ふたりだけの真理K〜不在

 

 

 

「お前んトコの色男、そろそろ結婚でもするのか?」

 

 

西側の窓からオレンジ色の光が差し込んでくるデスクの上に、今日一日で仕上げた研究論文を項目ごとに分類して並べていたときだった。

まだダラダラと書類の片付けをしている俺とは対照的に、すっかり帰り支度まで完璧に済ませた同僚が、そう声を掛けてきた。まったく、仕事の手は遅い癖して、帰るとなるとこの素早さはどうよ?ってな相手に適当に返事を返す。


 「あん?知らね〜よ、そんなん。大体そんなこと兄貴に相談するこっちゃねぇだろ」

「いや、それがさ、ここんとこ彼氏、数あるお誘いを、ことごとくフリまくってるらしくてさぁ、すげー噂になってんだぜ?」

          で?兄の俺に事の真相を訊いて来いと、お前に喫茶室の“チーズハンバーグ&フィッシュフライ大盛りコーヒー付き定食“を奢って頼んだのは、どこのどいつだ?」  

「・・・・・・・・・なんで知ってんだよそんなコト・・・得体の知れん奴だな、相変わらず」

もちろん俺だってそんなこと知る訳もないし、テキトーに言ってみたら当たっただけのことだ。
 ちなみにその“チーズハンバーグ&フィッシュフライ定食”は弟の作るメシに匹敵する旨さで、ここ最近俺の中で一大ブームを巻き起こしている、魅惑的な昼食メニューだ。

 

 “得体の知れない俺”に恐れをなしたか、うるさい虫が退散した研究室は、もう俺ひとりを残すのみとなり、しん・・・と静まりかえった空間に、かさかさと紙の擦れる音が響くばかりだ。
 俺は、殊更ゆっくりとした動きで、丁寧にレポート用紙を綴っていく。これを綴り終えてしまえば、今日の作業はこれで終わってしまうから、ゆっくりと、ひとつ、ひとつ、やっていく。

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・俺は、家に帰りたくなかったのだ。

 

 

 

その旨いメシを作る優しい俺の弟が、二人で暮らす家に帰らなくってから、今日でちょうど2週間が経つ。
2
週間前、あの渡り廊下で突然叩きつけられた帰宅拒否宣言に衝撃を受けながらも、俺は反面、これでいいのだとも感じていた。
少しの期間、互いに距離を空けることで、落ちついた気持ちで自分を見つめなおす場所を得た弟は、多少時間がかかろうとも、やがて自分自身の思い違いに気づくだろうから。

 

そうすれば、必ず、あの優しく柔らかい笑顔を携えて、そしてきっと少しばつが悪そうに、俺のもとに帰ってきてくれる日が来るはずだ。
 だから兄の俺は、ただその弟を、信じて待っていてやればいい。

 

 

 

               でも、寂しかった。“信じて待っている”なんて、兄貴ぶった気持ちが持てたのは、ほんの最初の2.3日だけで、それから後、家での俺は、電話のベルや玄関のノッカーの音に過敏に反応し、妙に周りの音が気になり深く眠る事が出来ず、食事も喉を通らない有様だ。

キッチンに入れば、そこにいるはずのない弟の姿を探す自分がいて。リビングのソファーに座れば、傍らにいるはずの温もりを無意識に探っている自分の手の動きに気づき。それならばと自室に篭ればなおさら落ち着かず、結局俺が家にいる間過ごす場所は・・・・・・・・何故か弟の、アルフォンスの部屋のベッドの上だったりする。


 

弟の不在から4日目の夜、俺は堪らないもの寂しさと喪失感を抱えながら、自分の落ち着けつる場所を求め、夢遊病者のように家中を歩き回った。それこそ、バスルームや、納戸、地下にある書庫、家の外にある木製の物置、はてはクローゼットの中までも。そして散々さ迷い歩いた末、辿り着いたのがここだった。ここならば、その気配こそないけれど、アルフォンスの香りがある。目を閉じて、その香りに包まれている間だけは、かろうじて俺は短い時間ながらも眠りに落ちることが出来た。 

 

 

そして、見るのはいつも、弟の夢ばかり・・・・・・・。


 

 

アル。アル。アルフォンス。俺の愛する弟。

思えば今まで生きてきた中で、こんなに長い間、お前と離れていた事なんか一度もなかったと、初めて俺は気づいたよ。

いつも、当たり前のように、俺の傍にいてくれていた存在が、ここまで大きなものだったとは正直思っていなかった。 

いつかは普通に、優しい可愛い女と結婚し、家庭を作るため、ここを出て行くだろうお前。

馬鹿な兄貴だと笑ってくれていい。

俺は、そんな当たり前な未来を、今まで想像すらした事がなかったんだ。

いつまでも、ずっとずっと、お前と一緒にいられるんだと何の疑いもなく思っていた俺は、本当に、大馬鹿野郎だ。

そうだよな、そう遠くない将来、お前はきっと俺のもとから離れていってしまうんだろう。

だからせめて、それまでは、近くにいてくれ。

もっと、傍にいて欲しい。

今だけだから、いつか一人残される日が来てもいい。

だから。

 

だから、早く戻って来てくれ、アルフォンス・・・・・・・・・・。 

 

 

 

           目が覚めたのは明け方で、まだ、カーテンからは薄明るい光りが透けて見える程度だ。         

 

俺は、泣いていた。

夢の中に弟がいたのは覚えていたが、その内容は覚えていない。今見た夢が幸せな夢だったらいいなと思い、俺はまた、ベッドの上で少し泣いた。

 

日が昇って明るくなれば、この滅入った気持ちもいくらかはマシになる。太陽が昇ったら、気合を入れてきっちり身支度をして、今日も早く家を出てしまおう。研究所に行けば、人間が大勢いるから寂しくないし、研究に集中している間は弟のことばかり考えずに済む。食事だって、外でなら少しは食べようという気も起きるんだ。だから、大丈夫。俺は大丈夫、大丈夫なんだ。

 




 

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