ふたりだけの真理L〜心の奥に眠るもの

 

 

 

 

 

 

 僕が、兄と二人で住むあの家に帰らずに、ここで生活をするようになってから、もう一月近くが経過していた。

 

 

あの日、僕が兄に暫く家には帰らない事を告げた日、僕は兄が帰ってこない内に一度家へと戻り、当面必要になりそうな身の回りの物だけを鞄につめ、あの家を出た。もしかしたら、もう二度とこの家に帰ることはかなわないかも知れない、そんな厭な予感を抱きながら。

そしてその時の自分の中には『僕がいなくても、兄さんにはマイラーがいる』そんな子供じみた、いじけっぽい気持ちもあったのかもと、今では思ったりしているけれど。


 

とにかくその日、運よく研究所の事務室前に設置されている掲示板に、ルームメイト募集の張り紙を見つけた僕は、早速書き付けてあった電話番号に連絡をした。その部屋の先住人は、やはり研究所勤務の40歳がらみの気のいい男で、急な入居の希望を気さくに快諾してくれた為、僕は家出した初日から住居を確保することができたのだった。

 

 

家を出てからの僕は、いつどこで何をしていても必ず頭のどこかには兄がいて、食事をすれば、兄がきちんと食事を取っているか心配し、夜になれば、夜更かししないでちゃんと寝ているだろうか、戸締りはきちんとしているか、ストーブの火は忘れずに落しただろうか、厚手の毛布が入っている場所を知っていただろうか・・・・・・・・・ふとした拍子に一度考え出してしまうと止まらなくなってしまい、本当に困った。 

 

でも、きっと大丈夫。マイラーがいてくれれば、何も心配はいらないのだ。彼女ならばきっと、兄を幸せにしてくれるに違いないから、僕は少し離れた場所から幸せそうに笑う兄の顔が見れたら、それでいい。それだけで、いい。

 

 だけど、兄とマイラーが上手くやっていると無条件に信じて疑わなかった僕は、そんなことを考えながらも、本当は、心の奥底では、兄が僕以外の人間と幸福になる様をそのすぐ近くで見ることを恐れ、そこから逃げただけの、ただの臆病者でしかなかったのだ。偽りや飾りのない心で、兄の事を本当に一番大事に考える僕であったなら、あそこまで兄を追い込まずに済んだはずだった。

 

 

 

 「アルフォンス=エルリックさんは、こちらにいらっしゃいますか!?」

 

開発したばかりの錬成術式で試作した生体細胞を顕微鏡で覗き込んでいた僕に、慌てたような声が掛かったのは、もう間もなく一日の業務を終えようかという時だった。

錬金術研究所では、当然の如く白衣を着用する人間が多数いるため、研究所内に設置されている医局のスタッフが着る白衣には、ひと目でそれと分かるように、胸の部分に青い十字のマークが入っている。そして今僕に声を掛けてきた人の着る白衣に、そのマークがあることを認めた途端、兄の身に何かが起きたという事を察した。

 

 「さっき、エドワードさんが鉱物錬成部門の研究室で倒れられて・・・・・・・・」

 「それで!?兄は今どこに!?」

 

 医局のあるフロアは、やはりそれらしく薬や消毒液の臭いで満ちていた。その廊下を走りぬけ、さっきの医局の人間から聞きだした部屋へとたどり着き、そのドアを開けようとノブに手をかけたところで、室内から聞こえてくる声に気がついた。部屋のドアは存外薄いらしく、かなり明瞭にその声が聞き取れた。

 

 『・・・・・・・ですから、なぜこんな状態になるまで誰も気付かなかったんです?』

 『・・・・・いや、自分も時々昼飯いっしょに摂ってましたけど、多少残すくらいで一応は食べていたし・・・』

 

きつい口調で問いただしているのは、医局の医師のようだ。そして答えているのは、おそらく何度か兄のデスクの周りで見かけた事のある、あの研究員だろう。

 

 『・・・・ここまで極端な栄養失調になるなんて・・・・そのあと嘔吐の症状は?確認してませんか?』

 『嘔吐?先生はエドワードが摂食障害だと・・・・?』

 『いっしょにいれば、他にも何か気づく事、あるでしょう?例えば極度の精神的なストレスとか・・・』

 

マイラーの声も聞こえた。彼女が来ているのなら、自分の出る幕はないだろう・・・と、今はこのまま入室せずにもどろうかと迷う僕の耳に、その彼女の言葉が続けて入ってくる。

 

 『分かりません。私も、ここひと月ほどエドワードとはほとんど顔を合わせる機会がなかったので・・・・』

  

 なんだって?どうして!?マイラーと兄さんは恋人同士のはずなのに。もしかして、僕が原因でふたりの間に何か起きてしまったんだろうか?

 ひと月顔を合わせてない?とすれば、その間、兄はどうしていたんだろう。あの、僕がいなくなった、ひとりぼっちの家で、毎日毎日どんな気持ちで暮らしていたんだろう・・・・・・。

僕がドアの外でがく然と立ち尽くしているところで、また兄の同僚の声がする。

 

 『そういえば、一週間くらい前だったかなあ。いつも厚手のジャケットで分かりにくいんですけどね、こいつ。

ちょっと痩たんじゃないかって、冗談ぽく聞いてみたんですよね。そしたら“実は最近オートメイルがめちゃめちゃ重く感じるんだ”って返してきて。だけどあんまり明るい調子でいうもんだから、こっちも全然気にとめなかったんですケド・・・・』

 

 

 機械鎧が、重い          ?

 

 

 機械鎧は、それを装着する人の体型、骨格、重心の位置、筋力、身長、そして体重などを十分に考慮し、綿密な計算の上で、その形状や重さ、使用する材質を決定するものだ。だから、一度機械鎧を作りそれを装着した人間は、機械鎧と生身の肉体との間で不具合を生じさせない為に、日々同じ体格、筋力を維持しなければならないのだ。それを“重い”といった兄の言葉が意味するものとは・・・・・・・・。

 

同じ建物内で日々を送りながら、僕はいつ、兄のその姿を確認していただろうと思い返してみても、遠巻きに見かけたのが数えるほどあるのみで、一度も言葉すら交わしていないのだった。それも、僕自身が辛くなるからという理由だけで         !

 

 僕は、そのドアを開け室内に入ると、中にいた医師と、兄の同僚、それにマイラーに向かって無言のまま頭を下げ、壁際のベッドに寝かされている兄の傍らに行く。ひと月ぶりに、間近で見る兄は、きっと僕の気のせいではなく、小さくなっていて・・・・・。

艶を失った金の髪がシーツに複雑な線を描いている。兄さんのことだ、シャンプーもそこそこにトリートメントもしていないのだろう。頬からはすっかり肉が落ちていて、顔色は紙の様に白かった。見慣れた瑞々しかったはずの唇はかさついてひび割れ、力ない呼吸を繰り返していて。いつもの黒いジャケットを脱がされ露わにされたタンクトップの肩は、痛々しいほどに痩せ細って・・・・・・。

 

これが、兄さん・・・・・?あの、いつもまっすぐに前だけをみて、決して弱音など吐かない、強かった兄さん?

 

「どうして・・・・・こんな・・・マイラー・・・。マイラー、君は兄さんと一緒にいたんじゃなかったの?」

 ああ、どうして彼女を責める口調になってしまうのだろう?悪いのは僕だ!僕なのに・・・・・!

  
 「私の出る幕ではない」

 

彼女は殊更きっぱりと言い返してくる。

 

「私たちの関係は、あの日に、解消しているんだよ。アルフォンス。その心が自分にないことを知って、どうして恋人としての関係が続けられると思う?」

  

あの日、僕が兄への気持ちを自覚し、そのままその気持ちをぶつけてしまったあの日。  

なんということだろう。僕は自分の気持ちばかりを優先し、兄を傷つけたばかりか、さらにその兄から恋人という存在さえも失わせてしまっていただなんて。あまつさえ、その兄を一人置きざりにしたまま、一ヶ月もの間兄の苦しみに心を向ける事もしなかった。

その結果が、これか・・・・・・・・・・・。

 

僕は、手で顔を覆い項垂れるしかなかった。自分はなんて最低な人間なんだろう、と自責の念ばかりが渦巻いて、いっそ消えてなくなってしまえたらとさえ思った。だけど、兄のもとに、マイラーだけは、彼女の存在だけは戻してあげなくちゃいけない。

 

「マイラー、違う!君は誤解しているだけだ。お願いだから、もう一度兄さんと・・・」

「その答えなら“ノー”だわね」

 

言い募る僕の言葉はマイラーに遮られてしまった。

しかしそこでマイラーは、それまでの硬く、静かな怒りさえ滲ませていた表情を不意にゆるめると、きっと近くにいる兄の同僚と医師に聞こえないようにとの配慮だろう。囁くように小さな声で、僕に語りかけた。

「ねぇ、アルフォンス。誤解しているのは私ではなく、君のほうだよ。普段あれ程冷静な君が、そこまで取り乱し、我を忘れるあまり、真実を見出せないでいるだけ。・・・・・・私だって、エドワードを愛している。でもね、残念ながら君が想う程の強さで愛しているのかと問われれば、まだ私の想いはそこまでではないと、多分いえる。ただ、だからこそ、エドワードが真実求めているものが何なのか、私には分かってしまった・・・・」

 

まるで心におしよせるさざ波のように、彼女の静かな声は続いた。

 

「エドワードが心から愛し、求めているのは・・・・・・アルフォンス、君なんだよ」

まだ、彼女はその認識を変えないつもりらしかった。その誤解を解かない限り、彼女が兄のもとへ戻る事は望めないだろうと落胆する僕に、彼女の口調がイタズラを含んだものに変わった。

「ふふ。悔しいケドね?ここは、可愛いエディに免じて、とっておきのヒミツをおしえてあげるわ」

少し泣きそうな、それでいて明るい笑顔を僕にむけつつ、マイラーが僕の耳元に口を寄せて言ったセリフは、およそ今のこの場にはとてもそぐわない、爆弾発言だった。


 

「エドワードはいつも、イク時必ず、聞こえないような小さな小さな声で、“アル”・・・・・っていうんだなあ、コレが」

 

                    っ!?」  

 

「本当に、可愛くて、サイテーな男だよね、コイツって。」と豪快に笑いながら、兄の同僚と、何故かついでに医師までもを力業で引き摺り、彼女は雄々しく部屋を去っていった。

 

 

何だか、とてつもなく衝撃的なことを聞いてしまった気がする・・・・・。

でもそれは、兄が自分自身でさえも知ることのない、心の奥底に眠らせているものの発露なのだと何故か素直に感じられて、僕はこれまでの兄の言葉や行動にその片鱗が現れていなかっただろうかと、思い返してみる。

 

僕の良くない素行を知った兄が、あれ程までにがく然としていたのは、僕が兄以外の不特定多数の人間と関係を持っていたことに衝撃を受けていたからではなかったか。僕が三人での話し合いを持ちかけた時、急に激しく怒り出したのは、知られていなかったはずの恋人の存在が(実際、兄が外泊をしたことは一度もなかった)判明したのにもかかわらず、僕がその存在をすんなりと受け入れ、また、その仲を取り持つような行動を取った事に、憤りを感じたからではなかったか。そして今、兄がここまで憔悴しきっているのは、僕がそんな兄をあの家に一人置き去りにし、その存在を避け続けていたからではないだろうか。

 

もしそうだとするならば、僕は家を出るべきではなかった。兄を一人にするべきではなかったのだ。

 それよりもむしろ僕がしなければならなかったのは、兄の傍にいて、僕の愛がどんなに強く深く大きいものであるかを兄に知ってもらう事。そしてその気持ちのままに、兄をいつくしむ事だったのだ。それを僕は、自分の痛みばかりに目をむけて、兄をないがしろにしていた。

 

 

でも、僕はもう決して迷うことはしない。

あなたが目を覚ましたら、何度でも僕は言うよ。あなたを愛しているって。

そして、天国の母さんにかけて誓うよ。

あなたを必ず幸せにすることを、そして、生涯あなたの傍を離れないということを。

 

 

          兄さんの意識は、まだ遠いどこかを彷徨っている。僕は、兄さんの左手をとり、その薬指の付け根に、そっと・・・・・・誓いの口付けを落とした。

 

 

 

 

  

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