不機嫌な恋情 第5話
学校もバイトも休みでも、休日は今付き合っている相手もいない梨月にとっては、特に何もすることのない暇な日だった。
楓月はどうやら出かけたらしく、一人で家にいるのもなんなので、『ハヤノ』で昼ごはんでも食べに行くことにした。
「いらっしゃい。ランチでいいの?」
いつも大体、この時間にここに来るときはランチ目当てなので、涼平も特に注文を聞いたりせず水を置いてくれた。
「今日のメニューなに?」
「きのこのパスタと、アボガドと海老のサラダ」
「やり、アボガドサラダすき」
やった、とおもわず笑顔になる。ここは日替わりメニューなのでその日その日で違うのだが、今日のメニューは梨月のお気に入りのものだった。
「飲み物はホットでいい?」
「ん。あとチョコケーキも」
「はいはい」
涼平相手には甘えてしまうのだが、兄みたいなものなのだから仕方ない。
また涼平にしても、双子たちはついつい甘やかしてしまう存在なので、お互い様だ。
でも楓月と違って、普段あんま甘いものって食いたいと思わないんだけどな。
楓月がついでに買ってきてくれたものは口にするが、それ以外で自分でちょくちょく甘いものを買う事はない。
まあ、『ハヤノ』に来て何か物を食べる時に、チョコレートケーキを食べないと落ち着かないっていうのも、もう半分刷り込みみたいなもんだよな。
それ程甘くないし、大きさもちょうどいいし。
待っている間手持ち無沙汰だったので、梨月は店内に置いてある雑誌をぱらぱらとめくり軽く目を通していた。
とりあえず腹ごしらえが終わったら、どっか行くかな……。
バイトもないから、あいつに会うこともないし。
(なんでいちいちあいつのこと考えなきゃなんねぇんだ)
めくるページの内容はさっぱり頭に入らず、余計な事ばかりに気を取られている自分の考えに呆れてしまった。
「いらっしゃいませー」
休日とはいえ昼時なのでそれなりに客が入るようだが、平日ほどではなく、店内はまだ空席がいくつかあった。カラン、と音がするたびに涼平が声をかける。
「いらっしゃいませ。あ、古賀先輩、ひさしぶり」
「ちわ、涼平、元気に働いてるか? 店長ひさしぶりです」
その声に、梨月は驚いて顔をあげた。そこには、かつてこのカフェでバイトをしていた、涼平の大学の二つ先輩だった古賀尚斗がいた。
そして、その尚斗と一緒にいる人物を見て、梨月は更に驚く。
(どうして…尚斗があいつと一緒にいるんだ)
「古賀くん、久しぶりだねえ、元気だった?」
「元気ですよー、今日は実はまだ仕事中なんですけど、近所に来たから先輩にここ教えてあげようと思って」
「それはそれは、どうもいらっしゃいませ」
「どうも」
どうも、と尚斗の後ろで軽く会釈だけ返した、尚斗の先輩であるらしい桐吾は、軽く会釈を返した後ぐるりと店内を見回した。
カウンターにいた俺は咄嗟に顔を背けるが、桐吾は見逃さなかった。
梨月に気づくと、桐吾は驚いた様子だったがそれも一瞬だけで、
「なるほど、あまり明るすぎないで落ち着いた雰囲気で、なかなかいい店だな」
などと尚斗に話しかけている。
(あいつ、こっちに気づいたくせに……)
だが、向こうが知らない振りをしてくれるならそれはそれでありがたかった。
「でしょ?働き心地もかなりよかったですよ」
桐吾の一瞬の視線の意味には一切気づかずに、尚斗はにこやかに答える。
「しかしそうかぁ、古賀君が就職してから、もう1年経つっけ?」
店長の早野さんが懐かしそうに話す声を、梨月はどこか落ち着かない様子で聞いていた。目の前のランチを片付けながら、大好きなメニューのはずなのに味気ないものに感じて、義務的に口の中のものを咀嚼していた。
涼平が尚斗に仕事はどうですか?などと声をかけているが、できればさっさと奥の席にでも行ってしまってほしかった。しかしその願いもむなしく、二人は梨月から少し席を置いたカウンターに座ってしまう。
なんでよりにもよってこのとりあわせなんだ。と今日ここに来たことを後悔したが、もう遅い。
「あれ、梨月じゃないか」
なるべく反対方向を向いて小さくなっていたが、そう広い店内ではないので当然すぐに見つかってしまった。
「うわ、久しぶり、元気だったか?」
懐かしそうに笑顔を向ける尚斗を、複雑な思いで見返す。
古賀尚斗は、三年ほど前にこの『ハヤノ』でバイトしていた。梨月は当時まだ中学二年だったが、涼平もバイトしていたこともあり、その頃にはもうここで過ごすことが多かったのだが……。
梨月が気まずい思いをしているのは、尚斗とは店員と客、というそれだけの関係ではなく、梨月にとっては、初めて体を重ねた相手でもあったからだ。
二ヶ月ほど関係は続き、その後尚斗がバイトをやめてから自然消滅のようになって別れてたのだが、顔を合わすのはそれ以来はじめてだった。
別に、喧嘩して別れたんじゃねえんだし、普通にしてりゃいいんだよな。
「ひさしぶり…尚斗も元気そうじゃん」
一呼吸おいて出した言葉だが、思っていたより普通に声がだせて、梨月はほっとする。
「ほんとひさしぶりだよな。梨月はあいかわらずここに入り浸ってんのか、休みの日に一緒に過ごす彼女もいないのか?」
「何だよその言い方、ひどいな。今はいないだけだよ。それに入り浸ってなんかねえよ、今日はたまたま昼飯食いに来ただけだし」
「そうなのか?…でもあれから、三年だっけ?もうおまえ、高校生なんだよなぁ」
言ってしみじみと見つめてくるのが、別に変な意味で見ているのではないのだろうが、なんだかちょっと居心地悪かった。
仮にもかつてはベッドを共にした相手なのだ、当時は確かに、少なくとも嫌いではなかったのだが、今はもう遠い過去のように感じる。
「そういう尚斗は、彼女いるの?」
「いるよ、一応ね」
おどけたように言うと、尚斗はあらためて梨月を見つめた。
「……なに?」
視線に耐えられずに言ったが、
「いや、あのころから可愛い顔してたけど、なんかますます綺麗になったよな」
などと言うから、失礼ながら鳥肌が立ってしまった。
「うわ、なにそれ。尚斗ちょっとおっさん入ってるよ。やばいんじゃん?」
「久々に合った相手に対して失礼だな。あ、村上さん、こいつここでバイトしてた時の知り合いで…」
「よう梨月、コンビニ以外で会うのはめずらしいな」
それまで後ろで黙って見ていた桐吾は、振り返って言った尚斗の言葉を遮るように言った。
「あれ、知り合いだったんですか?」
尚斗は驚いた様子で、梨月と桐吾を交互に見た。
……こいつの存在を忘れていた。
というか、今まで会話にも加わろうとしなかったので、このまま知らん振りを決め込んでいるとばかり思っていた。だがどうやら、桐吾は話し出すタイミングを計っていただけのようだった。
「まあな、さっきこいつみつけて驚いた。古賀と知り合いだったんだな」
「ええ、梨月は俺がここにバイトしてたときからの常連で…」
カウンターの中にいる涼平を指して、
「あの藤木と梨月が幼馴染みなんで、自然と話すようになったんです。あ、藤木は大学の2個下の後輩で、今はここに就職したんだよな」
問いかけられた涼平が「そうです」と答える。
「へえ、でも常連ったって、その頃おまえ中坊だろ?んなガキがなんでこんなとこ来てんだよ」
もっともな疑問だが、当の梨月は答える気は全くなかった。
桐吾が会話に加わった時点で、もう話す事はないとばかりにパスタをただ黙々と口に運ぶ。
そんな梨月を訝しげに見ながら、代わりに涼平が説明した。
「ここの店長は俺の叔父で、梨月共々赤ん坊の頃から可愛がってもらってたんですけど、俺がここにバイトに来るようになってからは梨月も店の方に入り浸るようになったんですよ」
「ふうん、なるほどな」
そんな説明、いちいちこいつなんかにしてやる必要ないのに。そう思うがあえて口は出さなかった。
尚斗がコーヒーを啜りながら懐かしそうに言う。
「あの頃から梨月と、あと楓月君の二人は有名だったよな……。楓月君も元気?」
「元気だよ。でもなにそれ有名って」
「二人で並んでると目立ってたじゃん……梨月ほんと、自分のことに無頓着なのもあいかわらずなんだな」
「なに言ってんだか、意味わかんねえ」
時々こうやって、世間一般での評価を自覚しろと促されるが、梨月は一向に頓着しなかった。
もちろん、自分がまあまあ恵まれた容姿をしているだろう事は解っているのだが、だが基本的には自分自身は一般的だと思っている。悪くはないが、それほどよくもなく。だから、言われていることの意味が、本当にわからなかった。
「…村上さんと梨月はどういう知り合いなんですか?」
ふいに、尚斗が桐吾に聞いた。
「どういうって……」
桐吾は意味深にこちらを見て、口を開こうとしたがその前に、
「コンビニの店員と客」
そっけなく梨月が言った。桐吾は軽く眉を上げただけで、何も言わなかった。
嘘は言ってない。そのものずばりの関係でしかない。
「コンビニ?」
「最近、梨月はK町のマンションの前にあるコンビニでバイトしてるんです」
涼平がお代わりの水をグラスに足しながら説明した。
「ああ、あそこの、へえ」
「で、俺はそこのマンションに住んでるんだ」
桐吾が補足する。まさか余計なことは言いはしないだろうが……。
そのマンション前での苦い思い出が梨月の胸によみがえる。
「なるほど、でもほんと、なんかすごい偶然ですよね」
「そうだな。おい、梨月」
「……」
話しかけんな。せっかくバイトも休みで、会うこともないと思ってたのに、全く予定外だ。
「おい、俺と古賀は六つしか年が違わないんだがな」
「は?」
何をいきなり言い出すんだ。言っている事の意味が読み取れずに、思い切り呆れた様子を隠さずに桐吾を見る。
その露骨な態度の違いを、尚斗は驚いたように見ていたが、梨月はそれには気づかなかった。
「は、じゃねえだろ。たかが六つの違いで、俺に対してはおっさん呼ばわりしてたってのはどういうわけだ」
「はあ?なに言ってんの?6才つったらかなりだろ。それに尚斗と違ってあんたはどっからどう見てもおっさん」
その言葉に桐吾はじっと黙り込み、それからニヤリとしてから、
「なんだよりっち…」
などと言うから、
「あああ!村上……さん……」
(ああくそ!楓月のやつ、ほんとに恨むぞ)
あやうく「りっちゅ」などと呼ばれそうになって、慌ててこちらも呼び方を直した。
それでも桐吾はまだニヤニヤと楽しむスタンスを崩さないまま、
「態度も随分と違うじゃないか、年上には突っかかってしか話せないのかと思ってたがな」
と話しを続けようとするから、梨月はすぐさまかっとなって突っかかってしまう。
「なんで、どこが?つか、尚斗とあんたを比べる方がおかしいだろ。ばっかみてぇ」
自分のしたことは棚にあげて、よくもそんなことが言えたものだ。
イライラしながら目の前のランチを黙々と平らげる。誰に対してでも人当たりの良いはずの梨月のそんな態度に、尚斗はますます訝しげな視線を送る。
「なんか……そんな梨月を見たの、初めてだな」
「別に、普通だよ」
尚斗にまでそっけなく答えてしまうが、もう正直こちらに構ってもらいたくなかった。
幸い、ピリピリとした梨月の態度に何かを思ったのか、それからは桐吾も特に話題を向けることはなく、社会人二人で話しながらランチを取っていた。
梨月は、いっそもうすぐにでも帰りたかった。
いくら過去の事とはいえ、関係をもっていた相手だ。しかも初めての相手でもあるのだから、自然消滅したとはいえ、普通に会話しているだけでも、無意識に緊張していたのか疲れてしまう。楓月と麻奈のような友達関係に戻れるほど、梨月は器用ではなかった。
大体、一体どういうつもりで今さらここに来たのだ。店長や涼平の様子だと、バイトを辞めてから尚斗がここに来るのは初めてらしい。
(しかもなんだって、偶然とはいえこいつと一緒なんだ)
梨月が過去のことをこれほどまで気にするのも、ただ単に初めての相手というだけでもなく、実際にはもっと他に理由があるのだが……。
そのことも含め、もう何も考えたくなかった。
(つかもう、考えるのやめた)
過去のことだ、気にするのもばからしい。
最近、桐吾と会ってから自分の思考がどんどんネガティブになっていっているようだ。
いいじゃん、どうでも。と楽天的に解決していた自分を、取り戻さないと。
「どうした?考え込んじゃって」
そうやって一人考えていた梨月に、涼平がチョコレートケーキと紅茶を持ってきてくれる。
自分の考えに没頭してしまっていた梨月は、はっと現実に戻る。
「あれ、紅茶は頼んでないけど」
「サービス。なんか梨月、浮かない顔してるからさ」
「なにそれ」
幼馴染みには、梨月の心の浮き沈みが手に取るようにわかってしまうらしい。
「ありがと、でも別になんでもないからさ」
「まあ、何でもないならそれでもいいからさ」
そう言いながら、でもその場を動こうとしない。
「?」
訝しく思って見上げると、目が合った涼平は、ちらりと尚斗の方を見てからこちらにこっそりと「大丈夫?」と聞いてくる。
涼平には、尚斗と関係があった事を知られていた。
なにしろ涼平と尚斗は同じ職場だったので、ここで仲良く話す梨月と尚斗の二人を見かけることもあたりまえだったし、何より一度、店の裏でキスされている現場を見られていた。
そういう尚斗の強引な面も知っているので、涼平はこのバイトに尚斗を紹介した自分と、更に梨月を引き合わせてしまった事に対して少し責任も感じているようだった。
でも、その当時、たとえ体だけとはいえ一応付き合っていると思っていたし……。
当時梨月が中学生で、相手は八つという年の差のある大人だったとしても。そして男同士だという最大の理由があったとしても。
母子家庭だから、というのもあったかもしれない。普通のその年代の子よりも少し大人びた考えを持っていた梨月は、自分の行動に責任をもてないほど子供ではないつもりだったので、涼平が責任を感じる必要はない、と思っていたし、実際涼平にも言ったことがある。
それに、今となってはもう過去の事なのだ。
「ぜんぜん大丈夫」
微苦笑しながら答える。そんなに顔に出してしまっていただろうか。
情けないな、しっかりしないと。
「そういえば、今日楓月はどうしてる?また誰かとデート?」
ふいに話題を変えて明るく聞いてくる涼平にほっとしつつ、でもその話題も今はなんとなくやめて欲しかったな、とため息をつく。
「いや、知らない」
「そっか、でもどうせまた夜まで遊び歩いてるんだろ?しょうがないなまったく」
「んー。あいつ最近変なんだよ、情緒不安定っての?妙に不機嫌な時あってさ、話しかけてもしかとされたりするし。かと思ったら鬱陶しいくらいひっついてきたり…今は誰とも付き合ってないみたいで、夜も結構家にいたりするし」
わけわかんねえ。とぽつりと呟く。
今までが今までだっただけに、夜家にいる、という事だけでも変なのだ。
「へえ、めずらしいね。でもまあ、どっちにしても涼平に迷惑ばかりかけてるんだね」
ほんとしょうがないな、と肩を竦めるその表情は、しかし親愛に溢れている。
それは梨月も同じで、
「だよな、まったく。でももう慣れちゃったからさ」
仕方のない奴だ、と許してしまっている。
涼平と楓月と梨月との関係は、家族のようでいて、兄弟のようでいて、でもそれよりももっと強いつながりがあるように感じる。
だから、本気で喧嘩をしたりしても、どこかで必ず許している。
特に、双子の間ではもっと強く深い絆で繋がっているのだ。
「梨月は、身内に特に甘いからねぇ」
どっちもしょうがないね、と涼平はくすりと笑いを漏らした後ふと表情を改めると、
「ね、あの人、ほんとは梨月とどういう知り合いなの?」
桐吾をこっそり指差して、興味津々に聞いてきた。
「だから、さっき言ったじゃん、客と店員」
突然の話題変換に、それでも聞かれるだろうとは思っていたので顔色も変えずに答えたのだが、
「だから、そんな雰囲気じゃないから聞いてるんじゃない」
とこっちの興味はそうそうすぐになくならないようだ。
しつこいなあ、何がそんなに気になるんだか。
そう思いながら、梨月が鬱陶しげに見たが、わくわくしたような瞳の涼平はそんな冷たい梨月の視線にめげる様子はない。
噂好きのおばちゃんかおまえは。
「雰囲気ってなんだよ。しつこいなほんと、関係ない、つってんだろ」
ぱく、と大きく口をあけてケーキを無理やり頬張る。大好きなケーキなのに、ちっともおいしそうじゃない食べ方に、梨月が本気でイライラしているのが判るので、涼平はこれ以上の詮索はやめにした。
「ふーん、そんなに言うなら、まあいいけどさ」
取り付く島もない。梨月は、いつもならもっと投げやりで、関係ないという相手に対してムキになる事はない。冷たいと思えるほどそっけない態度で接するのが常だ。それがこんなに感情的になっているのが意識している証拠なのに……。
(自覚ないのか?)
涼平が、問題の桐吾を見ると、向こうも丁度こちらを見ていた様で目が合った。
ただじっと見られているだけで、気圧される。どんな場合でも動じることない、大人の男。
確かに、今まで梨月の周りにはいなかったタイプだ。
桐吾はうっすらと笑いを浮かべ、涼平に「コーヒー、おかわりもらえるか?」とカップを掲げた。
「あ、はい。お待ちください」
これは、梨月の手に負える相手じゃないな。もしかしたら、楓月の不機嫌の原因も、この人絡みじゃないかな。
長年の付き合いというべきか、涼平の考えは結構的を得ていた。