不機嫌な恋情 第10話
毎日のように通る場所だが、マンションの中は初めて入る。
(へえ、結構きれいにしてるんだ)
少しずつ気持ちが落ち着いてきた梨月は、部屋をぐるりと見回す。
部屋の中央に二人掛けほどのソファと、その前に置いてある小さなガラスのテーブル、その向こうにはテレビやオーディオ製品がある。入り口と反対の奥にはカウンター付のキッチンスペースがある。
スーツを着替えてシャツとジーパンというラフな格好になった桐吾は、温めたタオルを梨月に投げた。
「それで顔拭け。洗面所で洗ってもいいが、そっちのがさっぱりするだろ」
「…ありがと」
ソファに腰を下ろして顔にタオルを当てていると、ふ、と桐吾が笑いを漏らす。
「なんだよ」
タオルをずらして見ると、
「おまえが素直だと気味悪ぃ」
と何とも失礼なことを言われた。
「うるせえ」
俺、こんなとこで何やってんだろ。なんで、ここに来ちゃったんだろ。
再びタオルに顔をうずめながら考える。桐吾は一体どういうつもりなんだろう。
ここに来る間、何も聞いてこなかった。それが返って落ち着かなくて、
「…何も聞かないのかよ」
くぐもった声で聞く。
「あぁー?」
よく聞こえなかったのか、キッチンの向こうで聞き返される。
ガチャガチャと何かやっていた桐吾は、両手にマグカップを持って戻ってきた。
「ほれ、インスタントだけど、いいだろ」
手渡されたカップから、コーヒーのいい香りがする。
「…………」
「なんだ?ちゃんと豆から落としたやつじゃなきゃ飲めねーっつのか?そりゃおまえ、喫茶店でいつも飲んでりゃ舌も肥えてるだろうけどな…」
「ちがうって…そうじゃなくて、何があったか、聞かねぇの?」
「んー?じゃあ、何があった?」
桐吾はふざけたように梨月の言葉をそのまま返した。
「なんだよそれ」
「いや、なにがあったか聞けっつうから、聞いたんだけど?」
ほんとこいつ……。
だが考えてみたら、桐吾はいつも梨月をからかってばかりだ。どうせ会社帰りにちょっと遊ぶおもちゃ程度にしか思っていないのだろう。それがたまたま家の前で、いつもと違う様子でいたからここに連れて来ただけであって、さしたる理由があったのではないのだ。
さっきのキスだって、からかっているだけで何の意味もないものだ。
でも何だろう。今はそんな桐吾の態度にほっとする。
何も詮索しようとしないで、ただ側にいる。
今は本当は誰とも会わず一人でいたかったが、そんな桐吾の存在が、少なからず梨月の波立った心を静める役割を果たしていた。
楓月の人間関係をどうにかしろとさんざん言っておきながら、その実梨月こそが臆病で卑怯だ。本気が恐くて逃げて、結局最悪の形でそれが返ってきた。
「おまえ、飯は食ったのか?」
鬱々と考えこんでいた梨月は、桐吾の声で現実に戻る。
言われて気づいたが、そういえば食事も取らずにいた。
「まだ」
「んじゃ、ちょっとまってろ」
言うとキッチンに行き、また何やらやりだす。
その空間に立つ桐吾は、スーツ姿からは想像できないが割とサマになっていて、思わずふと笑いが漏れる。
桐吾はそれをちらりと見ながら、それでも何も言ってこなかった。
「できたぞ、特製スパゲティ」
目の前に出された皿には、ホカホカと湯気を立ててパスタが乗っていた。
「食え」
「…どうせただ混ぜるだけのやつだろ?なにが特製だよ」
「何言ってんだ、ちゃんと俺がパスタ茹でて、ソース混ぜたんだから、特製だ」
「へんな理屈」
とことんふざけたやつだ。
だが、パスタに乗った海苔の香りが、忘れていた空腹感を思い出させる。
「いただきます」と混ぜるだけのたらこスパゲティを口にする。
「…うまい」
「だろ?なんたって、愛が入ってっからな」
「ああそうかよ」
ぶっきらぼうに返したが、だがそれは本当においしく感じた。
からかってばかりの桐吾に、いつもは何もかも反発してしまっているのだが、今日は何故かそんな気になれない。言われたことを素直に聞き流すことが出来ている。
でもそれこそが、本当の梨月だった。今までの桐吾とのやり取りの方が、普段どおりではない梨月で……。
(俺のせい、だよな)
自分で桐吾との関係を作ってしまっていたのかもしれない。いつも何か言われたらその全てに対して反発するように返す。桐吾も、そりゃからかうような言い方しかしないけど、いちいち本気で返していた梨月がれを増長させる態度だったのだ。
こうして、静かに見返してみると、桐吾は男の梨月から見てもかなり魅力的だ。ふざけた物言いにばかり気を取られていたが、その容姿は誰もが憧れるものだろう。身長も高く、無駄な肉のついていないすらっとした体躯。意地悪そうな態度が表情に出ている時はあまり気づかないが、よく見るとどこかのモデルのような整った顔立ちをしている。31才でおそらく独身。その辺の女が放っておかないだろう。
それがなんだって、毎日のように弁当買いにコンビになんかに通ってんだか。
無意識に見つめてしまっていたら、桐吾がにやにやと笑いながら言った。
「なんだ?じっと見て。そんなにいい男か?」
「うん……」
素直にうなずくと、「ごちそうさまでした」と食器を流しに運ぶために立ち上がる。
ふと見ると、驚いた顔をした桐吾と目が合う。
「なんだよ」
「ああ……いや、なんでもねえけど……」
素直な態度に面食らっている様子を見て、内心梨月はほくそえむ。やっと一矢報いた気分だ。だが肯定したのは嘘ではない。桐吾はいい男だな、と思う。
流しに食器を置くと、そのまま梨月は一息ついて肩の力を抜いた。
「あのさ、この前、喫茶店に一緒に来た人いるじゃん?」
背を向けたまま、ぽつり、と話し出す。
桐吾は何も聞かない、梨月もなんでこんなやつに、と思うが、そんな相手にだからこそ、今このまま吐き出してしまいたいと思った。
「古賀のことか?」
「そう、古賀尚斗。そいつさ、昔俺とつきあってたんだ」
桐吾は驚きもせず、静かに、突然話し出した梨月の様子を見つめていた。
「つきあってたって言っても、なんてのかな、俺当時中学生だったから単なる好奇心みたいなのもあって、初めてそういう事してからはだらだらなんとなく関係が続いてたってだけだったんだけどさ……結局最後は自然消滅で終わったし。『ハヤノ』で再開するまで、お互い何の連絡もとってなかったんだけどさっきさ、バイト終わった後急に会いに来て」
そこで一呼吸置いて、シンクの淵を無意識にぎゅっと掴む。
「またつきあわないか? だってさ。今まで何の連絡もよこしもしないで、俺だってすっかり忘れてたってのにさ。いきなり現れて、好きだ、だってよ?」
桐吾はどんな思いで聞いているのだろう。こんな、ガキのちゃちな恋愛話を、バカな話だと呆れているのだろうか。
梨月は振り返れないまま、話を続けた。
「俺さ、知ってたんだ、尚斗は俺だけじゃなくて、楓月にも手を出してたこと。俺とだって、真剣な付き合いってんじゃなかったけどさ、でも双子に揃って手出しときながらそのことは隠して、本当はずっと後悔してたんだ、とか気になってた、とか、都合いいことばっか言ってさ……もう、なんか笑うしかねぇって」
桐吾は黙ったままだった。
「付き合うっつっても、当時俺らって会ってセックスしてるだけだったから、じゃあ今からやろうっつってせまったら逃げてった。なんだよなまったく……ああほんと、あんなやつとHしてたかと思うと、あんたの言った通り俺の趣味ってやっぱ昔っから最悪なのかもな」
自分の出した言葉に傷つく。
尚斗との一件で改めて自覚してしまったのだ。自分の感情の穴に。
楓月との関係を知っても、楓月を責めることも、尚斗に詰め寄ることも出来ず、そのまま結局は無かったことにしてしまった。そんな過去の経験から、付き合う時は常に楽なほうに進んだ。好きになってくれた相手に、なるべく応えて、去って行っても追わない。中には本気で好意を寄せてくれる相手もいたのに、その相手と同じ熱を返せない、同じ熱で付き合えない。
自分から好きになれない代わりに、嫌いにもなれない。一切の他人にはどんな言葉も吐けるが、一度付き合って身の内に入ってきた相手には絶対に別れの言葉を言えない。たとえもう何の感情も無かったのだとしても。
尚斗とちゃんと終わりにしていたなら、最低なやつだったな、と笑い話にしてしまえたかもしれないのに、自分の身勝手であやふやなままにしてしまった。
臆病で、卑怯だったのは、自分だ。
そのまま動けずにいると、桐吾が食器を持って流しまで歩いてきた。
梨月の横から、食器を流しに置く。触れた肌に見上げると、目元に唇が落ちてきた。
(なんだよ、また……)
それでも無意識に目を閉じる。
桐吾は梨月の目元から涙を吸い取り、指で頬に伝った滴を拭った。
その時になって、梨月は初めて自分がまた泣いているのだと気づく。
どうしたんだろう、今日は、涙腺が壊れてる。
触れた指を払って横を向いた梨月を、桐吾が抱き寄せた。
「古賀を詰る言葉を言いながら、そうやっておまえは自分を責めるんだな」
はっとなって桐吾を見上げる。
穏やかな視線とぶつかり、何もかもを見透かされていた言葉に、堪えていたものが溢れ出す。
「俺……おれは……っ」
ゆっくりと抱きしめられた胸に顔をうずめながら、嗚咽を堪えて何とか吐き出す。
「あんたには、あんたの…目には、どう映ってる?……やっぱり俺なんか、人を本気で、好きにもなれない、最低なやつに、見えるのかな……」
この状況は、いったいどうしたことだろう。さんざん天敵のように会えば文句ばかり言っていた相手に、今こうして抱きしめられている。その胸の中でみっともなく涙を流す自分。
でも、止まらなかった。抑えていたものが、後から後から堰を切ったように湧き出してくる。
桐吾が、何も言わずに受け止めてくれる。
今日起きた事を涙と一緒に流してしまうのを、黙ってそばで見守っていてくれている……それが心から安心する。
と思って……いたのだが……。
「…おい……おっさん……」
「…………ああ」
密着した体の一部が、妙に硬く変化している気がする。
梨月は体をばっと引き剥がし、改めてまじまじと見ると、そこは明らかに反応していた。
「…そっか。最低なのはおっさんか」
わなわなと肩を震わせる。
この状況で、この反応ってのは一体本当にどういうことだ。
「んー、いや。普段突っかかってばっかのおまえが、こう、可愛く涙なんか流しながらしがみついてきたもんだから……つい」
「つい?ついって…?…うわ、なにそれ、ほんっと最悪」
「俺だって男なんだから、しょうがねえだろうが」
けろっとした態度で言う桐吾を見て、さっきまで堰を切ったように溢れていた涙が一瞬で止まってしまった。
「あんた、まじサイテー」
「この状況じゃ、そう言われてもまあ、仕方ないな」
悪びれもせずに、桐吾は完全に開き直った態度で言った。
梨月はあまりのことに呆気に取られて、信じられないと桐吾を見ていたが、
「サイテーだけど………っぶ」
不意に吹き出してしまう。
「ぶっ、あはははっ、な、なんだよそれ…っほんと、おっさん、おやじ!…っあははっ」
一旦笑いだしたら止まらなくなり、お腹を抱えて笑っていたら、あまりにも笑いすぎてだんだん痛くなってきた。
あんな話の最中に、どうしてそんなことになるかな。
慰めてくれていた腕の中は温かかった。言葉も、何もかもわかってくれているような包みこむ暖かさがあった。
にもかかわらず、なんで、今この時に、そんなとこ勃たせるかな。
(ほんとどんなエロおやじだよ)
「あは…っは…も、はら……いてぇ……っ」
さっきまでの重い気持ちは一気に吹っ飛んでしまった。
今度は笑いすぎで滲んだ涙を拭うと、桐吾はそこを隠そうともしないで、肩をすくめて梨月の笑いの波が収まるのを黙って見ていた。
梨月はしばらく笑い続け、やっとのことではあ、と息を整えると桐吾に近づいた。
「なあ、これ、どうすんだよ」
これ、とその昂ぶりを指差してニヤリと見上げる。
「どうすっかな、これでもまだ一応若いからな俺」
「なに?じゃあトイレにでも行って、出すもんだしてすっきりしてきたらいいじゃん」
わざと意地悪く言う。自分の中に芽生えたこの感情を、なんと表現したらいいのか、梨月はここにきてまだ図りかねていた。涼平や楓月の言うようなものだと、認めてしまうのがシャクでもある。
「まあ、そうなんだが、できれば自分でするよりも、突っ込むところがあるならそっちのほうがありがたいんだが」
「うーわ、ほんっとあんたサイテー。今までもそうやって女口説いてたのかよ」
あまりにもな直説的な台詞に、怒るどころか呆れてしまう。
「まさか、いつもの俺はもっと紳士的だ」
「なにそれ、じゃ一体何だよその態度は」
「これは、おまえ仕様だよ」
言いながら俺の手を取ってそこに押し当てた。
そうさせたまま、片手で俺の顎を掴み上向かせられた。
ゆっくり、深く唇を押し当てられる。そのまま歯列を割り舌が入ってくる。口腔を隈なく動き回る舌に喉の奥まで犯されているような錯覚を起こし、足に力が入らなくなってくる。
「ん……っふ……ぅ」
思わず声が漏れると、手の中のものが更に大きく反応した。
やっとのことで開放された時には、もう息も上がっていた。
「ほんと…最低」
だが、いつものように怒る気にも、反発する気にもならない。
「ちゃんと、ベッドにつれてけよ」
不遜な態度で言う梨月に、桐吾は笑って「了解」と答えた。