不機嫌な恋情 第13話
次の日なんとか頭痛は治ったが、まだ体がだるいままバイトに行くと、麻奈がさっそく寄ってきた。
「昨日どうしたのよめずらしい。今まで休んだことないのに。風邪でもひいた?」
「ちょっと体調悪かっただけだよ」
「ふうん。あ、そうそう、昨日も村上さんが来たんだけど、なんか小瀬君に用があるみたいだったわよ」
「……」
いきなり出た名前にがっくりと肩を落とす。
考えたくないと思っていても、どこかしらに関わりがある今の状況ではそうもいかないのが現実だ。
(後悔するくらいなら放っておいて欲しい)
今までのどのつきあいよりも、一層深いダメージを負ってしまっているのだから。
初めて自覚した想いらしきものを、事の直後に後悔された挙句、成り行きだから仕方ないと返されてしまった今、とても普通に桐吾に会う自信はない。
はじめから会わなかった事には出来ないけれども、せめて少しずつ時間をかけて忘れていく努力はするから。
とても遊びで付き合える程の気力はない。だから離れていくようにするから。
面と向かって突きつけられる現実が恐くて、また逃げているだけだというのもわかっている。でも今、すぐに、どうこうするのは無理だった。だから会いたくない。
そう思っていたのに……。
「……いらっしゃいませ」
「よう」
今まさに会いたくないと思っていた当の相手は、いつものように弁当を入れたカゴをレジに置いて、それから梨月の耳元で小さく言った。
「昨日は大丈夫だったか?やっぱ体きつかったんじゃねえか?」
めちゃめちゃきつかったよ。まだ腰の奥になんかあるような感じがするんだから。
ほんと、おっさん余計な体力余りすぎ。
と、心の中で思いっきり毒づくが、言葉に出して言い返すこともできずにいる。
態度にはまったく出さないまま、
「……べつに…」
とそっけなく言うだけで精一杯だった。
「帰るのも突然だったし、心配してたんだぞ」
「そう……」
遊び相手でも、一応心配はするんだ。つうか、まあそれが常識だよな。
そう思いながらも、桐吾の顔が見れない。見ると思い出してしまう。
あの時の出来事を、体が覚えている。
桐吾の言葉に、表向きは軽く相槌を打つだけで、梨月は最初の時のように黙々とただレジを打ち込むことだけに専念する。
弁当を温めて袋に入れ、会計を済ませるとさっさと渡し、
「ありがとうございました」
とマニュアル通りに言う。
「……おい、どうした?」
そのあからさまに他人行儀な態度に、さすがの桐吾も怪訝そうに梨月を見る。
「お次のお客様、どうぞ」
それでも梨月はその姿勢を崩そうとしなかった。
「梨月?おまえ、なんだその態度」
「ちょっと小瀬君?どうしたの?」
そのあまりにもな態度の変化に、隣でレジを打っていた麻奈もさすがにおかしく思ったのか声をかけるが、梨月は聞く耳をもたない。
もう、いいから早く帰れよ。
用は済んだんだろ?
いつもならそうやって、さっさと追っ払うように言えるのに、今は、言葉を交わすのすら辛い、それが悔しい。
あの腕に抱かれたのだ、自分は。あんなに、何もわからなくなるくらい乱れたのだ。
ふと気を抜くと、また下肢が熱くなってしまう。それほどに強烈な体験だった。
この気持ちを今すぐ消すことなどできない。だが努力はするから、だから顔を見ていたくない。
「他のお客様のご迷惑になりますので……」
言外にさっさと帰れ、という態度で視線を流したあとは、一切桐吾を見向きもしなかった。
「おい梨月……何が気に入らねえんだ?」
さすがに訝しく思い、桐吾の視線が鋭くなるが、梨月は一切桐吾を見ようともしない。
(ほんとにもう、勘弁してくれ)
こんな態度、おかしいのはわかってる。でも他にどう接すればいいのかすらわからないのだ。こんな風に、誰かの側にいるだけで苦しいのも初めてなら、そんな相手と何もなかったかのようにしなければならないのも初めてなのだ。
今まで、人とどうやって付き合ってきたのかすら、わからなくなる。
誰かと付き合っていた時、なにを話していた?どんなことを思っていた?
別れたあと、どうやって顔を合わせていた?どんな態度を取っていた?
いままでの経験全てが真っ白に霞んで、自分は今までどう過ごしてきたのかということすらわからない。
(やばい、重症だ)
逃げる思いで、他の客の会計を済ませるとその場を離れた。まだ何か言いたそうにした桐吾がそんな梨月を見ていたが、ひとつため息をついて離れて行った。
ほっとすると同時に、理不尽な怒りも沸いてくる。
…なんだってんだ、後悔してるくらいなら、そっちだって顔合わせづらいはずだろうに、そんな素振りもなくのこのことまた現れて。
二度と来るな、とは、言えないが……個人の自由だし。家の前にあるコンビニほど便利なものはないだろうし。だができるなら自分がいる時間を避けて来るぐらいの事はして欲しい。
「なに〜機嫌悪い顔して〜?」
俯いたまま黙々と陳列の棚を整理していた梨月は、その声にはっとして顔を上げた。
またもや遊びに来た楓月が、首をかしげてそんな梨月の頬を両手でひっぱる。
「いてっ、っにすんだ楓月!」
その手をぐい、と引き剥がし、楓月を睨みつけると、同じような表情で睨まれる。
「……今のりっちゅ、かわいくないよ」
「はあ……?」
「実はちょっと前から来て見てたんだよね」
梨月は少しぎくりとする。先ほどの桐吾とのやり取りを見ていたのなら、天然なようでいて実は鋭い楓月のことだ、何か気づいたに違いない。
「どうしちゃったの?まあ、俺としては、あんなやつとりっちゅがくっつかないほうが嬉しいんだけどさ」
「だから、なんであいつとくっつくとかいう話になるんだよ、関係ないっつってんだろ」
その辺の認識を改めて欲しい。実際、本当になんの関係もなくなるのだから。
「うん、だからそれは、そのままでいいと思ってる……でも、今のりっちゅは、なんだかちっともかわいくない」
かわいくない、と言われても、どう応えていいのかわからない。
兄のいつものごとく不可解な言動に首をかしげていたら、後ろから毎度のことながら地を這うような声がかかる。
「ちょ〜っと楓月、仕事中に小瀬君と話し込むのやめてって言ったでしょ」
仁王立ちして小瀬兄弟を睨みつけるその姿は、かなりの迫力だ。
「え〜、でも麻奈も変なのわかってるでしょ?」
それでも楓月は恐いもの知らずのように、ふてくされたまま麻奈に文句を言う。
その楓月をじろりとみて、それから梨月をちらりと見てから、麻奈はため息をつく。
「まあ、そうなんだけど、それとこれとは別。ちゃんとTPOをわきまえてって言ってるの。あたし一人に仕事させる気?」
もっともな意見の麻奈には誰も逆らえない。
梨月はぷりぷりと怒る麻奈に素直にごめんとあやまると、楓月を小突いた。
「いたっ」
「おまえ、もう帰れ」
「え〜やだ。一緒に帰るんでしょ?」
「だったら、静かにしてろ」
どうせあと少しで上がりの時間だ。帰る気配のない楓月はそのまま放っておいて、その後はもう仕事に専念した。
「一昨日までのりっちゅはかわいかったの。乙女入ってて。悔しいんだけど、かわいいからゆるしてたの」
帰り道、やはり突然意味のわからない楓月独特の解釈を説明される。
「ああ?」
言っていることの意味がさっぱりわからない。
「そんなりっちゅを見るの、初めてだったから……見てるこっちまでなんか恥ずかしくなっちゃうような乙女だったの。ほんと、悔しい〜って思いながら、ちょっと邪魔とかしながら、でもそれでもかわいいから最後にはゆるしちゃってたの。ほんと、俺りっちゅ大好きだから、結局認める方向で納得するしかなかったの」
「あー……いや……ごめ、意味が、わっかんねぇ」
「……あのさ、もしかしなくても、昨日のお泊りの相手、あいつ?」
「えっ…?!」
どんなつながりでその台詞が導き出されるのだ。
「だぁって、昨日の今日であの態度だもん。なんかあったんだろうってかわかんないほうがおかしいでしょ」
だからいやなのだ。ほんの少しの情報で答えを導き出してしまう相手というのは、やりにくくてしょうがない。
「昨日のりっちゅは、何も聞くなオーラで自分の周りがっちがちに固めちゃってたから黙ってたけど」
「なんだそれ」
何も聞くなオーラ、ってなんだ。
「今日はちょっと閉じこもりオーラになっちゃったから、聞きたいこときくからね!」
と、閉じこもりオーラ?
閉じこもりと、何も聞くなと、どこが意味が違うんだ……って、そうじゃなくて、
「は?なにそれ?なんの話だよ!」
「自分だけが耐えたらいいとか考えちゃうような、自己犠牲で自己満足で身勝手なオーラ」
「…………」
な、んつう言い草だ。
「でもそれってすっごい周りに対して失礼だよ。誰のことも…俺のこともまったく頼りにしてないの。自分の中だけで決めつけて、あっさりなんでも諦めるの。でもそうやって自己完結するの、りっちゅの悪いクセだよ」
「自己完結ってなんだよ。それに諦めるもなにも……」
「いっつもそう。人と根本から深く付き合おうとしないで、相手が離れていっても執着しないで。りっちゅさ、いっつもなんでみんな離れて行っちゃってるかわかってる?それって、りっちゅ自身がそうさせてるんだよ?」
「何言ってんだ、いつも邪魔してるのは楓月だろ」
「それはきっかけにすぎないもん。それに今まで梨月から別れ話したことないでしょ?それってやっぱおかしいよ。来る者拒まず、去るもの一切追わず、にも程があるもん」
あまりにもな言われようだが、思い当たる事がいくつももあるので何も言えない。
付き合う温度が違う、と言われた事は一度だけではない。
だがそれと、オーラがどうとかいう話と、どうつながるというのだ。
「今回はちょっと違うと思ってたのに。乙女りっちゅなんて見たことないから、変わっていけるのかな、って思ってたのに。やっぱりいつものりっちゅに戻っちゃって。むしろいつもよりかわいくないよ今日のりっちゅ……」
楓月は立ち止まると、つられて立ち止まった梨月をじーっと見つめて言った。
「村上と何があったの?」
言わないと許さないという意思の強い眼に見つめられて、視線を外せない。
「……」
深い付き合いをしてこなかった臆病さを改めて認識して傷つき、どうしようもない想いを理解ってくれたと思った桐吾にふと心を許して抱かれたが……でも実はやっぱり遊びのひとつだったことをすぐに知った。
そうやってまとめて考えると、恥ずかしい。
ようするに、遊ばれた事をいつまでもくよくよと引き摺ってる、ただの情けない男だ。
……言えない、こんな情けないこと。
「りっちゅ?」
「オーラがどうとかさ、何?見えんの?」
だからわざと話を逸らせる。
「……見えるってワケじゃないけど。感じる、ってのが正しいかも。でもりっちゅ限定だけどね」
応える楓月は、騙されてくれたわけじゃない証拠に、むぅ、と梨月を睨みつける視線を逸らそうともしない。
「で?何があったって?」
追求の手を休めるつもりはないようだ。
逃げようにも、四六時中一緒の相手から、しかもオーラだとか電波なことまで言い出すような兄から、一体誰が逃げ切れるというのだろうか。
言えない……言いたくない……だけど。
「…………た……」
蚊の鳴くような声で、それでも決死の覚悟で言うがやはり聞こえないようだ。
「え?なに?」
聞こえなかった、もう一回!
と顔を寄せる楓月から逃れながら、
「だから、ようするにっ、ふられたんだよ!」
「はあ?」
楓月のあまりにも間抜けな表情にふっと笑いがこみ上げてしまう。
(あ、なんだ俺、こんな時でも笑えるじゃん)
「ちょ、まって!何それ?ふられた?」
がしっ、と両腕を掴んで詰め寄る楓月を見て、なんだか少し気が軽くなったように思う。
「ああ」
「え〜〜ありえないよちょっと!何なの?もう告白とかしたの?」
「告白ぅ?んなもんしてねぇよ」
相手は俺が好きだという事も知らないだろう。
「はあぁ?も〜、なんなの?意味わからないよ!ちゃんと説明してよ!」
「説明も何も……あいつにとっての俺は、恋愛対象外っつうか……だから相手にされてないってだけ。まあ、ふられたって言い方は違うけど、似たようなもんだろ?」
「似てないよ全く!」
「……声でけぇよ楓月。つうか、早く帰ろう」
道の真ん中でする話でもないだろう。
「どうしてそんな考えになっちゃってるわけ?ねえ、何かきっかけがあったんでしょ?何があったの?」
きっかけはあったが、それだけはさすがに話せない。
「言いたくない」
全部話すつもりなんてもとから全然なかったのだが。
「も〜!……じゃあ、相手にしてないっていうなら、なんで村上はわざわざりっちゅに会いにくるの?」
「…しらない」
それは俺が聞きたいくらいだ。
「それに!なんでりっちゅはふられた相手に、あんなかわいくない態度取るの?」
「……いいたくない」
可愛げのない態度だったのは自覚している。自分のことでせいいっぱいで、早く忘れたくて、相手を無視するような態度をとった。
「どうしたのりっちゅ。なんだかめちゃくちゃだよ」
ため息をついて楓月が梨月の頭を撫でる。
「それは、わかってる」
やさしい手の感触に、縋ってしまいたくなる。
自分の選択は間違っているのかもしれない。もっとうまく立ち回ることだってできるはずだ。だが逆に、そうできないくらいには相手のことを想ってしまっている。
「そう……」
考え込むように俯く梨月を見て、今度こそ追及するのをやめたようだ。
代わりのように、ぎゅうっと抱きついてくる。
「苦しいよ楓月」
言葉とは裏腹に、梨月の心は少しだけ苦しさが消えていた。