「エド・・・・・・」
囁くように名前を呼ばれながら、頬や髪に大きく温かい掌が行き来する感覚がある。
「オイ、気安くウチの坊ちゃんに触るなヨ、全従業員のアイドルなんだからナ!」
「だったらもっとしっかり守れよ。僕があの時たまたま来なければ、エドが606に行ったきりフロントに降りて来ない事に気付かなかったくせに」
「・・・・ソレは、ホントダ・・・アルフォンスが来なかったら取り返しの付かない事になッテタ・・・お前のストーカー行為をいつもうるさがって悪かったヨ」
「ストーカーだなんて失礼な・・・・・・!一途だって言えよ」
いつも馴れ馴れしい態度ながらどこか飄々として食えない印象のリン・ヤオが、らしくも無くしおらしい声を出している事や、あの掴みどころのない遠い存在のように感じていた男が年相応な口調で話すのを、半ば夢見るような気持ちで聞いていた。
俺は、水中をたゆたうような心地良さに再び眠りに落ちそうになるのをなんとかこらえつつ、半分覚醒した状態だった。全身をすっぽり覆うぬくもりと体の下に感じる床の固さとで、自分が事務所の床で寝袋に包まれ寝かされているのだと分かる。
まだ自由のきかない身体はそのままに、目を閉じながら耳だけはふたりの会話を自然に拾う。
「ソンナに好きなら影でコソコソしてないで、さっさと告白すりゃいいジャン。こんな競争率の高い相手もいないヨー?その上本人はトコトンピュアで鈍感とキテル。そんなマダルッコシイ事してたら、誰かのモノになっちゃうかもヨ?」
『告白』という言葉に、低迷していた意識が一気に浮上を始めた。あのアルフォンス・ホ−エンハイムに、らしくもなく告白をためらう相手がいることに、驚きと得体の知れない衝撃を受けたのだ。
「茶化すなよ!コトはそんなに単純じゃないんだ。定石通りにアプローチしたところで、ただ怖がらせて傷つけてしまうだけだろ?だけど、会ってしまえば・・・・・・・自分を抑える自信がない」
「・・・・ウン・・・・・・そうダネ・・・・・・でもヤッパリ、それでも少し臆病になりすぎてる気がするヨ」
何故だか心臓がドクドクと鼓動を速める。この男に、こんなにも思い悩む程心を寄せている相手がいるのだと言う事に、俺はどうして衝撃を受けているのかが全く分からなかった。分からないまま、これ以上二人の会話を聞いていたくないと思った。けれどもう目を覚ますタイミングをすっかり逃してしまっていた俺は、ただ一刻も早くこの時が終わることを願うだけだった。その俺の願いが通じたのか、不意に内線の電子音が鳴り響く。
「・・・・・ハイヨ〜!・・・・・ウン、了解デス。すぐ行きマース」
どうやらフロントから応援要請が来たらしい。受話器を置くと同時に慌ただしくドアに向かって歩く音が聞こえた。
「アルフォンス、ボクが戻るまで坊ちゃんのコト頼めるカナ〜?多分昼頃までだから・・・・あと3時間位なんだケド」
「いや、幸い僕は今日一日フリーだから、彼が目を覚ましたら家まで送って行くよ」
その言葉にギョッとする。冗談じゃない。2回もあんなみっともない発作を起こすところを見られただけでなく、思えば前回会った時の別れ際には、二度と自分に関わらないでくれと拒絶したのに、今更その相手にどんな態度で接しろというのか。しかし、眠っている筈の人間が否と言える訳もなく、リン・ヤオは勝手に俺の身柄をアルフォンス・ホーエンハイムに一任すると、呑気に鼻歌なんぞ歌いながら部屋を出て行ってしまった。
アルフォンス・ホーエンハイムとふたりきりの状態にされた上、未だ狸寝入りを続行中の俺は困った。いつ、どんなタイミングで目を覚ませばいいのだろう。いや、それよりも、目を覚ましたところでこの男との気まずい空気をどうやってやり過ごそうか。
そんな事を悩んでいる俺の耳にカタリ、と音が聞こえた。どうやら事務所に備え付けてある、従業員用の救急箱の蓋を開けたらしい。その後には布が擦れる音が聞こえ、続いて紙袋から何かを取り出す音、傷薬の軟膏の瓶の蓋を開ける音・・・・・・巻いてあるテープを引っ張る音がする。
・・・・その時、俺の脳裏に先程の感覚が蘇った。
あの時・・・・・・・・・・すっかり我を失い半狂乱になった俺を、後ろから誰かが抑えつけていた。もしあの瞬間止めてもらえなければ、俺は最悪殺人を犯していたかも知れない。しかし、俺はその手を振り払おうとナイフを持ったままやみくもに手を振り回し、自分の手に何かを切り裂いた感覚があったのを確かに覚えていた。
『まさか』と思ったと同時に、先程までの逡巡などすっかり忘れて飛び起きた。
「お前・・・・・・ッ!?どっか切ったのか!?」
「うわビックリしたッ・・・・エド!?」
青白い蛍光灯の下で、チープな折り畳み式のパイプ椅子に腰掛けた男が驚いた顔で俺を見た。ネクタイを寛げたワイシャツの袖を肘の上まで捲り上げ、腕にあてたガーゼの上に医療用の白い紙テープをやり辛そうに頑張って留めている途中らしい。よく見ればその袖口にはベットリと血がこびりついている。
「ウワお前ソレっ!そんなん自分で巻いてねぇで、医者行けよ医者!つか、これ俺がやったんだよな?そうだよな!?うわ!ゴメン、マジでゴメンな?ちょっと今車呼ぶから待ってろ。それ以上自分でいじるなよ。いいな!?」
「エド・・・・・あの・・・・」
出入り口の脇にある雑多な物置の中から埃をかぶった電話帳を取り出し近くのタクシー会社の電話番号を探していると、アルフォンス・ホーエンハイムが後ろから口を挟んできたが、自分の所為で怪我を負わせてしまったことですっかり頭に血が上っていた俺は、それが耳に入らない。
「エド・・・・・エド!?エ〜ド!エドってば!・・・・・オイ」
「ウヒャッ!?」
指先で項をくすぐられて飛び上がった俺の様子に、さも楽しげな笑い声を上げた男は、ワイシャツの袖のボタンを留めながら言った。
「車なら、さっきウチのを呼んでおいた。それに僕のコレはカスリ傷だから、医者にみせる程のものじゃない。そんなことより、君の予備の服はコレでいいんだよね?さっきロッカーからリンが出してくれた。さ、着替えたら家まで送ろう。車で待ってるね」
力ずくであればまだ抵抗できたかも知れないと思うほど、この男からは人に『否』と言わせないオーラのようなものが漂っていて、俺は言われるまま男が呼び寄せていた車に乗ってしまった。
車は俺の予想通り、ぴかぴか黒塗りのセンチュリーだった。俺のような庶民には、死体になって火葬場に向かう時ぐらいにしか縁の無い車だ。白い本皮張りのシートに気後れした俺は、腰を浮かせ気味に座り所在無げに視線をさまよわせた。実に落ち着かない。何かそれらしい『用事』を作って途中で降ろしてもらおうと思いつき隣に目をやれば、男が俺をじっと見つめていた。
「・・・・・・・ッ!?・・・な・・・・・に・・・?」
「・・・・エド。今、適当な用事を作って途中で降りようとか思ってない?」
「お、お、思って・・・・・ねえ」
「そう。ならいい」
ふふ、と笑って足を組みなおす堂々たるその様は、およそ高校生のものではない。それに比べ、初めて乗る高級車に緊張してまともに口をきく事さえ出来ずにいる俺。人間、生まれ育った環境が違うとこうも差が付くものかと心の中でため息を吐いた。
やがて窓の外に見える景色が見慣れたものになった頃、ようやく自分がまだ家の所在を告げていないことに気がついた。そして、俺のその表情を又しても読み取った男は、運転手に細かな行き先の指示をすると俺に言った。
「実は、エドの事は住所から誕生日から血液型。春から通う大学も学部も引越し先も全部リサーチ済みなんだ。ゴメンね。驚いたろ?危ないヤツだと思われちゃったかな」
そんな事を面と向かって問われて返答に困った俺は、うん、とかイヤとか、曖昧に言葉を濁した。
しかし、不思議なことに、驚きはしたものの嫌悪感はまるで無かった。むしろ、何故この男がこうまで熱心に俺に近付こうとしているのかに興味が沸いた。その所為か、見慣れた家の前で車から降りた俺の口から、考えるより先に自然に言葉が出てしまった。
「なんもねぇけど、ちょっと寄ってくか?安物だけど茶ぐらいは出すぜ。お前の傷もどんな状態なのか気になるし・・・」
言った後で、この突飛な誘いにこれまで知り合いともいえない禄に面識もなかった相手が乗ってくるはずもないと思ったが、意外なことに男は心底嬉しそうな表情で「え!いいの!?」と聞き返してきた。その顔が今までとまったく逆の印象で可愛く見えてしまった俺は、笑みを零しながら頷いた。
「運転手さん待たせちまって悪いかな。でも、お前さえ良ければ・・・・」
俺が言い終わるか終わらないかの内に男は運転手に何事かを告げ、コートを手にさっさと車を降りてしまった。車はすぐに走り出し、ワンブロック先の角を曲がって見えなくなった。
「おい。車帰しちまって、お前帰りどうすんの?」
「え?また呼べばいいし。別にハイヤーでもいいでしょ。それより車を待たせてると、エドがそれを理由に僕をさっさと追い帰そうとするかも知れないからね」
交通手段に電車やバスという選択肢が存在しないらしい男がホクホクと嬉しそうな笑みを浮かべながら言うから、思わず俺も笑ってしまった。急に男と俺の距離がグンと縮まったように感じられ、なんとなく愉快な気分になる自分が不思議だ。
「どんだけ長居する気だよ、お前。・・・・ほれ、首相公邸の玄関ホールくらいの広さしかねぇかも知れん家だけど、ドーゾ」
恭しく玄関のドアを開けてやれば、いつかテレビ画面越しに見た冷静沈着のポーカーフェイスと同一人物とは思えない好奇心丸出しの子供のような顔でそこら中を見回して、うわぁとかへぇとか一々声を上げている。父親のお供であちこちの国に行くことも多いだろう奴にとって、大して珍しいものでもないだろうに、壁にかけてある親父の友人から外国旅行の土産にと貰った絵を見ては、「エド!エド!この孔雀の絵、すごいねぇ!全部蝶の羽で作ってるんだ!?へぇ〜綺麗だなぁ」などと感嘆の声をあげ、廊下脇の飾り棚の上に並んだ大小様々な剥製の群れを見れば「コレ全部ピラニアじゃない!?うわぁ一体幾つあるんだろう?」と楽しそうに数を数えてみたりする。
先ほどから、それまでの印象をことごとく壊しまくってくれた男は、今ではすっかり年相応の高校生の顔で、他愛無い話の合間に冗談を言ってはしきりに笑い声を上げていた。そのあまりの屈託のなさに、初対面で会った場所とそのとんでもないシチュエーションや、この男に今まで抱いていたマイナスのイメージを全て失念してしまった俺は、迂闊にも奴をリビングではなく自分の部屋へと招き入れてしまった。
男をひとり部屋に残したまま、キッチンで湯を沸かしつつ戸棚の奥を探って来客用の茶葉の缶を引っ張り出す。急須に葉を入れたところで、ジーンズの尻ポケットに入れてあった携帯が振動した。見れば、親からのメールだったが、その件名を見たとたん携帯を床に叩き付けたくなった。
『件名:脱!童貞!!』
「なんだよ?またイタメールかよ畜生!・・・・・・いいんだ、ほっとけ!俺は絶対に一生セックスなんかしねぇ」
毎度毎度、嫌がらせのような件名で送られてくる親からのメールに、俺は律儀にブツクサ文句を垂れながらもきちんと目を通してしまう。素直な自分が恨めしい。
『オヤジさまは取引先の接待。オフクロさまは会社に缶詰で帰れません。年頃の青少年らしく健全に、彼女の一人や二人連れ込んでパーッとやんなさい。但しコンドームは必ず着用のこと。以上』
「ざけんな!フツーに『今日は帰れない』ってだけ言えよ!!・・・・・・・いつものことながらなんちう親だ。自分と血が繋がっているとはとても思えねぇ」
無神経な親からの心無いメールに憤慨し、荒んだ気持ちのままドスドスと足音を響かせて階段を上り部屋のドアを開けると、雑然と本が積み上げられた机の前で、男が立ち尽くしていた。
「・・・・・・ホーエンハイム?どうした?」
声をかけても振り向かない背中に近寄り、机に積み上げた本の上に茶と茶菓子を載せた盆を置きながら、男の視線を辿った。男は壁にかけてあるコルクボードを凝視していた。このボードには、小さなカレンダーや映画の前売りチケットやもうすぐ移り住む予定の部屋を契約した不動産業者の連絡先などがゴチャゴチャとピンで留めてあるのだが、そこで俺は大変なことにようやっと思い至った。
「ああああああああああああ!!!!!み・・・・・見るなッ!ちっ、違う・・・・!違うからな!」
ボードに飛びつくようにして、男が凝視していた紙片をソコから外して汗ばむ掌に握りこんだ。しかし時既に遅く、見上げた男はなんともいえないほど幸せそうな笑みを浮かべている。俺の手の中にあるのは、初対面のあの日、奴が俺のポケットに忍ばせたあの名刺だった。一度は丸めたものの捨ててしまうのも気がひけて、何となくコルクボードに刺しておいたのを、そのまま忘れていたのだ。
「エド・・・・・一度も電話が鳴らないから、てっきり捨ててしまったのかと思ってたのに、こんな風に大事にとっておいてくれたなんて・・・・!」
「ご・・・・ッ誤解だ!別に大事にしていたワケじゃ・・・・・・・ギャアッ!ホーエンハイム!落ち着けぇ――ッ!!」
感極まって俺を抱き締めてくる男の腕の中でジタバタもがいてみるものの、体格の差はすなわち力の差。抵抗むなしくさらに強く抱き締められた俺は、男の背に回した両手でスーツのジャケットを引っ張るという無駄な足掻きをした。男はまるでチークダンスでもするように抱き締めた俺ごとゆらゆらと体を揺らしながら、背中から何かが駆け上がってくるような甘ったるい声でせがんだ。
「違う。ちゃんとファーストネームで呼んで。アルって呼んで?エド・・・・」
「うわわわわわわわわ分かった!分かったから!アル!頼むからこの手を緩めろ!ゆらゆら揺するのも止せ――――ッ!!」
「んん〜〜〜〜もう少し・・・・あと10数えたら離す。い〜〜〜〜〜ち・・・に〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜い・・・・」
異様に間延びしたカウントでしっかり10まで数えた後ようやく名残惜し気に俺を解放すると、アルフォンスは「やったね」と笑った。
「あん?何がだよ!?」
噛みつくような勢いで聞き返せば、目を細めて此方をじっと見返してくる。
「あのね、初めて会った日、君が部屋から出て行ってしまった後、リンから色々話を聞いたんだ。エドが性的な接触を酷く恐れていて、パニック症状を起こすくらいだって事」
「・・・・・ッ!!あの、お喋り野郎・・・ッ!!」
舌打ちした俺を宥める様に、アルフォンスが慌てて言葉を続けた。
「待ってエド!リンは君の事を心から心配してるんだ。彼は悪くないよ。それに僕は元々彼とは知り合いだったし、彼も僕だからこそ話してくれたんだと思う」
てっきり二人が知り合ったばかりだと思っていた俺は、ニポン国首相の息子であり私設第一秘書という尋常でない肩書きを持つ高校生と、ラブホのフロント係などというちょっと人に言うには憚られるバイトをしているシン国人留学生に一体どんな接点があるのかと首を傾げた。
「お前とリン・ヤオって・・・・」
「あれ?エド、知らなかった?リンはシン国大使の息子なんだよ?僕と彼は昔からの腐れ縁と言うか・・・」
「はぁぁぁぁぁぁ!?」
シン国の大使の息子が、何故にあんな如何わしいホテルでフロント係のアルバイトなんぞやっているのかとパニクる俺にかまわず、アルフォンスはさっさと本筋に戻って先を続けた。
「あの日ね、リンに頼みこんでエドが眠る部屋に入れてもらう時、条件を出されたんだ。あの発作を起こさせなければエドに近付いても良いって」
「本人を差し置いて、勝手に良いの悪いの決めてんなよ!それにお前、ソッコー俺をパニクらせたじゃねえか!」
次から次へと降りかかる事態と知らされる事実の衝撃にすっかり気持ちが昂っていた為、必要以上に大声で言い返してしまう俺をまぁまぁと宥めつつごく自然な動きで腕を引きベッドに座らせてしまうと、アルフォンスは自分もその横に座る。それもちょっと不自然なほど密着して、だ。
「あれはちょっとした手違いでしょ。そもそも場所が悪かった。でも、ほら・・・・今はどう?」
「は?何が『どう?』なんだよ」
「密室で、ベッドの上に二人きり。こんなシチュエーションなのに、エドは平気でしょ?さっきだって、僕に抱きしめられたのに大丈夫だったでしょ?」
俺は首をかしげた。アルフォンスの言葉に、自分の中にある何かが違和感を訴えたのだ。
俺が過敏に拒否反応を示してしまうのは性にまつわる事柄に対してのみであって、決して人との接触そのものに嫌悪感を抱いている訳ではない。初めて会った日、アルフォンスがどういう意図でもって仮眠をとっている俺のベッドに潜り込んでいたのかは未だに分からないままだが、確かにコイツの言うとおり、俺はアルフォンスとのスキンシップでは自分が拒否反応を起こさないことに気付いていた。そして、それはすなわちアルフォンスが俺に示してくれる好意らしきものが『性的な何か』ではないからだと考えていた。アルフォンスが持つ俺に対しての感情が、単なる好奇心なのか、それとも友情の芽と呼べるものなのかは分からないが、少なくとも自分はこの男にかなり好感を抱いているし興味もある。だから、アルフォンスが俺にこうして近付いてきてくれることが、単純に嬉しいと思うようになっていた。まだほんの僅かなかかわりしか持たないが、少なくとも俺たちふたりの間にあるものは、穢れて爛れた欲望に満ちた情ではなく、もっと純粋で真っ直ぐな気持ちによって形作られる、これから大切なモノになりえるかも知れない感情だとさえ感じ始めていた。
けれど、自分でも良く分からないことを言葉にして相手に伝えるのは難しく、俺が言えたのは結局こんな言葉でしかなかった。
「だって別に、お前と俺は性的などうとかって訳じゃねえじゃん」
その言葉の、何がいけなかったのだろうか。瞬間、アルフォンスの表情が驚きと悲しみを混ぜこぜにしたような複雑な微笑に変わった。また、ぴったりと寄り添うように座っていたから、奴の体が僅かに強張るのが分かる。
そして突然がっくりと膝の上に上体を倒し項垂れるから、俺はどうしたものかとうろたえた。
「アル?どした?・・・・オイ?」
アルフォンスは長い溜息をひとつ吐くと、膝の上に肘をついて身をかがめた状態で俺を覗き込むように見上げてきた。
「確かに、ハッキリ言葉で意思表示しなかった僕も臆病でいけないんだけど・・・・・・・本当にニブいんだねぇ、エド。リンから聞いてはいたけど実際にそのニブさを体感すると、これはもの凄い衝撃だよ」
昔から良く『人間の心の機微を読めない奴だ』と言われ、不本意ながらそうと自覚もある俺だが、面と向かって2回も立て続けに『ニブい』と言われれば腹も立とうというものだ。思わずカッとなり立ち上がろうとするも、奴のでかい手が俺の両肩を鷲掴み、それを遮った。仕方なくこの体勢のままで文句を言ってやろうと睨み付ければ、今度はそこにあった思いもよらない場違いな表情に肩透かしをくらう。
「エド・・・・・・・・!」
「・・・・な・・・・・ん・・・だよ・・・ッ!?」
妙な響きを孕んだ熱っぽい声で呼びかけられ、答える声が上ずった。
アルフォンスのその表情に、目を逸らすに逸らせない。
初めて会った時ドア越しに聞いた声も、TVの画で見た顔も、俺の知っているアルフォンスは、体温さえ感じさせない完璧なポーカーフェイスの持ち主のはずなのに、先ほどから目まぐるしく変わるこの表情の豊かさはどうだろう。些細なことにも心から楽しそうな笑い声を上げたかと思えば、コルクボードに自分の名刺を見つけただけで勝手に舞い上がり、次の瞬間には捨てられた子犬のようにしょんぼりしている。挙句、今は真剣そのものといった表情で、似合わなくも頬を赤く染め、額に浮かぶ汗を拭う余裕もないくらいな必死さで至近距離から俺を見つめている。
後ろに身を引いて近すぎる距離をあけようとすればさらに強く肩をつかまれ、互いの鼻先が触れ合うほど顔と顔が近付いた。
「逃げないで・・・・!お願いだから・・・・・エド・・・・・聞いて・・・・・あの・・・・その・・・・ッ」
あのアルフォンス・ホーエンハイムが、まさかこんな風に何かを言うのをためらい口ごもり、顔を真っ赤にして大汗をかいている姿なんて、一体誰が想像できるだろう。さらに信じがたいことに、俺の両肩を力加減も出来ない様子で掴んでいる両手が震えている。俺はただ、阿呆のように口を半開きにしたままアルフォンスの顔を見ていた。
「あの・・・・・ッ・・・・・初めてあの場所で会った瞬間から、す・・・・・・好きなんだ・・・・!エドが性的なことを怖がってるのは分かってる。僕のこの想いはきっと、エドを怖がらせて傷つけてしまうと思う。・・・でも、それでも僕は君がどうしようもなく好きだよ。諦めるなんて無理なんだ。だから、せめて・・・・・少しづつでいいから・・・。君を好きだって言う僕に、どうか慣れて欲しい・・・・・・だめだろうか・・・」
アルフォンスの言葉に、俺はすぐに反応を返すことができなかった。驚きのあまりに・・・だ。
これまで俺は、幾度かこうした『告られる』という場面に直面してきた。相手は老若男女様々だったが、全てに共通していたのは、皆が俺に好意を寄せていると言い募りながら、その必死さの皮一枚向こうに、生々しいグロテスクな肉欲を抱えているのが透けて見えていたことだ。『好きだ』『愛している』と真摯に語っておきながら、此方が首を縦に振れば瞬く間に肉欲をむき出しにして本性をさらけ出すだろうと易く予想できた。お前たちが好きだというのは、俺じゃなく俺のカラダだろうと、その度に憤りと虚しさを覚え、益々色恋沙汰からこの身を遠ざけるようになった。
アルフォンスもまた、俺を好きだと言った。
これまでの俺ならば、そんな想いを抱く相手とふたりきりの部屋、ましてやベッドの上でこれ以上ない程に顔を近づけているそんな状況に、すぐさま発作を起こしていただろう。しかし今は全くそんな兆候はなく、それどころかアルフォンスの言葉にどう応えようかと淡々と考えている自分がいるのが不思議だった。
アルフォンスとは、まだ今日でたった2度会っただけの間柄だ。それも、まともな会話を交わしたのはつい先ほどからだ。これで互いの一体何が分かるというのか。それなのに、俺は自分の中に得体の知れない感情が生まれているのを確かに感じていた。コレは友情か?それともこれまでの人生でまだ一度も経験した事のない『恋』という名の思いこみ現象なのか?
どちらにせよ、もしここで俺がノーと突っぱねれば、アルフォンスは綺麗に俺の前から姿を消して、おそらく二度と会うことはないだろう。短い間会話をしただけでも、こいつがそういう男だというのが、何故か俺には良く分かった。そして俺は、そんな結末は嫌だと思った。これからもアルフォンスと関わりを持ち続けたいというただその一心で、自分が乗り越えなければならない障害についての煩悶はひとまず隅に追いやった。
我ながら暴走している自覚はありつつも、ままよと言葉を紡ぎ出す。後はアルフォンス・ホーエンハイムが優しさと強靭な理性を持っていることに賭けるのみだ。
「ダメ・・・・・・・じゃ・・・・・ない・・・・・」
絞り出した俺のその声に、気の毒になりそうな程必死な形相でいたアルフォンスが目を見開いた。
ああ、俺と良く似た金色の目をしていたんだな・・・と、脈絡のないことを思いながらも口は勝手に喋り続ける。
「マジで・・・・ちょこっとづつだけど、お前、それでも大丈夫か?それに、慣れるっていう保証もねぇんだぞ?お前、辛いだけかも知んねぇんだぞ?」
「待つ!待つよ、いつまでだって!・・・エド、本当にいいの!?嬉しい・・・嬉しいな・・・・!うん、嬉しい・・・!」
またしても感極まって俺の体を抱き締めようとするところを自ら思いとどまったアルフォンスは、嬉しい嬉しいと、素直に喜びを表現した。何と可愛いヤツだろうか。見事にスーツを着こなして、あんなホテルに女を連れ込んでいた男とはとても思えない可愛らしさだ。
―――――――と、そこまで思った俺は、一度首を縦に振って喜ばせておきながら酷だとは承知の上でアルフォンスの喜びに水を注した。
「あ・・・・でも待てよ。今、すげぇ重要なコト思い出した」
「な・・・・何!?」
「あの最初の時一緒にいた彼女。お前どうするつもりだよ?」
可哀想にも思ったが、納得がいかないままうやむやに済ませてしまうのは我慢がならない。何より、彼女の存在を知っておきながら、まだ自分の中にあるアルフォンスへの好意の種類をはかりかねている俺が、その『特別席』に予約札を立てるような真似をするのはあまりにも身勝手すぎやしないだろうか。
ところが、アルフォンスの事情は俺が想像していた程たやすいものではなかったのだ。