ふたりだけの真理F〜自覚
僕は今日、生まれて初めて“自分の理性の糸が切れる音”というのを聞いた。
最初はただ、ほんの軽い悪戯心から出た思いつきだった・・・・と、思う。
大人となった今では、普段あまり素直にそんな素振りもみせないけれど、彼は僕の中で一番に尊敬する人物で、一番大事な人で、絶対に失くし得ない存在で、その人のありようそのものが僕の中核を成しているといっても過言ではなかった。
そんな兄に、僕はなぜあんな振る舞いが出来たのだろうか。いや、そもそもあの衝動自体が、この僕の中の一体どこからどのようにして生まれてきたのか、それを自分自身で分からないことが、怖かった。
自分でも嫌悪したくなるほど言い訳がましいのは分かっているけれど、本当に、最初はあんなふうに顔を赤くする兄さんの表情をみて、その様子をからかって、それにまた兄さんが怒って、最後には僕が「ごめんね」という・・・・・ただ、それだけのはずだったのに。自分を止められなかった。止めることは、出来なかった。
まだまだ僕と兄の共有する空間は多く存在するけれど、この先年月の経過とともにその空間も次第に小さくなっていくに違いない。生きて生活している以上、この限られた空間だけに閉じこもっている事は不可能で、当然それぞれが外側に向けて自分なりの新たな空間を形成していく。それが世間一般の“兄弟”のあり方だ。でも僕はそれを認めたくなかったし、だからこそ僕が兄の知らないところで形成している世界の存在を出来るだけ兄には知らせたくないと思っていた。そうしなければ、より僕たちの共有する空間が少なくなっていくような気がして。いつまでも、お互いが他の何にも代えがたい存在でいられるように 。
きっと僕は無意識の内にそんなことばかりを願っていたように思う。
でもそんな僕の漠然とした、未来に向けた甘すぎる展望は当然のごとく打ち砕かれた。そう、僕が今まで兄の見聞き及ばぬ庭で積み重ねてきた行いのすべてをその兄が知ってしまった、この瞬間に。
兄はそんな僕をどう思っただろう。少しは自分の知らない弟の顔に寂しさを感じてくれただろうか。それとも、いままで信頼していた清廉だったはずの弟の爛れきった様に嫌悪し、軽蔑しただろうか。
その刹那、それならばいっそ。・・・・・・いっそ、これまで積み上げてきた何もかもを壊してしまえば、あるいは新しい道が開けるかもしれないと心のどこかで響いた悪魔のような声は、僕自身の暗く汚らわしい欲望から湧き出てきたものに違いなかった。
僕が囁くたびに、肩を震わせてはその身体を強張らせる反応とか、涙を溜めながら思わずきつく閉じる目蓋とか、時々無意識にだろう顔を左右にイヤイヤと振る仕種とか。すっかり上気した頬に解れた金の髪がはらりとかかるその様が、僕の胸に震えを伝えてくる硬く握って押し付けられているその両手が。そして、なによりその熟れた桜桃のような唇から紡ぎ出される吐息と、それまで聞いた中のどれよりも僕の官能を刺激する甘やかな声が。
僕の中から、僕の決して表出させてはならなかった“男”の部分を引き摺り出してしまった。
そのときだった、僕は自分の頭の後ろのほうで、何かが弾けるような、乾いた木の枝がぱしんと折れるようなそんな音を、確かに聞いた。
ごめんなさい兄さん。こんな弟で。
でも、昔から僕はこうだった。
一番大切なのは兄さんだけど、その存在からまるで自分の意識を逸らすかのように、異性や、より庇護欲を満たしてくれるものや、刹那的な快楽を与えてくれるものたちに自身の幸せや居場所を見出そうと必死だったんだ。そうしようと無意識に行動している自分自身に対する疑問さえをも、またさらに頑強な無意識で押さえつけながら、もうずうっとあなたの側で生きてきたんだよ。そうしなければ、あなたが僕に求めている“弟”というスタンスで、あなたの一番近くにいることが出来なかったから。
そうなんだ。
僕は、一人の人間として、血の繋がりとはまったく別の概念で、兄であるあなたの事を、エドワード=エルリックを、愛し続けてこれまで生きてきたんだ。
兄さん。こんな僕にきっと失望してしまうよね?失ってしまった右腕だけでなく、その命まで懸けてようやく取り戻した弟が実はこんな歪んだ愛欲を持つ人間だったなんて知ったら、一体どんな気持ちになる?悲しくなるでしょ?それとも絶望する?僕を憎みたくなる?すくなくとも、潔癖な性質を持つあなたがそんな僕に嫌悪の念を抱かないわけがない。きっと、軽蔑されてしまうよね。
でも、たとえそんなことになってしまっても、兄さん。
愛しているよ。・・・だから、嘘でもいい。僕を嫌いになったなんていわないで。お願いだから。
今だけでいいから、すきだって・・・・・・「僕が好きだ」って、言って 。
その一言さえ聞くことができたら、僕はきっと、この先なにがあってもどんなにつらくても、
たとえたった一人になってもきっと、生きていくことができるから。