ある男の野望 4
「あれはね・・・・・僕の仕事の一環なんだ。あの子は民民自由党内の二大派閥の一方を牛耳ってるグラマンの家の住み込み家政婦でね。今度の総選挙前に、ホーエンハイム派に不満を持つ議員をごっそり引き抜いて新党を発足させて寝首を掻こうと水面下で姑息な工作をしてるから、その前に個人的なスキャンダルで彼を失脚させる必要があった。・・・・・あれは、彼女にグラマンのお稚児遊びの証拠写真を持ち出してもらう為の交換条件だったんだ・・・・・・・秘書なんていってもね、している仕事の大半はこんな汚い裏工作ばかりなんだよ」
最後には自嘲的な乾いた笑いを零しながら言う様子に、これまでアルフォンスにはアルフォンスなりの苦しい葛藤があったのだと知る。しかし、私設第一秘書として暗躍するその実態を本人の口から直に知らされると、薄々分かっていたつもりではいたものの衝撃は大きかった。 あの時の様子からすると、あの女はきっとコイツに心底惚れている。鈍い俺でも分かるほどにだ。その女の気持ちを知りながら・・・・いや、知っているからこそ、アルフォンスはそれを利用したのだ。そして、セックスという行為を、愛情を確かめる為にではなく、ただの報酬として行った。それは俺にとって、耐えがたい事実だった。 俺が性的な行為に拒否反応を起こしてしまうのは、つまるところ『それは元来神聖なものでなければならない』という強固な観念が根底にあるからだ。幼いころから俺が日々再三に渡って目にしてきたのは、性をあまりにも軽々しく扱い快楽だけを浅ましく奔放に貪る人間の姿ばかりだった。そんな俺だから、愛情イコールセックスという図式が自分の中で上手く構築されないままこれまで生きてきた。けれど今、アルフォンスという人間に出会った事で、自分の中の何かが変わりそうな予感がしていたのだ。アルフォンスならば・・・・この誠実で純粋な目を俺に向けてくる男とならば、自分の中で凝り固まっていた観念とは違う答えを導き出せるのではないか・・・と迂闊にも期待した俺は、やはり安直に浮かれ過ぎていたのかも知れない。
アルフォンスにしてみれば、仕事上やむなくした事だろう。しかし俺は、他でもないアルフォンスだからこそ、それをした事実を受け入れられなかった。 人は生身でいる以上、所詮綺麗なだけでは生きられないのだと理屈では分かっていながらも、自分の殻に閉じこもってばかりで、孵化出来ぬまま一生を終えようとする蛹のような俺だ。だから変われないのだと、知っているのに踏み出せずにいる意気地のない自分には、アルフォンスを責める資格などないのに・・・・。
「・・・・・・・証拠を持ち出す代わりに抱けって言ってきたのか・・・・・それで、お前はその条件を飲んだんだな?」
仕事として自分の役割を全うしているアルフォンスを、どうしても責めるような口調になってしまうのが苦しかった。アルフォンスもまた、酷く傷ついた顔で小さく頷いた。
さっきまで一瞬だけ高揚していた気持ちが、途端に苦く重苦しいものに変わってしまった。
初めて会った時、ドア越しに聞いた氷のような声の男。きっとそれと同じ冷めた目で、あの女を抱いただろう男。私設秘書として首相の後ろで隙のない物腰をみせつける男。その一方で屈託のない笑顔で笑い、些細なことに喜び、項垂れ、そして全身全霊で愛を語る誠実で可愛い男。 一体、どれが本当のアルフォンスなのか・・・・・・・?俺は混乱し、そして分からなくなった。
「・・・・・・僕を、汚いと思う・・・・・?許せない?酷い男だって・・・・・?」
恐らくアルフォンスは、自分が一番見られたくない汚点をあえて俺の前に晒したのだ。俺への想いが本物だと証明する、ただそれだけの為に。だから、俺はここでアルフォンスの痛みをくみ取って、示してくれた誠意ごと全てを受け入れるべきなのだろう。 しかし、舌が上顎に貼り付いたように動かせず、かけるべき言葉が出てこない。アルフォンスを見れば、相手もまた、これ以上の言葉を紡げずに俺からの応えを待っているようだった。
互いに目を逸らしたまま、どれだけ沈黙が続いただろうか。途轍もなく長く感じたのは気のせいで、実際にはほんの一瞬だったかも知れないが、とにかくその均衡を破ったのは、俺のボトムのポケットで再び自己主張をする携帯電話の着信音だった。 『主よ、人の望みの喜びよ』 数年前他界した祖母が好きで、毎日飽きることなく何度もエンドレスで流して聞いていた曲だ。仕事に忙しい両親は、週の半分は幼い俺をこの祖母の家へ預けていたから、祖母は俺の育ての親のようなものだ。そして奔放すぎるあまりやや道徳に欠けた部分のある両親とは対照的に、古き良きこの国に伝わる品格とつつしみを持った祖母が俺は大好きだった。幼い頃は、祖母の家にいる間はずっと祖母の後をついて回り、やることなすこと全てを真似た。 祖母は自宅で着物の着付けや茶や花などを教えていたから、自然それらの所作が俺の身につくのは道理で、俺が特に関心を示した和装についての知識全般をそれとなく、しかしながら熱心に教示してくれたものだった。
その祖母が亡くなってからというもの、俺は生前祖母が聞いていたこの曲を、祖母と同じように日々飽きることなく身の回りに置いて過ごすようになっていたのだ。
延々と繰り返される、耳に馴染んだその旋律。 こんな場面で電話に出ることもはばかられ、相手が諦めるのを待ったが一向に着信メロディが途切れる気配はない。仕方なしに出てみたが、その前に相手を確認しなかったことをすぐに悔やんだ。そう、間の悪いことに電話の主は 道徳心に欠けた親の片割れ。お袋だった。 悪人に声の大きい人間はいないと俗に言うが、お袋も根は非常に善良な人間だ。ただ、破廉恥で傍迷惑な性格の持ち主だというだけで・・・・。
『エド〜〜〜ッ!さっきオヤジ様からメールいったぁ〜〜?ひとりでもちゃんとメシ食うんだよ!?冷蔵庫にさぁ、一昨日買った・・・・・』
「ちょ・・・・待て、今・・・・」
此方に話す合間を一瞬も与えずに大音量でまくし立てるから、あわてて部屋を出ようとドアへ向かった。聞かれて不味い事を話すわけではないが、これでは会話がすべて筒抜けになってしまうからだ。ところがお構い無しに電話はビリビリと反響しながら母親の声を響かせた。
『ああああ〜〜〜〜っ!?もしかして留守をいい事に早速女の子連れ込んでるなぁ〜〜〜!?でかした息子よ!!安心しなさい!今日も、そして多分明日も帰れないから、思う存分頑張るんだ青少年よ!!脱童貞祝いは、オフクロ様の会社で企画中のラブコスメ詰め合わせでどうだ〜〜〜っ!?』
・・・・・・思いっきりアルフォンスに聞かれたくない事を電話口で声高らかに叫ばれて、俺は無言で携帯を切った。ついでに電源も落としてやったそれを、帰ってきてから放り出したままだったデイパックに突っ込むと、ひとまずこの雰囲気をどうにかしようと積み上げた本の上に置いたままになっていた盆を取り上げた。 ―――――といっても、こんな冷めきった茶を今更ふたりで啜ったところで、俺とアルフォンスの関係性が変わるとも思えなかったが。
どちらが悪いという問題ではなく、ただ、俺とアルフォンスの道が重なるものではなかった。はなから相容れる者同士ではなかったという、ただそれだけのことだ。
悲痛な面持ちでベッドに座ったまま、思い詰めたように俺に目を向けてくるアルフォンスに盆を差し出し、なんとか取り繕った笑顔で茶を勧めた。
「冷めちまったけど・・・・」
手を出す様子の全くないアルフォンスに、今度は盆から湯飲みを取り上げて差し出し半ば無理やり手に持たせると、自分は立ったままで温い茶を口に運んだ。
気まずい沈黙がまたしてもふたりの間に横たわり、かといって気軽に会話をするなんて状況でもなく、俺は今一番当たり障りないだろう話題に、数時間前、俺を取り押さえようとしたアルフォンスに負わせてしまった傷の事を持ち出した。
「その腕、本当に悪かったな。痛まないか?そういえば、あの事務所にある応急セットじゃロクに消毒もできなかったんじゃねえ?帰る前にもう一回ちゃんと消毒しとくか?」
単に話題として口に上らせたものの、俺はすっかり忘れていたアルフォンスの怪我の程度が気にかかり、救急箱を取りに部屋を出ようと、一度雑然とした机の上の盆に湯飲みを戻した。振り向こうとしたところで、俺の背後にまるで張り付くようにアルフォンスが立っていた。ほんの一瞬で、まったく物音をさせずに真後ろに立たれた俺は咄嗟に身をすくませた。 ふ・・・と、鼻で笑う気配と同時に背後から腕が伸び、俺の目の前にある盆に、綺麗に飲み干された湯飲みが戻される。
ただ湯飲みを戻しに近付いただけなのに・・・・と、無言で言われたようで、あまりにも自意識過剰な自分が恥ずかしくなる。湯飲みを置いてもそこを退かないアルフォンスを不審に思いながら、今度こそ振り返ろうとした時だ。
「ヒ・・・・・・・」
背後から腕ごと身体を強く抱きこまれ、喉から引きつった悲鳴が飛び出した。一方は上腕と胸部分を、もう一方は腰を押さえるように回り込み俺の左手首をガッチリ掴んでいる。
振り向くことも振りほどくことも出来ないまま、全身を硬くして自分の肩に顔を埋め精一杯の抵抗をすると、その首筋に生暖かく湿った感触と直後に鋭い痛みが走った。
「ア・・・ッ!な・・・何!?止めろアル!怒ってんのか?止せよ・・・・止してくれ!」
制止の言葉を全く聞き入れる様子のないアルフォンスが、まるで独り言のように抑揚のない声で囁く。囁きながらも唇と舌で首筋や耳の後ろ、項を舐り吸い付き、時々噛み付いては痛みを与えてくる。
「・・・・・そんなに僕に早く帰って貰いたいの・・・?こんなカスリ傷程度の怪我をさせてしまっただけで負い目を感じて、君は平気で誰もいない家の自分の部屋に男を招き入れてしまうんだね。無防備過ぎる・・・・さっきだって君が余りに魅力的だから、襲われそうになったばかりだというのに。どうして学習しないのかな?」
あの冷たい声で囁かれ、背中を悪寒が駆け上る。心臓が激しく脈打ち、次第に呼吸が苦しくなってくる。しかしアルフォンスは俺の変化に構うこと無く続けた。
「僕はもう、君の傍にいることは許されないんだよね。じゃあせめて最後に、意に沿わぬ相手に無理やり身体を暴かれる恐怖を・・・・そのカラダに直接教えてあげる。そうすればもう、こんな無防備なことは二度としないよね、エド?」
「嫌だ・・・・・ッ!」
身体をくの字に折り曲げて逃れようとしても許されず、まるで物のようにベッドに放り投げられると逃げる間も無くアルフォンスに乗り上げられた。恐怖に身体がすくみ上がる。6人の男達に襲われそうになったそのわずか数時間後に、今度は、一度は心を開きかけた相手に同じように身体を好き勝手にされようとしている。 恐怖もあったが、これをしているのがアルフォンスだという事に言い知れぬ絶望を覚えた俺は半ば呆然としてしまい、まともな抵抗すら出来ない。 それをいい事に、はだけられた服の隙間から忍び込んだ大きな掌が俺の体のあちこちをまさぐりだした瞬間、フラッシュバックのように先刻の感覚が蘇った。
「イヤだぁ――――――――――ッ!!!ア・・・・ア・・・・・ア・・・!ヒ・・・・・」
「・・・・・・・・エド・・・・・・ッ!」
底知れぬ恐怖が全身を覆い尽し、手足の先が氷のように冷え切って、溺れるような苦しさに喘ぎながら胸を掻き毟った。 苦しい、苦しい、苦しい・・・・・・・・・・そして・・・・・悲しい。
アルフォンスが俺の名を呼ぶ声がしたが、今ではそれも遠いところから聞こえるようだった。
この苦しさで死ねるものなら死んでしまいたい。俺は一生こんなろくでもない心の疾病を抱えてひとりで生きていくのかと絶望に打ちのめされながら、体を丸めてこの嵐が過ぎるのをただ待った。
硬直した四肢を強引に広げられる感覚があり、歯の根が合わなくなってガチガチと音を立てて食いしばる唇に、柔らかくて温かい何かが触れた。耐えがたい息苦しさが激しくなる一方だった呼吸を遮られた俺は、それから逃れようともがいたが許されない。俺はさらに力任せにもがき、指先に触れるものすべてに爪を立て掻き毟った。
この男は、俺を殺す気なのか・・・・・と、朦朧とした意識の端で思う。 ・・・・が、やがて急激に息苦しさが和らいでくると、ようやく自分の置かれている状況が分かってくる。 ベッドの上で仰向けになっていた俺は、アルフォンスに覆いかぶさるように抱きしめられていて、唇はアルフォンスの唇でふさがれていた。つまりアルフォンスは、息を吸い込み過ぎてさらに苦しくなってしまう過呼吸症の悪循環を止める為に、俺の唇をふさいでいたのだ。
しかしこれは・・・・キスをされているという事にもならないだろうか。別に初めてにこだわる訳ではないが、それでもやはりそれなりの精神的ショックはある。 あっけにとられて呆然としている俺に気付いているのかいないのか。やがてアルフォンスは俺の唇全体をすべて覆うように吸いついたまま、やわやわと揉むように唇をうごめかせ、舌先で俺の唇の裏側をぞろりと撫でまわした。 それによって沸き起こる認めたくない感覚が、背中から一気に足先と脳天とに突き抜ける。
他人の手によって引き出された初めての性的な快感がもたらすものは、どうしようもない罪悪感だけだった。潔癖ぶっておきながら、この浅ましい生身の身体が呪わしい。許せないのはアルフォンスが、ではない・・・・・・・何より俺は、自分自身が許せなかった。
しかしアルフォンスはそれ以上の侵略をすることはなく、慰める様に唇で俺の唇を撫でさすり、時々小さな音を立てて軽く啄ばむようにするだけだった。こんな状態になってもまだ心のどこかではアルフォンスという男を信じていたらしい俺は、アルフォンスがこれ以上コトを進めないだろうという確信を抱き、全身の力を抜いた。途端、こんな場面だというのに強烈な眠気に襲われる。発作の後にくる虚脱状態だ。
駄目だ。ここで眠ってしまっては。まだアルフォンスに言わなければならない何かがあるのに・・・・・。
「エド・・・・・・」
俺の耳に馴染み始めてしまったアルフォンスの優しい声が落ちてくる。閉じてしまいそうな瞼を必死に開けて応えようとしたのに、何故か俺の両目はアルフォンスの温かく大きな掌によって遮られてしまった。
「ごめんね。これで分かったよ。僕は君にあげられるものを何も持たない。あるとすれば、それは苦しみだけだ」
違うと言いたいのに、俺の身体は全く言う事を聞いてくれない。もどかしさに胸だけが騒ぐ。
「君は大丈夫だよ。いつかきっと心から愛し合える人に出会えば、今の苦しみも綺麗に解消されるから・・・・・だから、それまでどうか、こんなふうに誰かに傷つけられないように、ちゃんと自分で自分を守るんだよ?・・・・・・・さよなら、エド」
金縛りにあったように動けない俺の上から、大きな温もりと、そして掌が離れて行った。同時に頬に何かがポタリと落ちる感触があった。それが何なのか分からない内に、何かを千切る音がして・・・・・・・・もう一度アルフォンスの気配を間近に感じた俺が視界の隅に見たのは、俺の解けた髪の先をさも大事そうに手に取り、そこに唇を落とすアルフォンスの姿だった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・!」
アルフォンスは、泣いていた。 胸が張り裂けてしまいそうだった。 立ち上がり背を向けるアルフォンスを、どんなに引き留めたかったか知れない。けれども、俺にそんな資格は露ほどもなかった。 アルフォンスのした事を納得せずにこの手を伸ばしてしまえば、いずれまた今と同じように互いが苦しむだけなのは目に見えている。 アルフォンスは『あげられるものを何も持たない』と言ったが、それは違う。俺の方こそが、アルフォンスが与えてくれるものの内、半分も返すことができないのだ。
そんな関係ならば、始めから結ばない方が良い。
部屋のドアが音も立てずに閉じられ、階段を下りる音・・・・・・やがて玄関のドアが閉じる音がかすかに耳に届いた。
アルフォンスは、駅までの道を知っているのだろうか?通い慣れた俺でさえ、20分はかかる距離にあるのに。それに、もし駅に辿りつけたとして、あのお坊ちゃまが電車の乗り方を知っているのかどうか。それとも、またあの黒塗りのピカピカの車を呼んだのかも知れない。
そんな事を思いながら、何故か俺まで涙が溢れて止まらなかった。ようやく何とか上半身だけを起こすと、ベッド脇のカーペットに細かく千切られた紙片が落ちているのを見つけた。 手にとって見るまでもない。それは、アルフォンスが俺のポケットに忍ばせたあの名刺だった。そして俺はようやく気付く。
自分がコルクボードに無意識に貼るものは、いつでも必ず重要なものや忘れてはいけないものだった・・・・・と。
けれど、これはどうにもならない事で、また、今更どうにか出来るものでもなかった。もう、全ては終わってしまったのだ。
以来アルフォンス・ホーエンハイムの存在は心の片隅に追いやられながら、いつでも燻って決して消える事のない火種のように俺の何処かしらに在り続けたけれど、俺と奴の線が再び交わる事は当然なく、時間だけがただ過ぎて行った。
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