ある男の野望 5

 

 









 

 季節が巡るのはゆっくりなようでありながら、いざ過ぎて振り返ってみればあっけない程に早いものだ。

 

 都心に移り住み、大学で学びながら糧を得る為のアルバイトにも精を出し・・・・という生活を始めてから、3年という時間は瞬く間に経過した。去年不意に到来した不景気の波のさ中に在る今、世間では方々から就職難という声があがっていたものの、俺は教授の口利きによって既に卒業後の就職先を約束されていた。

 

 大勢の弁護士や行政書士、司法書士を抱える都内最大手の法律事務所で働ける。下品な電飾に彩られた汚らわしい世界からかけ離れた場所で生きて行く。これは、俺の目標だったはずだ。それなのに、いざ就職が決まっても、勉強とバイトに打ち込む充実した日々を過ごしていてさえ、俺の心はいつでも空っぽだった。

 そう、あの日・・・・・・アルフォンス・ホーエンハイムと最後に会った日からずっと・・・・・・・・だ。

 

 

 

 3年前のあの日、アルフォンスが部屋を出て行った後ベッド脇で見つけた粉々に千切られた名刺は、セロテープで何ともみすぼらしい姿に復元され、またしてもコルクボードの隅に貼られている。あまりに細かく千切られていた為、そこに記されていた携帯の番号はもう読み取れない。それでも捨てることなど微塵も思いつかなかった俺は、あの日泣きじゃくりながら紙片を繋ぎ合わせたそれを、馬鹿馬鹿しい事にまるで宝物のように大事に持ち続けていた。

 けれどもそれは、再びめぐり逢いたいとか、あの時に戻ってやり直したいなどという虫の良い願望があっての事では決してない。

 あの後もきっと自分の本意に背いた辛い仕事を続けているだろうアイツが、せめて心安らげる唯一の相手と出会い、幸せになっていてくれればいいと願いながらこの紙片を見ることが、俺の日課になっていたからだ。

 我ながら笑ってしまうほどのセンチメンタリズムだという自覚はあるが、たった3回会っただけの短い間、俺に様々な感情を教えてくれた恩人でもあるアルフォンスの幸せを願うのは、自分の中ではごく当たり前のことだったのだ。

 

 

 

 

 卒業する為の必須単位は全て習得済みであったが、在学中は規定の上限まで可能なだけ受講をしながら卒業論文に取り掛かる。

 リン・ヤオから久しぶりのメールがきたのは冬も終わりに差し掛かった、そんなある日の事だった。

 

 国の本質を理解するには、統計データや報告書の整理されたレポートではなく、実際にその国の風俗を体感するのが一番手っ取り早くて確実である。

 説得力があるのかないのか理解に苦しむそんな持論を堂々と掲げて、複数の国を渡り歩きながら勝手気ままな武者修行を楽しんでいた『将来シン国の政界の上層部に食い込み、あわよくば主権を手にしようと目論見を抱く野心家』が、ふらりとニポン国に舞い戻ってきて、俺に会いたいと連絡を寄こしてきたのだ。

 

 

 講義を終えた足で待ち合わせ場所のドーナツショップへと行き自動ドアをくぐれば、店の一番奥の席に、すっかり日に焼け見違えるように筋骨逞しい青年へと成長を遂げた三年振りに見る顔があった。

 

「坊ちゃん・・・・・!!」

 

「オウ、久しぶりだな。つーか、お前、いい加減『坊ちゃん』は止めろよ」

 

 アルフォンス・ホーエンハイムとの一件の後、その丁度同じ頃ニポン国を離れたリン・ヤオは、三年前でさえ頭ひとつ分程あった俺との身長差をさらに広げていた。再会の喜びに興奮したのか席から立ち上がる男の顔は、俺からすると随分と高い位置にあり、すぐ脇で見上げるには苦しいものがあった。

 

「坊ちゃん、ハグしてもいいカナ?」

 

「俺は高ぇぞ?ハグ一回につき262円だ」

 

 このドーナツショップのコーヒー一杯の金額を言えばリン・ヤオはたちまち破顔し、長い腕を俺の体に巻きつけると一度だけぎゅっと力を入れてすぐに離れた。俺の『持病』を気遣っての事だろう。飄々として何事にも頓着しない無神経というキャラを演じてはいるが、実は繊細で豊かな感受性を持ち合わせた気配り屋なこの男が、俺は結構気に入っていた。

 俺を椅子に座らせ一度席を離れたリン・ヤオは、コーヒーと一体誰がこんなに沢山食べるのかという量のドーナツやらパイやらをドッサリ乗せたトレイを手に戻って来た。

 

「・・・・・・お前・・・・これ全部食ったら血糖値ヤバイ事になるぜ?」

 

「ウウン。ボクじゃないヨ。坊ちゃんが食べるんだヨ」

 

「はぁ!?」

 

 実は甘いものがあまり得意でない俺は、にっこりと笑うリン・ヤオの突飛な宣言に途方に暮れた。それは確かに、昔は自称貧乏留学生のこいつに度々泣き付かれてはコンビニのおでんやら駅前の屋台で売っているタコ焼きやらを買ってやることも一度や二度や三度ではなかったが、これがそのお返しだというのなら、少々遠慮したい気分だった。

 リン・ヤオを見れば、いつもはまるで線を引いたように細い目をじっと見開いて、何故か切羽詰った表情で俺を見ている。

 

「・・・・・どうした?修行先で何かあったのか、リン?」

 

「何かあったのかって・・・・ソレはボクのセリフだヨ。坊ちゃん、実家には帰ってるノ?」

 

「?いや、全然」

 

 話の筋が全く見えぬまま脈略のない質問に答えると、リン・ヤオは途端にまくし立て始めた。

 

「道理でそんな状態な訳ダ・・・。何だよ坊ちゃん、ソノ顔色は何?元々スリムだったケド、そのガリガリの体は何ダヨ!?ハグしたら骨だけじゃないカ!ご飯食べてるノ?食べてないダロ?夜も眠ってるノ?坊ちゃん、どうシテ自分で自分のコトを大事にしないンダ!?久しぶりに逢えるのを楽しみにしてたノニ、今にも倒れそうにふらふら歩いてル坊ちゃんの姿を見たボクの気持ちが分かるカイ?ちょっとでいいから、これを食べるンダ。そしたらボクと一緒に病院に行こう、今すぐにダ!!」

 

リン・ヤオの剣幕と『病院』という思ってもなかった単語に、俺は面食らった。

 

「オイ、リン。深刻そうな顔をして何を言うかと思えばお前・・・・・別にそこそこフツーに食ってるし、ちゃんと寝てるっての。大袈裟なんだよお前」

 

 苦笑しながら、実は目の前のドーナツの山から立ち昇る油と砂糖の匂いに気分が悪くなっていた俺は、それを誤魔化すようにコーヒーを口にした。

 確かに、ひとり暮らしを始めてからというもの勉強とバイトに忙しく、足りない時間は食事や睡眠の為の時間を削って回していたから、自分の不摂生振りは多少自覚していた。しかし、リン・ヤオが心配するほどの状態ではないはずだ。上京したばかりの頃には丁度良かったサイズの服が、いわれてみれば多少ダボつくようになった気はするが、特にどこか具合が悪いという訳ではないのだから。

それを言えば、リン・ヤオは切れ長の目をさらに吊り上げた。

 

「自覚すらないノカ!?最悪ダ!坊ちゃんがなんと言っても、ボクはこれから坊ちゃんを病院に連れて行くヨ!」

 

「せいぜい栄養剤の点滴される程度だろ?いいよ、帰ってがっつりメシ食えば同じ事だろ?」

 

 店のスタッフに持って来させたテイクアウト用の箱にトレイの上のドーナツを詰めながら、リン・ヤオは心底あきれ返った表情で首を振った。

 

「坊ちゃん。確かに直ぐにブドウ糖の点滴も必要かも知れナイけどネ、坊ちゃんが行くべきなのは『心療内科』って奴ダヨ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「オリヴィエ姉サマ〜〜〜〜〜久しぶりダネ〜〜〜!!!」

 

「ええい!ウザい!寄るな!」

 

「そんナァ〜〜〜〜!!!でもそんなツレナイとこがまた素敵ダァァァァァ!!!」

 

「黙れ!その口、外科に回して縫合するぞ!!」

 

「ワハハハハハハ!本当にされそうダァ〜〜!怖イ〜〜〜〜!」

 

 目前で展開される光景を、俺は患者用の丸椅子に座ったまま所在無く眺めていた。

だらしなくヤニ下がったリン・ヤオとそして、長い金髪をした見事に鍛え上げられた体躯の勇ましい女医が久々の再会の挨拶を交わしているらしい。

 その女医が首から提げているネームホルダーには、『ホーエンハイム』という文字が見えた。

リン・ヤオと旧知の仲らしい事からも、どうやらこの女医が、アルフォンス・ホーエンハイムが以前言っていた、心療内科の医者をしているというヤツの姉なのだろう。

 いつまでも付きまとって離れようとしないリン・ヤオを見事な上段蹴りで診察室の外へ蹴り出すと、気さくな笑みを浮かべて俺に向き直る。

 

「さて・・・・エドワード君といったかな?これまでこういった科にかかった事は?」

 

「ありません」

 

「ふむ、なるほど・・・ああ、そう硬くならずに。ここを病院と思ってはいけない。まぁ、飲みなさい。ハーブティーだ、鎮静作用がある」

 

 診察室の医者の机の上に何故か当たり前のように置いてあるティーセットで入れた茶を俺に手渡し、自分もティーカップを口に運んでいる女医を、不躾にもまじまじと見てしまう。白衣の上からでも分かる見事な上腕筋に、ズボンの張り詰めた布地から自己主張をするこれまた立派な大腿筋。もし患者が言う事を聞かずに不摂生を続ければ、この筋肉隆々の身体から恐ろしい必殺技が繰り出されでもするのだろうか。

 

「私の顔が何か気になるのかな?」

 

「いえッ!あ・・・!スイマセン・・・・!べッ・・・別に、何も・・・・・」

 

 失礼にもガン見していた俺は慌てて詫びたが、さして気にとめた様子もなく、「ところで・・・」と女医は話を始めた。

 

「聞けば過呼吸症の発作を度々起こしていたらしいが、それは今でも頻繁に?」

 

 たった今初めて会ったばかりの相手にそう聞かれ、思わず身構えた。リン・ヤオからあらかじめ俺の『持病』について話がいっていたのだろうか?例え医者相手だとしても、これは人前には決して晒したくない自分の最大の弱みであり、ましてやその部分をこうしてほじくり出され挙句荷物検査のように詳細をひとつひとつ陳列して検分されるなど冗談でも御免だった。

 たちまち険しくなった俺の表情を見た女医は、残りの茶を飲みながらゆったりと足を組むとあらぬ方向に目線をやり、まるで独り言のように言った。

 

「・・・・君と同じような目をした奴がごく身近にいるのだが・・・・・私は身内としてヤツの事が非常に心配でね。そんな訳で勝手ながら、どうも君の事も他人事とは思えないのだ・・・・・・だからコレは医者としてというよりも、一個人としての私が年下の君に老婆心からする口煩い忠告だと思って欲しいんだが・・・・」

 

 望ましくない事態を回避できた安堵にこっそり溜息を漏らしながら俺が神妙に頷くのを見ると、女医は、慈愛に満ちた目線で問いかけた。

 

「ひとつだけ聞こう、但しその答えは私にすることはない。君が自分自身に問いかけて、良く考えてみるといいよ・・・・エドワード君・・・・・君に『希望』はあるのか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 医院長でもあるホーエンハイム医師の身内同然であるリン・ヤオの友人だからという理由で診療代金を受け取って貰えぬまま、緊張を緩和する作用がある漢方薬が入っているらしい薬袋を手に病院から出た俺は、何故かその後もしつこく付きまとうリン・ヤオを後ろに従えつつ帰路についた。

 電車を乗り継ぎ、降りた駅からは徒歩で辿りついた住み慣れた部屋のドアの前まで、リン・ヤオは当たり前のように付いてきて、鍵穴に鍵を挿し込んでいる俺の横に立ち、この部屋の住人である俺よりも先に部屋へ入る気満々な様子だ。

 

「わぁ!坊ちゃんの部屋、初めて入ったヨォ〜〜・・・・・・・・ん?・・・・・ウ・・・・・ン」

 

 嬉々として靴を脱ぎ、遠慮なく奥へと入って行ったリン・ヤオだったが、部屋の全景をぐるりと見渡した後、急に無口になってしまった。

 

「・・・・・なんだよ?あまりに質素な生活ぶりでガッカリしたのか?だからここに来るまで散々言ったろ?俺、ホントにビンボーなんだって」

 

 俺の部屋は、家電といえばクーラーボックスのように小さな冷蔵庫と電子レンジとエアコンがあるくらいで(これらは全て入居時に部屋に付いていたものだ)、あとはベッドと机とノートパソコンを除けば、残る全てのスペースは本で埋め尽くされている。収まる筈がないのは分かりきっていたから始めから本棚は置いておらず、ハードカバーの分厚い専門書や書き殴ったレポート用紙の綴り等が部屋中の至る所に積み上げられている。一応自分としては機能的に分類してある本の塔は俺の身長に迫る高さのものもあり、近頃何度か崩落事故を起こしては下の部屋の住人から苦情を貰っていた。

 我ながら人間が日常生活を送る場所とは思えない空間であるという自覚はあるのだが、リン・ヤオの嘆きようと言ったらなかった。

 

「坊ちゃん・・・!坊ちゃん・・・坊ちゃん、コレは酷いヨ!あんまりだヨ・・・ベッドまで半分本に占領されテルッ!アアアッ!?冷蔵庫の中にミネラルウォーターとお徳用ピーナツチョコレートとお徳用大袋の煮干ししか入ってないヨ〜〜〜〜ッ!?」

 

「わざわざ『お徳用』言うな!つーか、勝手に人ンちの冷蔵庫開けてんじゃねぇよ!」

 

 図々しく上がり込んだ上に、人の断りも得ずに冷蔵庫の中まで物色するリン・ヤオの束ねた後ろ髪を引っ張れば、グルリと凄い勢いで俺に向き直り顔を近づけて睨まれた。

 

「坊ちゃん!今日の朝から何食べたか言ってみナ!!」

 

 あまりの迫力に、俺は馬鹿正直に答えた。

 

「・・・・く・・・・食ってねェ」

 

「昨日の朝は?昼は?夜は!?」

 

「・・・・夕方頃、水飲んで・・・ええと・・煮干し食った・・・・ような気がする・・・・」

 

「・・・・・・・・・・」

 

 その場に座って黙りこくってしまった男の前に買い置きのミネラルウォーターのボトルを置いてやり、自分はベッドに座って何となく本の配置を直してみたりする。

 暫くそうしていると、やがて溜め息が聞こえ、リン・ヤオが諭すような口調で話し始めた。これまで俺が知るリン・ヤオならではの飄々としたどこか軽薄そうな話し方とは全く違う、初めて聞く口調だった。

 

「・・・・ねぇ坊ちゃん。アノネ・・・・ボクの国ではね、長い長い歴史の中で民衆は常に貧困と共にあったンダ。お米も油も家畜も野菜も殆ど手に入らない状態で・・・・でも、生きる為には食べなくてはイケナイ。食べるという事が、何より一番大事なことだっタ。だからお客が来た時には、大事にとっておいた米や油を惜しげもなく使って食べきれない程沢山の料理でもてなすンダ。シン国の食文化が殊更発達したのは、きっとそんな背景があったからダと思ウ。時代が変わった今でも、見知った者同士の挨拶にはちゃんとその時代の名残があるヨ。ニポン国では『良い天気だネ』とか言うデショ?シン国ではネ、『ご飯食べたカイ?』って言うんだヨ・・・・坊ちゃん。食べられない事・・・・それはネ、生きられないって事ナンダヨ」

 

 先程連れて行かれた病院でホーエンハイム医師に投げかけられた問いと、そして今リン・ヤオに言われたあまりにも当たり前な言葉とが、俺の胸の内に並んでいた。

 考えようとしていなかっただけで、言われるまでもなく俺はもう既に分かっていた。このままでは、自分が駄目になってしまうだろう事を。

 恐らくあの日、アルフォンス・ホーエンハイムとの決別を決めたあの時から、自分を形成している核から何かが絶えず流れ出して、『俺』という存在を危うくしているのだという事を。

 

 

 

 あの安っぽい下品な電飾が点滅する、ヘドロのような欲望にまみれた世界から遠ざかりたい・・・・・ただそれだけの理由で俺は自分の道を決めてしまった。ホーエンハイム医師は何も聞かぬまま、俺が『希望』ではなく『逃避』の道を歩いている事を見抜いていたのだろう。

 

 けれど、今の俺には、その現状をどうにかしようという気力は既になかった。ただ惰性に任せて、その日その日を生きていくだけで手一杯だった。人間は、目標や希望があってこそ意欲が湧き、それを糧にするからこそ前向きに日々を過ごせるものだ。俺にはその源となるべき希望が、ごっそりと欠落していた。ただ唯一あるのは、アルフォンス・ホーエンハイムが俺に見せてくれたような笑顔で今も笑っていてくれていたらという望みくらいなものだった。

 

 俺の思考と被るようにリン・ヤオの口からその名が出て、心臓が大袈裟に反応した。

 

「え・・・・?」

 

「だから坊ちゃん、あれからアルフォンスがどうしてるか知ってるのって聞いてるンダヨ」

 

「いや・・・・俺は何も・・・・リンこそ、あいつとは昔馴染みなんだろ?」

 

「そうダヨ。今でも僕は時々連絡をとったり会ったりしてるヨ・・・・・・そうか。じゃあ坊ちゃんは何も知らないンダネ」

 

 妙に含みを持たせた言い回しが気になった俺がリン・ヤオを凝視したところで、奴はまるで焦らすように話の矛先を逸らした。

 

「それよりサ〜〜〜〜坊ちゃん。ボク腹ペコなんだよネ〜〜カップ麺とかでいいんだケドご馳走してくれないカナ〜〜〜?」

 

 言いながら勝手にミニキッチンの物入れを物色している後ろ姿に舌打ちをしつつ、どうせ一人で3個は平らげてしまうだろうと見越してヤカンに多めの水を入れ、コンロにかけた。

 買ったものの長い間しまいっ放しになっていたカップ入りのインスタントラーメンの消費期限は些か怪しかったが、どうせそんな事に頓着する人間ではないから黙っていれば、案の定消費期限の表示など全く気にする様子もなく、リン・ヤオは幸せそうな顔でいそいそと選び出した3個のカップ麺の蓋を開けて、かやくや粉末状のスープを投入している。

 

「あ、坊ちゃんも食べるカイ?」

 

「いらね」

 

 湯を沸かしている間、さっきのドーナツショップから持ち帰って来た大量のドーナツをマクマクと頬張りながら俺の手にも無理やりパイを持たせるリン・ヤオに、いつになったらさっきの話の続きが聞けるのかとイライラしてミネラルウォーターのボトルをあおったところで、ようやく咀嚼しながらボソボソと話が再開された。

 

「アルフォンスはネェ、殆ど身内みたいな立場のボクが言うのも何だケド、あまりにも優秀なんだよネェ。ちょっと異常なくらいにネ。持って生まれた才能っていうのもあるンだろうケド、小さい頃から経済やら政治やら帝王学みたいなモノとか・・・そりゃあもう半端ナイ英才教育を受けてネェ、フツーの子供みたいな遊びなんて、きっと体験したことすらないんだと思うヨ。その所為か、人間として重要なパーツが抜け落ちちゃってるんだヨネ。うん〜〜〜〜なんて言うのカナ・・・・感情を理屈だけで理解している・・とでも言うのカナァ・・・・とにかく表情に乏しい奴でサ。人間らしい感情を持ってるのが疑わしい感じなんだヨネ。そんなだからサ、アイツと損得抜きでの友達付き合いをしてるヤツなんて、ボクだけだと思うんだヨ」

 

 俺の知っているアルフォンス・ホーエンハイムは、確かに全く体温を感じさせない冷徹な部分もありはしたが、それ以上に感情豊かに目まぐるしく表情を変える一面も持っていた。何より、人の情を理屈でしか理解しないような人間では決してない。だからその言葉に大きな違和感を覚えた俺は、自分より遙かに付き合いが長く奴を理解している筈のリン・ヤオに、まるで弁明するように返してしまった。

 

「アイツはそんな人間じゃねぇ。人一倍繊細で、感情豊かで、傷つきやすくて・・・・・・・・優しい奴だ。どこも・・・何も抜け落ちてなんていねぇ。じゃあ聞くが、なんでお前はそんな冷たい人間と損得抜きでこれまで付きあってこれたんだよ、リン!?」

 

 少々興奮気味になってしまった俺とは対照的に至って冷静な様子を崩さないリン・ヤオは、まだ3分経っていないカップ麺の紙蓋を剥がすと両手を合わせて『イタダキマス』と言うなり、まだ固そうなラーメンをズルズルと啜り始めた。あまりにもマイペースなリン・ヤオに調子を狂わされるまいと、俺は忍耐強く話の先を待った。

 

 

 

 恐るべきスピードで3個のカップ麺を平らげてしまったリン・ヤオは、満足そうな表情でミネラルウォーターを一気飲みして、ようやく中断していた話を続けた。

 

「・・・・・・あれが本当のアルフォンスの姿じゃないって分かるヒトは希少だヨ。ボクが思うに、それが分かるのは余程長い間アイツの傍にいた人間か、でなければアイツと似通った人生を生きてる人間だけだと思ウ・・・・・坊ちゃんみたいにネ」

 

「は?なんで俺が・・・・」

 

 急に自分に話をふられて声を上げる俺に構わずに、リン・ヤオの言葉は途切れることなく続いた。

 

「坊ちゃんを初めて見たとき思ったヨ『アルフォンスと同じ目をしてるナァ』ってネ。坊ちゃんもアルフォンスもさ、懸命に生きているようでいて、実は自分の人生に対してものすごく投げやりで無気力なんだヨネェ。でもサ、あの日偶然にもあのホテルに来たアイツは今まで見たことも無い顔してたんダヨ?あの冷静沈着で取り乱すなんてした事が無いアルフォンスがサ、頬を真っ赤にして『あの着付け師のコを紹介しろ』って凄い剣幕でボクに掴みかかってくるんだ!アレは傑作だったナァ〜〜〜!ワッハッハッハッハッハ!」

 

胡坐をかいた膝を叩いて思い出し笑いをするリン・ヤオの言葉を、信じられない気持ちで俺は聞いていた。

リン・ヤオの言葉を信じるならば、アルフォンスは俺が初めて会ったときに抱いた印象そのままの冷たく喜怒哀楽に乏しい人間として周囲から認識されていて、けれども何故か俺に対してだけはまるで子供のような一面さえ垣間見せる程目まぐるしく表情を変え感情を表現していた・・・・という事になるのだ。

驚きと同時に、胸の奥深い部分が疼いた。

 

「・・・・・ナァ、坊ちゃん。何があったのかは知らないケド、坊ちゃんと会わなくなってからのアルフォンスはサ、それまで以上に無表情だし冷酷無比っぷりにも拍車が掛かって、まったく他人の心を省みない悪魔になっちゃったんだヨ。相変わらず汚い仕事ばっかりやってるケドネェ、あまりにもやり方があくどいから敵ばっかり作ってて、その内恨みを持った誰かに消されるんじゃないかってボクは本気で心配してるンダ」

 

 いかにも弱りきった表情で、すがるような眼差しを寄越されて、ようやく俺は思い至る。

 

「・・・・・リンお前まさか、だから俺にアイツをどうにかしろって言ってる訳じゃねぇだろうな?」

 

「言ってる訳なんだヨ〜〜〜坊ちゃぁぁぁぁん!ヤッパリ坊ちゃんは何年経っても変わらず優しいヒトだなナ〜〜!だからサ、坊ちゃんならきっとアルフォンスを真人間に更生させられるに違いないンダ!!ネェ〜〜後生ダカラ〜〜!!!」

 

「ひっつくなぁ〜〜〜〜〜っ!!!!」

 

 泣きついてくるところを先程のホーエンハイム医師のように足技のみで玄関先まで転がしてやれば、リン・ヤオはまったくダメージなど無い様子で立ちあがって服に付いた埃を一通りはたき、俺に向き直った。その目はまたしても真剣そのもので、リン・ヤオが心底アルフォンスの事を気にかけているのだとうかがえた。

 

「・・・・・・・・・・坊ちゃん」

 

 まだ縋るような目で見てくるリン・ヤオに、俺は根負けせざるを得なかった。

 

「・・・・・・ったよ・・・・分かった!ただし!俺はもう、アイツとは会わないって決めたんだ。だから、ちょこっと電話で話をするだけだからな!?それ以上のことは出来ねぇぞ」

 

「ウン・・・ウン!それだけでも良いヨ!坊ちゃんの声が聞けて、話ができるだけでも、今のアルフォンスにとってはきっといいキッカケになるはずダヨ!」

 

 言いながら丁度脇に積んであった古雑誌の空白部分にサラサラと電話番号を書き付けると、用は済んだとばかりに薄汚れたコンバースに足を突っ込んだ男は、今度は予告も断りもなしにギュッと俺に抱きつきデカイ掌で俺の背中をバンバン叩くと、そのままドアを押して出て行った。

 

「ジャーヨゥ(加油)坊チャン!」

 

 後ろ手に拳を突き上げ母国語でエールらしきものを寄越しつつ遠ざかるリン・ヤオの背中を見送りながら、俺は自分の中でせめぎあう二つの気持ちに複雑な心境だった。

 

 三年前のあの日、アルフォンスは折角俺のような出来損ないに心を向けて必死に胸の内をさらけ出してくれたのに、俺はそんなあいつを傷つけることしか出来なかったのだ。

 今また声だけとはいえ、この俺がアイツにとってプラスの要因を与えてやれるとはとても考えられなかった。けれど電話だけはすると、たった今リン・ヤオと約束してしまったから、しない訳にはいかない・・・・・・・・・・・ ・・・いや、違う。そうではない。

 俺は、本当はこんなきっかけをずっと心の奥底で待ち続けていたのだ。近付けばアイツを苦しめてしまうだけだと知りながら、それでもできるだけアイツの近くに居たい。俺は多分、ずっとそう思い続けていた。もしかすると、リン・ヤオは俺のこの気持ちを知っていて、わざとアルフォンスの状態を大袈裟に話してきっかけを作ろうとしたのではないか・・・・・?そんな気さえする。

 

 どうしたらいいのか答えなど出せぬまま、俺の手はしっかりと雑誌の隅に書き付けられたナンバーを拾って携帯のボタンを押していた。実際にアルフォンスの声を聞いたところで、何を言えばいいのかすら見当もつかないというのに。

 ぼんやりと玄関ドアにもたれながら、聞こえてくるコール音に耳を傾けていた。何度かの後その音が途切れると、機械のように冷たい男の声がした。

 

「・・・はい?」

 

 初めて聞いた時よりもまたさらに冷たさと硬質さを増したその声は、電話ではなく直接耳にすれば心臓を凍らせるほどの冷酷さを感じさせるに違いない。思わずたじろんだ俺は、直ぐに声を出せなかった。

 

「もしもし?どなたです?御用がないのでしたら切らせてもらいますが」

 

 その言葉をきっかけに、俺は慌てて声を発した。ここで切られでもしたら、きっともう二度と電話をかけることなど出来そうにない。

 

「ア・・ッ!アル・・・・・・」

 

「・・・・・・・・・エド・・・・・?」

 

 たった一言だけで俺だと分かってくれたことに、正直にも俺の胸は歓喜に震えたが、どうにか平静を装った声を出す。

 

「ごめんな・・・・急に、電話して。今、時間大丈夫か?」

 

 控え目にそう言えば、最初に出した声を嘘のようにがらりと変えて、まるきり余裕のない口調で息せき切って「大丈夫だよ」と答えてくる。ああ、やっぱり変わらない。アルフォンスは、三年前のままだった。

 

「エド、元気だった?今何処に居るの?リンからこの番号を聞いたんだね?」

 

 矢継ぎ早に質問をしてくるアルフォンスの声を聞いて、さっきまでの迷いや緊張は一気にどこかへ去ってしまい思わず頬が緩んでしまう。我ながらゲンキンだとは思いながらも、アルフォンスの声が聞けた嬉しさを抑えることなど出来ない。けれど、俺は唇を噛んでそれに耐えた。

 ・・・・傍にいれば、またあの日と同じ事を繰り返してしまうのは目に見えている。アルフォンスだって好き好んで良心や道徳観念をないがしろにしている訳ではないが、だからといって嫌だからそんな仕事に手を染めるのは止めて欲しいなどと俺が言えるべきことではない。そして、アルフォンスが時にするだろうその行いを受け入れることができないのは、3年経った今でも変わってはいない。つまり俺は、アルフォンスにとって障害にしかならない存在なのだ。

 

 あまり多く会話を交わしてしまうと電話を切るタイミングを逃してしまうと感じた俺は、アルフォンスの問いには答えずに言った。

 

「アル・・・・リンから聞いた。あんまり無茶やるな。リンが心配してるぜ?お前にはお前なりの信念があってのことだろうけど、でも、俺もお前が心配なんだよ。だから・・・・」

 

 言いかけた言葉を、アルフォンスの乾いた笑いが遮った。全てを諦めたような力ない笑いは、まるですすり泣きのようにも聞こえ、俺の不安を募らせた。

 

「・・・・・・・・信念・・・・・・・そんなご大層なもの、これまで一度だって持ったことなんてないよ、エド。僕はただ、機械のようにOSとデータを詰め込まれてその通りに動いていただけだ。僕がしている事に、僕自身の意思が反映されていたことなんてないんだ・・・・情けないだろ・・?」

 

 アルフォンスの言葉に愕然としながらも、心のどこかでは『ああ、そうか』とすんなり納得する自分がいた。アルフォンス・・・・・・『お前も』なんだな――――――――と。

 

 

 ―――――――そして、光明が見えた。同時に、これまで感じた事のないエネルギーの塊がどこからともなく湧き出で俺を突き動かそうとしているようだ。

 

 そうだ。俺はこれまで、アルフォンスが決めた信念に沿って行動しているならばと思い、アルフォンスの行いを止められなかったのだ。けれどそれがそもそもアルフォンス自身の考えでないのなら、俺は身体を張ってでも止めてやれる。

 

「僕は昔からこうだ。自分の意思がどこにあるのかすら分からないまま生きてる・・・・・こんなの、生きてるって言えるのかな。でも、あの日・・・エドに会った日、今まで一度も感じた事がない気持ちになったよ。僕はね・・・・・・・」

 

 アルフォンスが力なく言葉を紡ぐ後ろで、インターホンの音が響いている。俺はすっかり頭がのぼせあがっていた所為で今になってようやく気付いたのだが、その音は随分と前からしていたような気がする。そしてアルフォンスも、この来訪者が一度対応しない限り延々とインターホンを鳴らし続けるだろうと悟ったのか、『そのまま・・・・電話、切らないで』と言い、電話を持ったまま玄関へと向かっているらしい足音が聞こえた。

 

 アルフォンスの溜め息、ロックを解除する音、そしてドアの開く音が続き・・・・・・・異変は、その直後だった。

女のものらしい悲鳴じみた呻き声がしたと同時に、ガツンと大きな異音がした。アルフォンスが携帯を落としたのだ。

 

『・・・・・アアアアアア――――――ッ!!!』

 

『・・・・・・・・・・・・ッ!?』

 

『――――――――――――!!!』

 

『・・・・・・・勘違いも・・・・・大概に・・・・・』

 

『―――――――――――!!』

 

 意味を成さない不気味な女の声と、人が揉み合う音・・・・・・そして、途切れ途切れに聞こえてくるアルフォンスの声が何故か擦れていた。嫌な予感が俺の全身を支配し、総毛立つ感覚を味わった。

 

「アルッ!?アル!!アル――――ッ!!!どうしたッ!?返事しろ・・・・!!!」

 

 やがて物音が聞こえなくなった向こう側で、小さな小さな声がした。

 

『・・・・・お前になんか・・・・・髪一本だってやらないよ・・・・僕は・・・・・エドのものだ・・・・・』

 

「アル―――――――――――――――!!!!」

 

 直後、俺は財布を引っ掴んでアパートの階段を落ちるように駆け降り、2軒隣にあるコンビニの公衆電話に飛びついた。アルフォンスと繋がったままの携帯からリン・ヤオのナンバーを呼び出し、ボタンを押す。一秒でも惜しい。早く電話に出てくれと祈りながら、携帯でアルフォンスに呼び掛け続けた。この嫌な予感が、どうか予感だけで済んで欲しい。

 

『アア〜イ坊ちゃんカナー?どうだっタぁ!?』

 

 間延びしたいつもの声に、怒鳴り返した。

 

「アルの部屋に救急車呼べ!!で、俺にアルの部屋の住所教えろ―――――ッ!!」

 

 

 

 

 





テキストTOPへ      4へ     6へ