不機嫌な恋情  第9話









公園のベンチに座り、自販機で尚斗が買ってきたコーヒーを飲む。

話があるといった本人が黙ったままなので、梨月はどうすればいいのか戸惑う。話しかけようにも相手の意図がわからないし、迂闊に何か言えない雰囲気なのだ。

(帰りたいな)

 こういうピンと張り詰めたような沈黙は苦手だ。

 だいたい、話っていったいなんだろう。久しぶりに会って、懐かしいから?この前あんま話せなかったし、あんときも最後、俺ちょっとキレてたっぽいから、とか?

 そんな単純なことなら、こうも気まずい空気のはずはない。でも、いくら考えてもわからない。

 いい加減沈黙に耐え切れなくなってきた頃、やっと尚斗が口を開いたが、出た言葉はなんとも気の抜ける内容だった。

「梨月さ、今も彼女か、彼氏いないの?」

「……尚斗に、それが何か関係ある?」

「いや……あれからどうしたのかと思ってさ、気になってたんだ」

「あれから?」

それは、どこにかかる言葉なのだろう。『ハヤノ』で桐吾と一緒に来た日のこと?

それとも、過去に別れたあの頃……?

「あれから……あの時まだおまえ、中学生だっただろ?」

「…………」

尚斗の言っているのは後者の方らしかった。

「三年も経って今さらだけど、ずっと気になってたんだ」

 何を言ってるんだろう。それは本当に今さら、ここでこうやって話すような事なのか?だってあれは、

「そんなの、もう終わった事じゃん」

 過去の思い出になりつつあることだ。蒸し返すほどの話題ではない。

「まあ、そうなんだけどさ。でもあの頃、はっきり別れ話もしてないし、結局自然消滅みたいにあやふやなままだったから」

「そんなの、別によくあることじゃねぇの?」

 遠距離恋愛で疎遠になって終わる恋、お互い忙しくてそのまま連絡を取らずに離れていく恋、世の中さまざまだ。

 いちいちそれを気にしていたらきりがない。それに。

「尚斗が言ったようにさ、俺あん時中学生で今よりぜんぜんガキだったし。興味本位で付き合ってたみたいなとこあるし、尚斗がそうやって気にすることないだろ」 

「そっか、でも…」

 歯切れの悪い尚斗の言葉に、だんだん落ち着かない気分になる。

 何が言いたいのだろう。『ハヤノ』にも訪ねてきていたようだし、今日はわざわざバイトの終わる時間に待ち伏せしてまでしに来た話は、ただどうしていたのか、と問うためではないはずだ。

「でも、梨月はガキでも、俺はもう大人だっただろ? なのに、まだ何も知らなかったおまえに手を出して、道を踏み外させたんじゃないかって」

「んだよそれ!」

 道を踏み外す?

 なんで今、そんなことを言うんだ。

「後悔……してるのかもな、あの時こと。ちゃんと話し合えなかった事を」

「……こっちが連絡しても、電話に出なくなったのは尚斗の方だろ」

「だから、迷ってたんだよ。会わなくなった後、何度も連絡しようと思いながらもずっと迷ってて」

「何言ってんの?いまさらじゃん。だいたいさ、俺らそんなどろどろした付き合いじゃなかっただろ?お互いもっと軽い、体だけの関係だったじゃん」

「中学生のおまえに、そう思わせていたこと事体に、俺は後悔してるんだよ」

「なんだよそれ……」

 目の前の人は、何を言い出すのだろうか。

 過去の事を、こうやって何年も引き摺っているなんて、おかしいではないか。

コーヒーを持つ手が僅かに震える。

「……そんなこと言うために、わざわざ来たのかよ。だったらいいよ、俺何も気にしてないし、尚斗ももう気にするのやめろよ」

 あれは、後悔だとかするようなほど、密な関係ではなかった。

 興味本位の延長で続いていただけのものだったはずだ。

 少なくとも、梨月はそうだった。そうだった、はずなのに……。

 本当にそうだったのだろうか。

会うたびに少しずつずれていった心。好奇心で重ねただけの体はすこしも良はなく

くて……。

尚斗の方が、中学生を相手にしている罪の意識で、少しずつ避けるようになってた事に薄々気づいていながら、それでも自分から何も言えずにいた。

もういいよ、もうやめよう、と切り出せずにいたのは、自分の方だ。

 会わなくなった時、もう一度会って、相手を前にして、別れを言われるのを避けて、本気で連絡を取ろうとしなかった。

 体だけの薄い繋がりだから、お互い楽でいられるように、自然に離れてしまったらしょうがない、とすぐに諦められるような位置でいようと、そう決めてしまっていたのは、梨月の方で……。

本当は怖かった。

 人と、深く付き合うのが、こわい。

いつか離れることになるなら、最初から浅い関係でいい、そう無意識に決め付けていた。

そしてそれは、うまくいっていたはずだ。そう今まで思っていたのに、

(後悔してる……?)

 後悔させている?

 俺が?尚斗に?

 その事実に、梨月は僅かに動揺する。

だがそれと同時に、やはり、という思いもあった。

「梨月」

 大きな声だったわけでもないのに、梨月はビク、と体を震わせた。

「そんな、怯えんなよ。別に責めてるわけでもなんでもないんだから……なんか、調子狂うな。梨月、そんなキャラだっけ?」

「なんだよキャラって。それに怯えてなんかない」

「そうか、いや…」

何か言いたそうなのに、どう言ったらいいのか迷っている様子だ。

しばらく考えていたが、やがて意を決したように尚斗の口から出た言葉は、梨月を呆然とさせるものだった。

「なあ、俺たちやりなおさないか?」

「は?」

 今なんて言った?やりなおす? 

尚斗は、今度は一体何を言い出すのだ。

「だから、もう一度ちゃんと付き合わないか?」

「つきあう?なにそれ本気?」

 なにがどうなって、そんな事になるんだ。

「本気だよ、今度はちゃんと、付き合いたいと思ってる」

「だって後悔してるんだろ?」

尚斗の言っている意味がわからない。

 それは尚斗もわかっているようで、

「ああ、いやだから、後悔してるってのは、あのときあやふやなままにした事で……ごめん。なんだかどう言ったらいいかわからなくて…」

 どう説明したらいいのか……言葉を探すように考える尚斗を前に、梨月の心は空虚なものになっていった。

なぜ今このときになって、そんな話になるのだろう。

あの後、一切の連絡も無かったというのに。もうとっくに忘れられた存在だと思っていたのに。

それに、根本的におかしいのだ。だって本当は、

「おかしいよ尚斗、だって本当は、俺とちゃんと終わりにしなかった事を後悔してるんじゃないだろ?」

「……どういう事?」

「そんなんじゃなくて、俺と、寝たこと事体を、後悔してるんだろ?」

 はっきりと口にすると、すうっとその事実が胸の奥に重く圧し掛かる。

 ずっと気づかない振りをしていた、でもわかっていた。

 自然を装って離れていった尚斗の、本当は関係そのものを後悔している気配を感じ取って、梨月は、本当は傷ついていたのだ。

「違う、そうじゃない」

「違わないよ。だって、俺中二だったもんな、てんでガキじゃん。そんなガキ相手にするなんてさ、やっぱおかしいじゃん、へんだよ」

 こんな事、言いたいわけではないのに、止まらない。

尚斗もそんな梨月の様子を見て少し面食らっている。

「あん時、尚斗もう確か22歳だったよな、それって成人してるんだから、俺に手出すのって犯罪じゃん。やっぱ後悔してあたりまえだって」

自分の言葉で胸が痛む。自分自身を傷つける。

「梨月……」

「俺は、ただセックスに興味があったバカなガキで、あんただって、ただ男に興味があっただけだろ?たまたまお互い気が会ったから、関係を持っただけで……尚斗が後悔する必要はどこにもないのに、後悔したんだろ…でもそれってしょうがないよ」

それでも、過去のこととして考えられるようにはなっていたのに、何故今さら。

一緒にいた時の記憶は、それでもやさしいものだった。いつも一緒にいた涼平とは別の、年上の存在。父親のいなかった梨月にとって、思春期の多感な頃その存在は確かに必要なものだった。

まだ女すら抱いたことのなかった梨月にとって、何もかも始めての経験で、生理的な射精の快感しか伴なわなかったが、暖かい肌の触れ合いは、少しは心をほっと落ち着かせてくれるもので…。

 それは恋、という感情ではなかったかもしれないが、たとえ尚斗がバイトをやめてしまったことで無くなる様な薄い繋がりだったとしても、梨月には必要なものだった。

だが、軽い関係のセックスフレンド、という関係を受け入れるには、梨月はまだあまりにも幼かった。尚斗は、徐々に重く感じていったのだろう。梨月もそれがわかったから、離れていってもそのままにした。

それなのに。

あること、で梨月の領域を侵したことにこそ、結局梨月は心から傷くことになった。

 だから本当に、忘れていたかったのだ。そんな過去もあったな、と落ち着いて言えるほど、まだ人生を経験しているわけではない。

何故今になって……。

「だから無理。つきあうとか、もうそんなのありえない」

「梨月、でも俺は」

「それにあんた、彼女いるっつってたじゃん」

 『ハヤノ』で会った時、尚斗は彼女がいる、と言っていたはずだ。

(それなのになんで俺のとこなんか来てるんだよ)

 尚斗のつきあう、というのは、やはりそういう体だけのことを指しているのだろうか。

 そうしてまた、意味のないセックスを繰り返すのだろうか。

「彼女とは、もう別れたんだ」

「…………」

「もうあまりうまくいってなかったんだけど……おまえに『ハヤノ』で会った2、3日後くらいかな、別れたのは」

「なにそれ……」

 梨月は感情の欠落したような冷たい声で言った。

「実はずっと、気になっててさ、梨月のこと。あの日も、店に行くまで迷ってたんだ。一人だったらきっと入ってさえ行けなかったかもしれない。村上さんと一緒だったから、なんでもない風にしてられたけど。もちろん、あそこで梨月に会える保障もなかったけどさ」

でも梨月はいた。三年たっても、やっぱり梨月は綺麗なままで。

 そして、会ってしまったら、抑えていた想いが止まらなくなってきて……。

「俺のせいだとでも言うのかよ」

それでは、梨月のせいで別れた、と言っているようではないか。

「違う。そうじゃない。梨月のせいだとは言ってないよ」

「違わない、同じことだろ。……それでなに?俺のせいで彼女とはもう別れたから、今度は俺に付き合えって?」

「それは……違うよ梨月。確かに、俺が彼女と別れたキッカケのひとつとして、おまえと再会したことがあるかもしれない。だけどあくまで俺自身の問題で、梨月に責任を押し付けてるんじゃなくて」

「あたりまえだろ、俺は、なんでその事をいちいち俺に話す必要があるんだってこと言ってんだよ」

大人の嘘と屁理屈を混ぜたような言い訳にうんざりして、言葉を遮るようにして言った。

「それは……」

尚斗が彼女と別れようが、梨月には何の関係もなくて当たり前だ。

 三年間一切連絡がなかった過去の相手が、どういう生活を送っていようと、誰とつきあっていつ誰と別れようと、そんなの知った事じゃない。

 それなのに何故尚斗は、今、ここで、このタイミングで俺にそれを言う必要があるのだ?

「卑怯だよ、尚斗は」

「そう、かもしれない。卑怯だよな俺。でも、それでも俺の今の気持ちを、過去あやふやなままにしてしまったからこそ、ちゃんと伝えたいと思ったんだ」

「……意味わかんねぇよ。だって、あんた後悔してるんだろ?だったら、もう過去のことはなかったことにすりゃいいじゃんか。今になって、なんで蒸し返すようなことすんの?」

 つきあうとか、やりなおすとか、そんなこと、本気で考えているのだろうか。

 あの頃、尚斗に対して、確かに少しは恋愛感情のようなものがあった。

 それが新しくできた兄のような存在に対する感情だったとしても、好き、というプラスの思いには変わりなかったはずなのに……。

今は?

 今、目の前のこの人に対して、全くなんの感情も湧いてこないのは、何故だろう。

 本当に、俺は、どこかおかしいのかもしれない。

 でもだって、それは、しょうがない。

だって、俺は知っている。

知っていたんだ。

「梨月、好きなんだ」

「好き……?」

(なに、言ってんの?)

 突然、頭の奥がどす黒い感情で一気に覆われていく。

 好きって?

尚斗の好きって、一体ナニ?

 ぷつ、となにかが切れた音が聞こえた気がした。

「いいよ、付き合っても」

「え?」

 俯き加減だった顔を、一瞬嬉しそうに上げた尚斗は、梨月の顔を見た途端に訝しげに顰められる。

 梨月はまるで能面のように冷たく冴えた瞳で、尚斗を見ていた。

その瞳には何の感情の色も浮かべていない。

「梨…月……?」

「でもさ、俺やっぱ昔みたいに、セフレとしてしか付き合えないけど……それでいい?」

「な…に言ってんだ、梨月」

「いいじゃん、それで。……やり直すとかさ、めんどくさいよ。どうでもいい」

「梨月、だから俺は」

「それ以外にどう付き合うっての?恋愛ごっこすんの?遊びでなら別だけど。それ以外だったらヤルだけでいいじゃん」

「梨月……だけど俺は」

だって、知っている。

「だってさ尚斗……あんた」

そこで梨月は言葉を切ると、うろたえている尚斗の顔をやっと感情を込めた瞳で見た。

「あんた、楓月ともやったじゃん」

ひどく乾いた声が出た。

尚斗が梨月を驚愕した表情で見た。

まるで最後の切り札とも言うべき事を口にすると、梨月の心はますます重く暗く沈んでいく。

「な…んで……」

「知ってるかって?そんなん、楓月本人に聞いたからに決まってるだろ」

 

 

 

連絡を取らなくなって一週間位経った頃、俺はもう尚斗との事は過去の事としていつもの生活に戻っていた。そのつもりだった。

 その頃はまだそれほど遊びまわって、外泊するということのなかった楓月だが、その日は友達の家に泊まった後で、朝洗面所で顔を合わせた梨月に向かって、

「ねえりっちゅ、俺尚斗とやっちゃったー」

 とものすごいことをなんでもないかのように言ったのである。

「やっちゃった……って……」

あまりのことに呆然とする梨月を置いて、楓月は台詞の内容と、態度が全くかみ合っていないまま更に続けた。

「んー、ねえりっちゅって趣味悪いよね」

「な…っ…」

「あいつさー、最初は俺のことりっちゅと間違ってたんだよね、久しぶり、元気かー?とかなんかちょっとキョドってるかんじ?で言っててさ、そんなんだから、面白くなって、しばらくりっちゅのふりしてたの。でもさ、いきなりキスされそうになっちゃってー、さすがに、りっちゅじゃないよーってばらしたのにさ」

楓月は一旦言葉を切ると、梨月をチラッと見て肩をすくめた。

「あいつ、楓月君は男に興味ある?とかエロい声で言ってきてさー、なぁんかサイテー。とか思ったんだけど、やっぱ俺も男の子だし、色々と興味あったし」

 だからやっちゃった。

 梨月は衝撃にただ呆然と楓月を見ていたが、その言葉の意味が理解できると、足元からガクガクと崩れていくような錯覚を起こす。

「でもあいつ、へったくそなんじゃん?あんなんだったら、やらなきゃよかったなー」

 楓月が更に追い討ちをかける。

 そして、梨月ははっきりと自覚した。セフレだから、と軽く遊んでいるように言っていても、梨月自身全く割り切れていなかったことを。

 そして、それに対して、相手こそがはっきりと遊びの線を引いていたことを。

しかもよりによって、何故楓月を巻き込むのだ。

当の楓月が遊びの延長にしか思っていなかったとしても、梨月はとても平気ではいられなかった。

 

 

 

尚斗はその事を梨月が知っているとは思わなかったのだろう。都合のいいようにしか考えていないのだ。

なんて、卑怯なんだ……。

さらに梨月はふと思い当たる。楓月が、誰かれ構わずに遊び出したキッカケは、尚斗との事だったのではないかと。楓月ほどではないにしろ、梨月もモラルが薄くなったキッカケは、やはり尚斗だったのかもしれない。

 双子揃って、サイアクだ。

 楓月にも、尚斗を誘うような所があったのかもしれない。

それでも、そういう事実が過去にあった事は確かなのだ。

その事も言わずに、ましてや今まで何の連絡もよこさないままいきなり現れて、もう一度やり直そうと言われても、何かの冗談か、からかっているとしか思えない。

つきあっていた頃の尚斗への感情は、最後の最後で裏切りという行為で踏みにじられているのだ。たとえそれが梨月側の一方的な感情だったとしても。

それなのに、尚斗は梨月を好き、と言う。

好きって、ナニ?

 俺には、わからない。だから……

「なんなら今からヤる?」

すべてがどうでもよくなってきて、梨月はほんとにこのままどこかのホテルに行こうが、いっそここでこのままやろうが構わない気になっていた。

「梨月…俺は、確かに楓月とも……それは認める。あの時、中学のおまえに手を出した事を俺も悩んでて、この先どうやって付き合っていくか、色々考えてた時で……でも今は、ちゃんとおまえに対して向き合おうと思ったから、だから」

それでもまだ言い訳じみた事を言う尚斗が、いっそみじめに見えてくる。

「なんだよそれ、中学の俺に手を出して悩んでるわりに、楓月にも手出してんじゃん。わっけわかんねぇ。ヘタな大人の言い訳にしか聞こえねぇよ」

「それは……」

「いいじゃんもう、やりたいんだろ? だったらごちゃごちゃ言ってないで、さっさとやることやろうよ」

「り、梨月…」

 一歩、尚斗に近づく。

 尚斗は戸惑ったように、目を泳がせた。

この人はこんなに小さな存在だっただろうか。

 楓月の事を知ってショックを受けたが、それでもやはり完全に嫌いにはなれずにいた。なのに、あの頃はもっと大人に思えて、やさしくて、兄のように感じていた思い出の中の尚斗は、今はこんなにちっぽけで、そして、醜い。

 そう思ってしまうことが、悲しい。

今さらどういうつもりがあったのか解らないが、梨月が何も知らないと思ってうまく取り繕うようなことを言っていた尚斗は、少しずつ後ずさりしながらおどおどと言った。

「あ…のさ、今日は、とりあえず、帰るよ」

「ふぅん、やんないんだ」

「じ、じゃあ、また」

そのまま踵を返し、振り返りもしないで歩いていく尚斗に対して、過去慕っていた相手に対する感情は何も湧いてこなかった。

きっと今度こそもう二度と会う事はないのだろうな、と思う。

『趣味わりぃよな』

 ふと桐吾に言われた言葉を思い出す。

 過去楓月にも言われた言葉なのに、なぜか桐吾の顔が浮かんできた。

 なんだよ、なんでこんな時に……どうしてあいつの事なんか……。

 このまま家にも帰りたくなかった。

帰れば、楓月がいるだろう。楓月には何の関係もないことだが、それでも今この精神状態で楓月と普通に顔を合わせていられる自信がなかった。

公園を抜けて、来た道を少し引き返すと、マンションがある。 

バイトを終えてからもう1時間は経つが、今までの時間が梨月にとってどんなにも重苦しいものだったとしても、コンビニから見える店内はいつもと何も変わらずに明るい。

「何やってんだろ、俺」

 ふいに、笑いがこみ上げてきた。

「ふ……ふふ……」

 そしてそれは徐々に全身に広がっていく。

「はは…あはは……っは……」

 なんだこれ、とまらない。

梨月はお腹を抱えて、自分を抱きしめるようにしながら、襲ってくる波に身を任せる。「ふ……ははは……は……っ」

「おかしなやつだな、泣きながら笑うなんて」

 その言葉に、驚いて顔を上げると、桐吾が呆れたように立っていた。

梨月は抱えていた手を顔に当ててみると、なるほど自分で意識しないうちに、涙が頬を濡らしていた。そんな自分が急に恥ずかしくなって、ごしごしと袖で顔を拭う。

桐吾の手に提げられたコンビニの袋を見て、どうやら今が帰りらしいと知る。

 なんでこんな時に、こいつに会うのだろう。

 だが梨月は、いつもを過ごす慣れ親しんだ『ハヤノ』ではなく、無意識にここに向かっていた。

 桐吾に会うかもしれないと、心のどこかでわかっていながらも。

「……おっさん…」

 桐吾は腕時計をちらりと見て、

「もうとっくにバイトは終わってるはずだろ?」

 こんな場所で、自らを抱えて泣き笑いをしているという、あきらかにおかしい状態の梨月に対して、いつもと全く変わらない様子で話してくる。

 だが、いつもおっさんと呼ぶことにいちいち文句をつけるのに、今日はそこには何も触れない。

梨月に近づいてきて、無理やりこすったために赤くなってしまった目を覗き込むと、からかうように言った。

「それとも何か?俺の帰りをわざわざ待っててくれたのか?」

「…ん……なわけ……っ」

 ないだろ、という言葉は桐吾に塞がれて、最後まで言えなかった。

 また……なんでこいつはいつもいきなり……・

 そう思いながらも、梨月は抵抗しなかった。

 軽く押し付けられるだけですぐに離れた唇を、ふと名残惜しく思う。

 いつもの噛み付くようにぽんぽんと言い返す威勢は全く鳴りを潜め、梨月はぼうっと離れていった桐吾の唇を見つめていた。

「……あんまり無防備でいるな。襲うぞ」

 キスしておきながら抜け抜けと桐吾が言うが、梨月は力のない瞳のまま「いいよ」とつぶやく。

 はあ……、とため息をつきながら桐吾は、梨月の頭をわしわしとかき回す。

「あのなあ……ま、いいか。ついてこい」

 そのままぐいっと引き寄せると、マンションに向かって歩かされた。







メニュー    第8話    第10話