ひかりへと続く扉2−H最後のぬくもり

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

もう何年もの間戸棚の奥にしまいこんだままだった赤いギンガムチェックのテーブルクロスを引っ張り出し、庭に咲いていたかすみ草の花を少し切ってそれを小さな花瓶に生けた。

弟の好みに合わせた野菜中心の簡単なスープと硬めに茹でた卵、トマトだけのサラダ。たったこれだけの質素なメニューだけれど、彩り豊かなテーブルがアイツの目にどう映るのかと、俺はまるで子供のようにそわそわしながら身支度をすませた弟が降りてくるのを待った。

 

 


 「おはよう兄さん。どうしたの?今日は早いんだね」

 

 ブリーフケースと何かの資料らしき数冊のファイルを小脇に抱えてダイニングに入ってきた弟は、いつもと違う様子のテーブルに目をやるなり不思議そうな表情を作った。

 

 「ええ・・・と、ごめん兄さん。僕が覚えていないだけで、今日は何かの記念日だったりするのかな?」

 

 アルフォンスが失くした過去の記憶を埋める為に、俺はこれまで俺たち兄弟が辿ってきた経緯を包み隠さず詳しく話して聞かせていた。けれど今日は、過去特別何かがあった日ではない事に疑問を抱いたのだろう。

 

 「別に何の日でもねェよ。ただ久しぶりにえらくスッキリ目が覚めたからさ、ちょっと気分を変えてみようかと小洒落たことなどやってみた」

 

 弟の反応に、急に照れくさくなってしまった俺は、おどけた口調でそう言いながらポットから熱い紅茶をふたつのカップに注ぎ入れた。

 そのぼんやりと立ち上る湯気の向うに見える弟の表情が、どういうわけか暗く、まるで怒りを噛み殺しているような不可解なものに変化するのを、俺はわけも分からずに見ていた。

 

 「どうした?アル?何か、あったのか?」

 

 「・・・・・何かって?何もないよ。だって兄さん、今何か僕の気に触ることでもした?してないでしょ」

 

 そう言ってあからさまに『作った笑顔』を向けながらテーブルにつくと、困惑して立ち尽くしたままの俺を促し、早速スープを口に運んでいる。その向かい側のいつもの席に座り同じように食事に手をつけながら、何か明るい話題でもと弟のほうを見れば、まるで俺の存在を無視するかのように皿の横に広げたファイルに視線を落としていて、結局声を掛けるきっかけさえ掴むことが出来ないまま朝食の時間は終わった。

 

 

 

 残された時間は僅かしかない。このままアルフォンスと離れてしまうだろう事に一抹の寂しさを感じつつも、俺はもう諦観していた。これでいいのだ、と。幸せはもう、自分の胸の中に確保してあるのだから、これ以上何を望む必要があるのか・・・・・と。

 

 

そうして、それと似たり寄ったりの朝の風景がその後も繰り返され、いよいよ俺が北へと赴く日を明日に控えた夜。この日もやはり、アルフォンスの帰宅は遅かった。

 

一人静かに夕食を済ませ、当分の間はゆっくりと浸かることも出来なくなるだろうからと、たっぷりと湯を張ったバスタブで、感傷的になってしまいそうな気分を無理やり難解な構築式を反芻することで誤魔化しながら身体を伸ばした。

 

湯の中で揺らめくように見える、自分の生身の両手両足にふと目をやる。記憶を失くしたままのアルフォンスだから、この生身の手足を取り戻せた事を喜び合う事はついぞ叶わなかった。心残りといえば、それがそうともいえた。

 

「なんて・・・・・な。これも俺の一方的な感傷だよな」

 

笑い、独り言ちながら湯から上がる。バスローブを羽織り、ガシガシと髪の水気を拭きながら階段を降りていると、乱暴に玄関の鍵を開ける音がして俺は何事かと一瞬身構えた。アルフォンスならば、そんな開け方をするはずがないからだ。

しかし、これまた大きな音を立てて乱暴に開かれた扉から室内へと入ってきたのは、明らかにいつもと様子の違うアルフォンスだった。

 

室内に入るといかにも億劫そうな仕草で鍵をかけ、手に持っていたブリーフケースと朝見たときよりもさらに数冊増えているファイルを乱暴に足元の床に投げ出すと、壁伝いにずるずるとその場でうずくまってしまった。

 

まさか、どこか具合でも悪いのだろうか。まだ俺が見ている事に気付いていない弟に駆け寄り、そのすぐ横に膝をついて項垂れている表情を見ようと覗き込んだ。少し近づくだけで漂ってくる強いアルコールの匂いに、相当の酒量を過ごしたのだとすぐに分かった。

 

「・・・・やあ、ただいま兄さん」

 

横にある俺の姿をみとめると事務的な笑顔を向けてくるが、酒に酔った人間にあるまじきその顔色に俺はぎょっとした。


 「待てお前、真っ青だぞ。気分悪いのか?とりあえず階段登るのはキツイだろうから下の部屋で休むか?」

 

その腕の下に肩を入れて、立ち上がらせようとした瞬間だった。気が付けば俺は床に尻もちをつくような姿勢で、自力で立ち上がった弟を見上げていた。アルフォンスが、俺を突き飛ばしたのだ。まるで俺に対する憎しみさえ感じさせるその様子に、ようやく何かがあったのだと思い至った。

 

「アル?どした?もしかして、サーシャと何かあったのか?喧嘩でもしちまったのか?」

 

最近の弟の入れ込みようを目にしていたから、俺はごく当然のようにそのセリフを言ったのに、弟はいかにも忌々しいといった渋面を作り、舌打ちをする。玄関の鍵を開けるところから、ことごとく普段の弟の様子とは違う事に、俺は戸惑いを覚えた。酷く酔っているとはいえ、あまりにもアルフォンスらしくないのだ。

 

俺を無視してふらつきながら階段を登っていくのを支えようと伸ばした手さえ乱暴に振り払われ、途方にくれながらも放っておく事などできないから、黙って弟が自室のベッドにたどり着くまで後を付いて行った。

 

ドサリとベッドに倒れ込む弟の靴を素早く脱がせてから、玄関に投げ出したままのブリーフケースとファイルを思い出し、それを取りに行こうと踵を返したところで今日初めて意思を持った弟の声が俺にかけられた。

 

「兄さん、嬉しそうだね・・・・・僕とサーシャの間が上手くいかない事が、そんなに嬉しいの?」

 

どう返したらいいのか、言葉に詰まった。

 

俺は、嬉しそうにしていたんだろうか?アルフォンスとサーシャの仲が壊れれば、またアルフォンスが俺の元へ戻ってきてくれるかもしれないと、それに喜びを感じていたのだろうか?

 

弟の幸せを望む兄でいたつもりの俺の薄っぺらな欺瞞を暴かれたような気がした。

 

でも、これは俺が何としてでも死守しなければならない最後の一線だった。もう兄としてでしか関わる事が出来ない自分が『兄』でさえなくなってしまえば、俺はアルフォンスにとって要らない人間になってしまうのだ。


 

「馬鹿言うな。待ってな、今お前の鞄取ってきながら水でも持ってきてやる・・・・・」

 

言いながら再びドアの方を向いた俺の腕を、後ろから強い力で掴まれた。冷たい手だった。

 

それに振り向く間もなく、ベッドの上に引き倒され一瞬後には仰向けに貼り付けられた俺の上に弟の大きな身体が乗り上げる様な体勢になっていた。

 

 

スタンドライトのオレンジ色の光に照らされて浮かび上がる無表情の顔にじっと見下ろされ、俺はまさに蛇に睨まれたカエルの心境だった。少しでも動けば次の瞬間には喰われる、そんな恐怖に襲われていた。

 

 

 

「・・・・・・・ねえ、もうずっとしてないね。いいよね?もうシャワーは済んでるみたいだし・・・さ」

 

 

こいつは一体何を言っているんだ?

 

 

何の感情も感じさせない声で耳を疑うようなセリフを落とされ、俺は体中の皮膚という皮膚が泡立つのを感じた。軽く前を合わせただけのバスローブ姿だっかたら、弟の目にもそうと分かったようだった。引き攣れたような不気味な笑い声を小さく上げて、その冷たい掌で俺の胸を直に撫でてくる。

 

 

「どうしたの?気持ち悪いの?あまりにも久しぶり過ぎて、男に抱かれる感覚を忘れちゃったのかな。また、思い出させてあげなくちゃいけないね・・・・・あなたの身体が、どんなふうに変化して、どんなふうに男を受け入れるのか」

 

「ふざけるのも大概にしておけ。俺を怒らせたいのか?退くんだ、アルフォンス」

 

震えないように、強い口調でそう言うのが精一杯だった。俺は恐怖と迷いの挟間にあって、実は指一本たりとも動かすことができなくなっていたのだ。

 

その俺の状態を知っているのか、弟は乱暴にバスローブを前をはだけると無遠慮に、乱暴に俺の身体のあちこちを好き勝手に弄りだした。

 

やめてくれ。俺たちはもう、普通の兄弟に戻ったんじゃなかったのか?俺はお前の兄に戻れたんじゃなかったのか?

そんなふうに触れないでくれ。もう恋人でもないのに、何でそんな事をしようとするんだ。これでは、俺はお前の兄ですらいられなくなってしまう。

 

 

「少し・・・・痩せたみたいだ」

 

ぽつりとそんな独り言めいた言葉をこぼしたのを最後に、アルフォンスはもうその口を開く事をしなかった。


 至る場所に掌を指を這わせ、時折爪が皮膚を傷つけるのにも構うことなく、あらゆる場所に喰らいつき、吸い上げ、舐り、まるで意思のない人形でも抱くかのような一方的なその行為に俺は全く抵抗らしい抵抗をする事ができない・・・・・・・・拒むことが、できなかった。これが最後なのだという浅ましい気持ちが、拒絶する気持ちを凌駕してしまったのだ。

 

 

だってきっともう一生、こんなふうにアルフォンスに触れられることはない。もう、二度と。

 

 

 

暗く、悲しげな表情のアルフォンス。サーシャと、何かすれ違いでもあったのだろう。

 

アルフォンスはアルコールの匂いを撒き散らしながら、俺の身体を貪り食らうように無心に弄り続けた。抱かれている・・・・・・いや、犯されているといった方が正しかった。何故ならその間中、俺はほんの僅かの快感すらも覚えてはいなかったのだから。ただ強引に押し入ってくる熱に引き裂かれ、激しく揺さぶられ、苦痛のあまり無意識に逃れようと動く体を乱暴に引き戻され、弟の体の下でその背に腕を回すことさえ出来ないままこらえ切れない悲鳴を上げ続け、むせかえる様な血の匂いの中・・・・・やがて、俺は意識を手放した。

 

 

 

明け方、ひとり弟のベッドの上で意識を取り戻した俺は、自分の身体に違和感を覚えた。確かに無理やり侵入された事で、裂ける様な激痛とぬるりとした血の感触とその匂いを覚えているのに・・・・・・今感じるのは、わずかに疼く鈍い痛みだけだった。周辺に目をやっても、あの行為による痕跡はほとんど感じられなかった。ほんの数時間前の出来事のうち、どこまでが現実でどこからが夢だったのか、まったく分からなかった。でも、自分で感じる身体の様子で、およその見当はついた。俺の身体は、行為の途中で捨て置かれたのだろうと。

 

 

不安定になった弟の心が無意識の習慣で、俺の身体を求めたに違いなかった。でも、そんなのは最初だけで、いざ兄である男の身体を組み敷いた後、柔らかい女の身体との違いに正気に返り、最後までその行為を続けることができなかったのだろう。当たり前だ。自分と同じ男の身体なんかに情欲を感じる種類の人間ではない弟が、どうして俺の身体などを欲しがるというのか?

 

 

 

 

 俺の心を凍えさせたのは、行為そのものの記憶ではない。アルフォンスがその間、ただの一度もその唇で俺の唇に触れてくることがなかったという悲しい現実だった。

 

 

 

恋人ではなく・・・・・・そしてもう、兄でさえない。

 

俺はもう、アルフォンスにとって何者でもなくなったのだ。

 

唯一のよすがであった『兄』という名さえ、アルフォンスの最後のぬくもりと引き換えに手放してしまった俺は、もうあいつの近くに居て良い人間ではないのだ。

 

 

それを、イヤと言うほど思い知らされた。

 

 

でも、それで良かった。これでもう、置いていく心がなくなった俺は重い荷物を背負う事無く、痛覚を失くした空っぽの心で暢気に生きていけるだろうから。

 

必要最低限のものだけを詰めたあの懐かしい古びたトランク一つと、弟との平穏で幸せだった日々の思い出とあの身体のぬくもりの記憶があれば、他に必要なものなど何ひとつありはしないのだ。


 

薄いカーテン越しに淡い光が差し込み始めている。アルフォンスは、多分チェルニーが使っていた1階の予備室で眠っているのだろう。丁度良かった。顔を合わせたところで、今更互いに掛け合う言葉など、俺達の間には存在しないのだ。このまま顔を合わせずに、俺はこの家を後にすればいいのだ。

 

 

夜明けが、近かった。

 

 

 

 

 

 




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