ふたりだけの真理J〜彼女は知っている
自分の中に、こんなに激しい嫉妬の感情があったなんて、僕は知らなかった。
耳にすればすぐにそうと分かる、恋人としての時間を過ごしているときだけに使われているのだろう、その呼びかけ。
『エディ・・・・・・』
その名で呼ばれる時、兄は一体どんな表情を浮かべるのだろう。どんなに熱い瞳で、彼女をみつめるのだろう。どんな仕草で彼女に触れ、そして、触れられるのだろう。
そんな事が一瞬のうちに僕の頭のなかを駆け巡り、兄の肩を捕まえている彼女のその手を、すぐにでも振りほどいてやりたい焦燥にかられ、無意識に自分の拳をぎゅっと強く握り込んでいた。
だけど、そのマイラーは僕に言ったのだ。自分は、僕の代わりなんだ、と。兄が真実心から求めているのは僕なんだ、と。
そんな信じられない事があるだろうか。
この普通では有り得ない僕の情愛がむく方向を、僕自身が自覚したのは今日、ついさっき前の事だ。それなのに、そのもっと前から、兄は無意識にもそれと同じ気持ちで僕を求めていた、なんて。 やっぱり、信じられなかった。
マイラー、いくらなんでもその突拍子もない疑念は、どう考えても非現実的すぎるよ。そんな三流の恋愛映画みたいな筋書きは、あまりにも都合が良すぎて、すんなり受け入れることはとても出来ない。
兄さんは、やはりというかあたりまえというか、僕のほうには一度たりとも目線を寄越してこない。きっと今の彼は、僕に話しかける事も、僕と同じ場所にいることさえ苦痛に感じているに違いなかった。きっと嫌悪しているだろうに、僕を傷つけないように、そんな表情は露ほども見せない兄の優しさが、僕の胸にチクリとした痛みを与える。
兄さん、と僕ができるだけ刺激しないようにそっと呼びかけると、兄の体がビクリと反応したのが見て取れて、そのことに、僕はほんの少しだけ傷ついた。
でも、僕が兄に自分の気持ちを知らせてしまったことで、きっと恋人であるマイラーと兄の関係にも少なからず波風がたたないとも限らないし、何より、今日からの兄が帰るべき場所についても、今のうちに話し合わなければならなかった。
ざわつく胸のうちを押さえ込み、僕が兄に3人で話し合うことを提案したその時だった。
それまで目線をそらし、僕の視界にも自分の姿を極力いれないように身体を縮こませていた兄が、急に怒りの表情をあらわにして僕に言葉を投げつけてきた。僕の言った言葉のどこに、兄を怒らせるような原因があったのか、僕には分からなかったのだけど、マイラーはやっぱりね、と小さく呟いた。
「え・・・?」
「あれ?アルフォンスには、・・・・分からないかなぁ?なんか意外だ。結構君にもニブいトコあるんだねぇ」
今まで生きてきた中で、“聡い”といわれることはあっても“鈍い”といわれたことが皆無だった僕は、マイラーの言葉に面食らった。
しかし確かに、今の兄の態度が一体何を意味しているのか、彼女には分かったらしいが、僕にはさっぱり分からないのだった。
もう時刻はまもなく午後の始業の頃らしく、いつしかこの渡り廊下にいる人影はまばらになっている。僕はひとまずその案件を頭の隅に追いやり、一番気がかりだった問題をまず片付けてしまう事にした。
「・・・・・・とにかくもう時間もないし、兄さんの意見は後で聞くとして。マイラー、悪いんだけど今日から暫くの間・・・・・そうだな、一週間くらい。兄さんを君の部屋から仕事に通わせてくれないかな」
「私は別にかまわないけど、あっちがどういうかだよね。」マイラーが苦笑しつつ、あっち、と目線で指し示す方を見れば、案の定自分の意見を棚上げにされたまま勝手に予定を決められていた兄が、凄い眼で僕を睨みつけていた。
「何で俺の行動をお前が決める?俺は自分が行きたいときに自分の意思でマイラーの部屋に行く。
弟のお前なんかに指図される謂れはねえんだよ!」
口調は荒いし言葉遣いも攻撃的で、いかにも怒っている様子の、兄のその表情だけが、何故か今にも泣き出してしまいそうに見えて、僕は咄嗟に兄の方に向けて伸ばしそうになった自分の手を、もう片方の手でぎゅっと掴んだ。
「・・・今日はお前がなんと言おうと、家に帰るからな」
「兄さん・・・・!」
頼むよ。どうかお願いだ。分かって欲しい。
「今日だけじゃねえ。明日もあさっても、ずっとずっとだ!」
「兄さん。お願いだから・・・・・」
どうして分かろうとしてくれないんだ。兄さんも男なんだから、わかるだろう?
「俺が俺の家に帰るのに、なんでお前に良い悪いいわれなきゃなんねんだよ!?」
「・・・・・・・・・分かったよ。それならば、家に帰るといいよ。そのかわり、今日から僕は暫く他所で暮らすことにするから」
「アル・・・・・!?」
「マイラーそういう事だから、もし兄さんが困っているようなことがあったら手助けしてやって欲しい。」
それだけ言い置いて、僕は兄とマイラーに背を向けて歩き出した。
この人と、一晩でも同じ屋根の下でなんか過ごせない。
今この胸の内にある激情は、頑強だったはずの僕の理性の砦を、いとも容易く崩し去ってしまうだろう。
願わくばそれと同じ想いが、兄の中にもあったなら 僕は迷う事無くその激情に身を委ねるのに。
でも、兄の僕に対して持つ思いは、そんな熱く甘く、激しい種類のものではないのだ。
いずれ、兄の気持ちが変化するようなことがあったとして、その温度が僕と同じになるその日がくるまでは、もう、僕が兄と共に暮らすなんてことは考えられなかった。
そしてきっと、そんな日は決して来はしないのだろうけれど。
「・・・・・・・・・・・アル・・・・・・・・」
渡り廊下の端まで辿り着いた僕の背中に、兄の、兄らしくないか細い声が届いたが、僕は振り返らなかった。