から下げられたネームホルダーには『整形外科担当医 キンブリー』とあることから、どうやら先週追加された診療科の医者らしいことが分かる。また腹立たしいことに多少武術の心得があるらしく、どうやっても拘束から逃れることが出来ない。男はそんな俺をまるで舐めるような視線で見下ろすと、これ見よがしに自分の唇をベロリと舐めた。 瞬間、ザワリと背中を走るのはここ暫く忘れていたあの感覚だ。思わずヒュッと息を吸い込んでしまったのを皮切りに、途端に苦しくなる呼吸をかみ殺すことだけに必死になっていると、マスタングさんの厳しい声が割って入った。 「その手を退けてもらおうか。さもなくば痛い目を見てもらうことになるぞ」 「おお!なんと恐ろしい・・・!私は平和主義者でしてねぇ、暴力は苦手なんですよ。冗談の通じない相手もね」 わざとらしく両手を上に上げてみせながら、男は俺だけに聞こえるような声で『またお会いしましょう』と耳元で吹きかけるように言い去っていった。 「エドワード!大丈夫か?何なのだあの男は!?」 言いながら俺の手にある衣装鞄の片方を運ぼうと伸ばしてくる手をやんわりと制して、マスタングさんに笑いかけた。 「俺はなんともない。それよりマスタングさんこそ、あの男に何か失礼な事を言われたんじゃ・・・・」 「うむ。まったく失礼千万なヤツだ!いきなり私に向かって『そのメロンのような胸の片方を是非私の手で再建させては頂けませんか?』と言いやがったのだぞ。冗談ではない。私は今ではこの身体に誇りを持っているのだ。これは私という人間の歴史が刻まれた世界にただひとつのものだ。だからこそ人は美しい。無理に体裁を整えることに一体何の意味があるというのだ。」 すっかり以前の彼女に戻ったマスタングさんを見て、自然に笑みが零れた。あるがままの自分を受け入れた彼女は、なんと強くそして美しいのだろう。自分にもこの強さの半分でもあれば、自分の中にあるアルフォンスへの心を疑わず、アルフォンスを信じて、周囲の人間など気にせずに、ただアルフォンスだけを見て生きていけるのに・・・・。 それから病院内のあちこちでキンブリーとすれ違う度に、俺はヤツから過剰なスキンシップを伴う『挨拶』をされるようになった。再起不能になるまで殴りつけたいところだがまさか病院内でそんな事をするわけにもいかず、あの発作が出るのをギリギリで何とか耐えながら控えめに拳を振るうのみの自分が情けないが仕方がない。俺の立場では、早く別の病院へ飛ばされてしまえと胸の中で念じるのが精々だった。 そして、その日が来た。
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