ふたりだけの真理G〜その存在の喪失
鉱物全般を相手にする研究セクション独特のこの埃っぽさは何とかならないものか。
冷め切って味も素っ気も無いコーヒーの表面に浮いている、この研究部門の名物ともいえる多種多様な鉱物の粉塵が、ゆらゆらと揺れながら俺の喉に運び込まれるのを今か今かと待っている様を凝視しつつ、俺の心を占めているのはむろんそんな瑣末な問題ではない。
俺たちの兄弟喧嘩を発端として始まったあの朝の馬鹿馬鹿しい騒動は、なんとも恐るべきことに、最終的にはこの研究所に所属する人間のおよそ3分の1に当たる100人近くの動員数を記録していた事がその後判明した。
それにつけても、この錬金術研究所の人間達はそろいも揃って余程の暇を持て余しているとみえた。なぜなら雑用担当の下っ端や若い研究員達の中に、それはもう楽しそうに紛れ込んでいる医療系錬成部門の責任者の姿や、信じ難い事にこの研究所の統括管理者である所長の姿までをも俺はしかと目撃していたからだ。まあそのおかげで騒動の原因を作った俺達に対する責任の追及はなさそうで、その点ではひとまず安堵したのだが。
その直後には、俺のまったく予想だにしない残酷な事態が待ち受けていたのだった。
大勢の上司や同僚や、顔見知りだったりそうでなかったりするその他諸々の人間がひしめきあう状況の中、ましてやここは職場だ。そんなシチュエーションで、よりにもよって自分の兄で同性でもある相手に、そんな悪趣味で痴漢まがいな行為を仕掛けてくるなんて狂気の沙汰としか思えなくて、俺は本当に面食らってしまい、この弟の行動にどう対処したらいいのかさえ、すぐには思い浮かべることが出来ないでいた。
弟の手は俺の体の要所要所を実に抜け目なく這い回り、こんなありえない状況の中にいながら俺はマジであとわずかで天国を見せられてしまうくらい危険な段階にまで連れて行かれた。兄さん、と俺の耳に直接吐息とともに送りこまれてくる弟の、身をよじりたくなるようなその切ない声音に、あろうことか俺は恐れを感じつつもそれ以上に歓喜している自分をいやという程自覚させられ、そんな自分自身に吐き気すら覚えた。
兄さんにいさん、と俺に呼びかけながら、嫌わないでほしい、好きだといってほしいと、まるで睦言のような科白を熱に浮かされたかの如く呟くその様に狂気すら感じた俺が、ありったけの気力でもって怒鳴りつけるとようやく正気に戻ったらしい弟は、まるでそれまでの事が行き過ぎた冗談だったかのように振る舞い、目の前の群集にこの実に馬鹿げたレクリエーションの終了を告げ、やんわりと有無を言わせぬ口調で各自の始業を促したのだった。
そして、何のフォローも無しにそそくさとその場を離れていくのもどうかと思い、つい引き上げていく人々の流れに乗り遅れてしまった俺は、弟の顔を直視することもできないままぼそりと呟いた。
「・・・・・その・・・、悪かったな、アル。兄貴のくせして俺、めちゃめちゃお前にメーワク掛けっぱなし。お前が今すげー忙しいっての、分かってはいたんだけど。ゴメン、マジで配慮が足りなかったな、俺。」
「・・・・・・・・・」
俺の言葉に返事を返してこない弟につい目をやると、思いがけないほどに真摯な眼差しを真っ直ぐ向けてくる表情に突き当たり、その刹那・・・・・・・・・・・俺の本能ともいえる部分が、警鐘を鳴らした。
いけない、と。
弟にそんな表情をさせてはいけない。そして兄である自分は、そんな弟が浮かべる表情の裏側にはらむ真実に気付いてはいけない。
それに気付いてしまった事を、弟に悟られてはならない。
弟の左手が、俺の耳にそっと触れる。そこはさっき、奴自身がその唇で挟み込み、熱いを吐息を吹きかけてきた場所だ。逸らすことも出来ずにいる俺の目の先にあるのは、燻したような金色の瞳を苦しそうに細めながら笑みを浮かべている“男”の顔だった。
にいさん、とその唇から声が紡ぎだされて、それは俺の身体中を、染み渡るようにじんわりと広がっていった。
「にいさん。・・・ごめんね。・・・・・・・・・・・・・・ているよ」
いけない。それを聞いてはいけないんだ。
「兄さん、にいさ、ん・・・・・・・にいさん・・・・」
やめてくれ!そんな声で俺を呼ばないでくれアルフォンス!
弟のもう片方の手が俺の左の頬に添えられ、その親指が優しい動きで俺の唇をなぞっていく。そんな弟の動きを制止する事もかなわないままにただ瞠目し、人形のように全身を硬直させたまま俺は・・・・・・。
その、懺悔のような告白を聞いていた。
「愛しているよ。」
なぜ、そんな当たり前な事を今更告げる必要があるんだ?だって家族なんだから、愛しているのは当然の事だろ?
「ずっと、愛していたよ」
俺だって、お前がこの世に生を受けたときから今までずっと、ずっとずっと愛してきたよ。
「愛しているんだ・・・・・・・・・・・・・エドワード」
それは紛れもなく、弟が兄である俺に対して告げた、決別の意思表示だった。
この世に生けるものの内で、一体どれほどのものが自身の未来を予め知る事ができるのだろうか。否きっとそんなものはいやしないのだ。
それはなんて残酷な事だろう。そうと知っていれば、少なくとも今の事態を避けることもあるいは可能だったかもしれないのに。
しかし、采は投げられてしまった。
この瞬間俺は、他の何ものにも決して代える事のできない、自分自身の命ともいえる存在である“弟”を永遠に失ったのだ。